函館と戦争、そして戦争そのもの
明日は終戦記念日である。何日か前からテレビで戦争にまつわる話が放映されている。
函館の戦争の被害について、本日の北海道新聞に道南の戦争に関連する場所や人の紹介があった。上の建物は昨年4月に撮影したものだが、その後市内の郷土史研究家の方から、所有者が戦争の悲惨さを残すために解体をせずに保存しているという建物があるという話を聞いたことがある。写真の建物だと聞いたような気がしたが、記憶がおぼろげだったため、この写真の解説としてその話を使用しなかった。
それが本日紙面で確認できたため、上述のように改めて紹介した次第である。
さて、仰々しいタイトルを掲げた割に私は函館の戦争のことは知らない。その理由のひとつとして考えられるのが、両親が戦時中函館に居住しておらず田舎に住んでいたため生の体験談を聞くことができないということもあるが、別の理由として、余り誰も語らないために戦争を体験していない人間に何も伝わっていないということもある。
私が知っている函館の戦争のことと言えば、市内の現在の弥生小と西中近辺が空襲の被害にあったこと、函館山の砲台、青函連絡船襲撃、戦後の慰霊堂近くの難民の掘立て小屋生活(写真による)等とても限られている。あと、噂として戦時中の朝鮮人への強制労働くらいのものだ。
だが、私の幼少期にテレビで放映していた映画やドラマは戦争にまつわる物語ばかりだった。暗い話で、子供としては面白いものではなかったが、確実に戦争というものが産み出す悲劇を叩き込まれたのは間違いなかった。
だが、歳が若くなればなるほど、戦争で被害を受けた地域は、東京や広島や長崎くらいしかないのではないかと思っている人が多くなるのではなかろうか。それほど戦争の「生の体験談」は風化を続けていると思う。だから、次に述べる私の戦争に対する考えを、戦争という実感がより乏しい人が聞いたら馬鹿げた者だと思うかもしれない。だがそれを承知で述べる。
戦争に賛成する人は、もし戦争が勃発したら最前線に立ち、全身に銃弾を浴びてほしい。その覚悟があって初めて戦争やむなしと話してほしい。
戦争はバーチャルではない。「実際に」あった、そして今も「実際に」ある事実なのだ。
「戦争に賛成する人」ってのはそんなにいません。多くの軍人も軍需産業も戦争を望んでいるわけではないのです。
昔とは違い、経済浮揚策としても戦争は今や役に立たないことが検証されているとか。
ただし私個人は、このまちとこの国とそこに住む仲間たちのために役に立つのなら、おっしゃる通りいつでも命を捨てようと思ってます。
・・・っていう人もいるのかーと思ってください。
望んでいなくとも「仕方ない」と思ったら賛成と一緒だと考えます。本当に絶対に戦争が嫌であれば、起こさないためにはどうしたらいいのか必死に考えるはずです。そしてそれが日常の考え方に通じてくるはずです。
例えば公共事業のように頻繁に戦争を行っている国は、実力主義の総本家みたいな国です。このように関係なさそうなところまで必ずその考えは通じています。
自分が死ぬということは、自分の愛する人も死ぬ、また、自分の愛する人が哀しむ。それが戦争だと思っています。このことを私たち日本人は嫌というほど体験したはずです。
9.11の被害者の家族が報復の戦争に大反対したのを覚えていらっしゃいますでしょうか?誰も死んではいけないのです。誰も殺してはいけないのです。本文とは違う言葉となったように思われますが、戦争を起こす仕掛け人は、「自分の身の安全は担保されている」と思い込んでいる人です。たまにテレビで戦争誘導的な発言をする人がいますが、その方にピストルを向けた時、同じ言葉を発するかどうかはなはだ疑問であります。キトラさんのことではありませんよ。
戦争が勃発しても前線に行って銃弾を浴びるなんてことができるのは少数ではないかな。
資源がなく食糧自給率が低い日本では,戦争になったらすぐに食べ物がなくなるんですよね(北海道だとそうでもなかったのでしょうか)。石油もすぐに底をつきます。私の父母も戦後まで食べ物がなくて本当に苦労したようです(空襲にも遭っていますが)。南方の戦地に行った人も,餓死や病死の人が多いのです。自分だけじゃなくて,親も兄弟も子供も飢えて栄養失調で死んでしまったりします。
卑近な考えなのですが,そうなったら絶対に嫌ですよね。だから,そうならないために頭を使うべきたと思うのです。
工業製品の輸出で成り立っている日本は平和でナンボの国であることを自覚し,最後まで冷静に知恵と言葉で戦略的にしたたかに立ち回わらなくてはいけませんが,日本はそういうことが苦手...
うーむ。
西中学近くの「蔵」は知っておりましたが、この建物もそうなのですか?
暴漢にピストル向けられ、自分もピストルを持ってたら、暴漢に銃口を向けませんか? 私は向けるし、引き金を引きます。 ビビッて引けないかもしれませんがね。
そりゃ、一般的な人間の大部分は戦争に反対と思いますが、自衛的な戦争も否定されては、生存権の否定にもなってしまうのでは?
今思えば米ソの冷戦のような対立が最良だったのかも。
使ってしまえばハルマゲドン的な武器を向け合って、お互い一歩も動けなかったしね。 微妙な平和でしたが、お互い誰が敵かがハッキリしていたいし。
大まかに言えば戦争に反対ですが、時と場合によっては賛成。
「戦争に賛成する人は、もし戦争が勃発したら最前線に立ち、全身に銃弾を浴びてほしい。その覚悟があって初めて戦争やむなしと話してほしい。」 に関してですが、最前線に立つなら「敵の全身に銃弾を浴びせる覚悟」で立ちますね。 浴びせられたら「はい、それまでよ」で結構。
自分や家族にピンチが訪れたら、殺人だって犯す覚悟で生きていますしね。
どうかご理解ください。また、本日の私の記事に関しても是非コメントいただくようお願いいたします。
鍵コメント様、もしお会いできる場所に住んでいらっしゃるのなら一度お会いしてお話を聞いてみたいというのが率直な気持ちです。
それができなければメール等での連絡方法はとれないでしょうか?お返事お待ち申し上げます。
これは現地での確認が必要ですが、もし炭化している部分があったとしたらこの木造建物も被災したものと言えるでしょう。
函館どつく、太平洋セメントには強制労働、収容所があったのは事実です。函館は道内の各地に向かう強制労働民の玄関口であり、脱走する防波堤としての役割も持っていました。そして有川埠頭にも勤労隊、アメリカ人捕虜が動員されたそうです。
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