「謝ったら負け・・・」補説/I shall be released

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外人墓地近くの夕陽。

昨日のブログ記事は、閲覧されるのが日曜日という全体的に閲覧数が減少する日のわりに数多くの方がご覧になった。タイトルがタイトルだけに関心を持っていただけた方も多いだろうが、反論や疑問を持った方もいらっしゃっただろう。
また、いただいたコメントもいろいろな角度の視点からだった。

自分で自分の記事を読み返してみると、自分が言い表したいことの3分の1も書かれていなかった。たいしたことのない内容のものだったら、まぁいいか、この次何らかの時に付け加えればいいか、とそれ程気にしないのだが、閲覧数とコメントから、もう少しきちんと説明する必要があると思い、補足説明という手段をとることにした。

まず、接客についてだが、私は函館の接客は物凄く酷いとは思っていなかった。過去の記事で書いたが、私の若い頃は物を買っても決して「ありがとうございます」とは言われなかった。それに比べたら、今は雲泥の差である。それほど昔の函館には「殿様」が多くいた。
まして観光が主産業となった今、そんなに酷いことはないだろうと思っていた。ところが、函館に住み始めるとあちこちから聞こえる声と実際に接する「函館人」の一部に、確かにまだ「殿様」そのものと「殿様」の資質を持った人間が多くいることに気付いた。

そして今回の若手社員のことで、何かを発信しなければならないと感じ、昨日の記事となった。

函館ではないが、以前札幌で仕事をしている時、企業へ電話でアポイントを取り、訪問・営業するということを行っていた。もちろん、いくら電話とはいえ相手の業務中の貴重な時間をいただいて話をするのだから、こっちとしても極力丁重に話をしたつもりである。
こちらの誘いかけは圧倒的に断られるのが多い。それは仕方がないことだ。ちょっと電話をしただけで商談がまとまるならこんな楽な商売はない。数多く電話をして、何とかアポイントを取っても実際に話が進むのはその僅かだ。それが営業の仕事であり、宿命だ。だから、きちんとした会社がきちんと理由を述べきちんと断られた時には、変な話、とても気持ちがいい。
だが、中には営業の電話とわかるとまるで邪魔物を追い払うかのように電話を一方的に切ったりとんでもない汚い言葉で断る企業もある。そんな時、私はいつも「この会社は大丈夫なのだろうか?」と思ってしまう。なぜなら、確かに私は営業マンとして電話をかけたのだが、同時に私は消費者でもあるのだ。そんなこともわからない会社なのだろうか、と思ってしまう。そんな対応をされた時、いっぺんにその企業のイメージはダウンする。
そのような企業は販売先が企業という会社に多い。直接エンドユーザーと接しない業種だ。だが、そんな企業でも最終的には自社の仕事はエンドユーザーが利用するものに関わっているはずだ。例えばある製品の部品を作っている会社があるとする。その部品を私たちが直接購入することはない。だが、その先には必ずエンドユーザーが存在するのだ。その消費者のことを頭に浮かべずにいい物は果たして作れるのだろうか?そんな時は、その会社の納品先の企業まで疑ってしまう。
これは完全にその企業の視野の狭さを露呈したことを意味する。自分が関わっている業務の直接の相手しか目に入っていないのだ。

残念ながら、函館にはこの構図に当てはまる人々がけっこういるようだ。どのくらいの割合かはわからない。が、忘れた頃にまるで「しっかり覚えておけよ」と言わんばかりにそのような現象を体験することになる。
例えば自分を雇っている人間は大切だが、業務として接している他者は目に入らない、とか、ひとつのグループ内での自分の立場は守ろうとするがグループ全体のことは軽視するとか、そんなことだ。

どうしてなのかと考えたら、その一因として昨日の原因が考えられた。そして、同時にとても寂しくなる。自分が好きな街のことだから悲しくなってしまうのだ。

どうか、皆さんもこの蜘蛛の糸のように絡み付いた社会的相関関係を考えていただきたい。そしてreleasedされて欲しい。


I shall be released

この寂しい人ごみの中で
僕の隣に立っている男が
自分は非難されるべきではないと言う
一日中 彼は大声で叫び続けるんだ
自分は陥れられたんだと

西から東に向かって輝く
僕の光が見える
いつだって いつだって
僕は解き放たれるだろう
                                  (作詞 / Bob Dylan)
by jhm-in-hakodate | 2010-07-05 00:52 | 函館の現状について | Trackback | Comments(0)