ネットと相対性とありがとうについて

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料亭とホテル。宝来町にて。

前々回の記事で多くのコメントをいただいた。また、論議もあった。その元となったのが私の発言であり、このブログの主宰者である以上、それらに対する私の考えを示さなければならない。ただし、〇〇さんのこの発言に対してという形式はとらない。私の考え方を改めて示すのが目的だから。

多くの人々が何らかの場を利用して自分の考えを述べ、論を交わすのは素晴しいことだ。もし、私のブログでそれが活発に行われるのなら、私は主ではなく、司会者と一コメンテーターの存在であってもかまわない。何故なら、このネットには無限の可能性があるからだ。
もちろん、これには善意の論議が必要だ。個人への誹謗・中傷や匿名性を悪意で利用した言葉などは許せない。また、つまらない営利目的の発言等があったら、管理者として削除するが、単なる考え方の違いでの議論は大いにすべきである。ルールはそれだけである。何を発言してもいいと思う。形式も関係ない。

私たちには議論の場があまりにも少なかった。一部の人間同士が交わすことはあっても、平凡に暮している人の声はなかなか世論には反映されなかった。民主主義国家の国民でありながら、民意とは別の場所で物事は決められていた。
ところが、ネットの登場によってそれが大きく変化した。パソコンや携帯電話を所持していれば、誰でも自分の意見を世の中に伝えることができるようになったのだ。それが、函館のことについて語られれば、函館市民の声ができる。国規模になれば国民の世論となる。また、それが世界中の人間が一つのサイトで議論を交わせば、それが世界中の意志の表明となり、国境は不要になる。世界市民の誕生だ。
かなり飛躍的な発想だが、全く不可能であるとはいえない。それ程の可能性をネットは含有している。
だから、悪意でないものは何を発言しても制限すべきではないと考える。可能性を潰してはいけない。


私たちは時には論理的に話そうとしたり、時には感情的に話そうとする。そのどちらも真理であり、どちらも意思表示である。論理は説明手法としては有効だ。しかし、論理に絶対性はない。表現方法の一種である。
科学論理もそうである。例えば、1㎝の物体があったとする。だが、これは1㎝というものさしを知っている者だけに説明できる論理である。1㎝という概念のない者にはそれ以上の説明はできない。何故なら、1㎝という単位は便宜的に作られたものであり、絶対性を元々有しているものではないからだ。この便宜的な決め事からスタートさせた科学論理は、この長さが1㎝としてという仮説から逃れることはできない。
そう、すべては仮説なのだ。仮説である以上、それは思想なのだ。だから私は竹内薫氏の著書「99.9%は仮説」を支持する。氏がその著書のなかで記述している通り、物事は相対的に考えなければならない。私がこの考え方に達したのは約30年前のことで、それは精神分析を勉強して自然にその考え方になった。

もし、科学的論理性というものを信じているのなら、突然変異とか例外的にという言葉を廃絶させなければならない。この言葉がある以上はすべて仮説であり、思想なのだ。
だから、私たちはまずすべてを受け入れなければならない。そこからスタートしなければ、ただ排他的な「思想」になるだけであるから。


さて、その相対的な見方で函館のことを考えてみよう。

函館は陸の孤島である。北海道に誕生したどの都市からも車で4時間以上かかってしまう場所にある。見方によっては北海道で取り残された都市ということもできる。そのせいなのか、函館は北海道にありながら北海道ではないとよく言われる。それくらい独特な存在である。
それはある種の閉鎖性も意味している。
よく、他都市から転勤して来た者から、函館の人はとっつきづらい、と言われる。よそ者を差別しているという感覚を覚えるらしい。よく言えばプライドが高いということになる。悪く言えば、それだけしかない。
昭和のある時期に北海道の中心的存在を奪った札幌は、大いなる田舎だった。人口が急激に増大するが、所詮田舎者の集まりだった。田舎者は人恋しい。だから、同じ田舎者同士優しく接し合っていた。それが街全体の雰囲気となった。本州から来た者が「機能性は都市型だが、人間性は田舎の暖かさがある」と言って、本州への転勤を拒否し退職して棲みついたりした。観光客も多いが、「食べ物も美味しいし、人もいい」からとの理由がある。函館のように観光する場所など殆ど無い札幌に観光客が多数訪れるのだ。(私のイメージではそれも人口120万人くらいまでの札幌であるような気がする。以降はただの都会になってしまっているという実感がある)
函館はどうだろうか?元々中心地としてのプライドがあったにも拘らず、その裏づけが存在しなくなりアンバランスになった自我を閉鎖性で補おうとしているのではないだろうか?現実すべてを受け入れたら自我が崩壊するという危機感から無意識に排他的で自己完結的な思想になろうとしているのではないだろうか?
ところが、経済的には観光に依存さぜるを得ない。独自の基盤産業であった漁業や造船業の斜陽化によって本当はあまり受け入れたくない観光客の相手をしなければならなくなった、と、無意識の中にないだろうか?

もし、この私の言葉に猛烈な反感を感じたら、それは自我の危機に直面した証拠である。
冷静に思考しておかしいと思ったら、私の仮説が間違っているのかもしれない。

私たちが大好きなこの函館を守るためには、一度すべてを受け入れてみることである。そして、その出会いに「ありがとう」と心で呟いてみることである。取捨選択するのは、その後からでも遅くない。
by jhm-in-hakodate | 2010-03-09 02:11 | 社会・経済について | Trackback | Comments(2)
Commented by midy at 2010-03-09 22:51 x
blogを主宰するってけっこう大変ですね。
函館の魅力っていろいろありますが、「美味しい食べ物」「変わった食べ物」も大きな魅力のひとつであることは間違いない!(とんでもなく不味いラーメン屋さんもあったけど)
そんな美味しいものを食べようと入ったお店で「雑な客あしらい」で不愉快な思いをしたとしたら・・・。
これはサービス以前の「マナー」の問題ですよね。
自分が営んでいる店に来てくれる客にたとえ函館流であったとしても「無礼」があってはいけませんよね。
jhmさんのおっしゃる通り「ご来店有難うございます」って気持ちがあればそんなことになるはずがない。って思いません?
以前帰省した時に入ったラーメン屋さんで、よそ者の顔して「この店のお薦めは?」って尋ねたら、即「函館初めてでしたら塩ラーメン食べてみてください」と返って来た。お店にはもっと高額なメニューもあったのにです。食べ終わった頃に「どうですか?これが本当の函館塩ラーメンです」「内地の塩ラーメンと違うでしょ?」「うん、美味しかった!」
丁寧な言葉遣いでもなかったし、お愛想笑いがある訳でもなかったけど、味もさることながら十分な満足感を味わった「一杯のラーメン」物語でした。
Commented by jhm-in-hakodate at 2010-03-09 23:44
そうですね。気の利いた言葉やサイズの合わない服を着たような言葉を話す必要はないです。気持ちは必ず伝わります。
前から思っていたのですが、函館はB級グルメの美味しい街なのではないかと感じていました。庶民が気楽に食べるような物に独特のこだわりや味わいがあり、また、そこが函館の素晴しい部分ではないかと思います。
観光地にそのような店が集まれば、きっと他の観光都市にはない面白さを表現できるのではないかと考えたりします。