函館の街を撮るためには

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カモメの定番休憩所と灯台。入舟漁港にて。

以前から本ブログを見ていただいている方はご存知だと思うが、私の写真は函館の建物や街並を撮影したものが圧倒的に多い。事実、函館の建物も街並も好きであるし、これは変わることはないと思う。
だから、ちょっとした角度でも変わるきまぐれな函館の表情を逃さないため、極力撮影は歩きながら被写体を見つけるようにしている。

だが、もう数え切れなくなったくらいの数の写真を撮っていると、建物や街を撮っても何かが足りないような気がしてならなくなる。技術は勿論のことだ。他の人が撮った素晴しい写真を眺めると、時々自己嫌悪に陥ることがある。どうして自分はそんな風に撮れないのか?
しかし、それだけではない。もうひとつ足りないものがあった。それが先日発表した写真で確かに自覚した。それは、その時コメントしたが、やはり人だった。

郊外の自然を撮影するならともかく、どのような場所でも「街」を撮る時、人が写っていた方がいい。街と人、それで「街の写真」は完成する。もちろん必ず両方なければならないというわけではない。街の写真を撮影しても、建物を撮影しても、「人」を感じさせることはできる。人間の想像力をかきたてるもの、写真にはそんな力がある。
だが、なかなか全部そのようにはいかない。もし、それができたなら個展を開くことだってできるかもしれない。

そこで、最近人を一部に入れた写真を撮るようにしている。先日も八幡坂で「写真を撮ってください」と頼まれた若い女性2人組に、逆に「写真を撮らせてください」と頼み返した。できた写真はメール添付で送信する約束をして八幡坂をバックに写真を撮らせてもらった。お礼として、近くの遺愛幼稚園をバックして撮ってあげた。
彼女たちはとても喜んだのと同時に、本当にいいの?という半信半疑の様子も窺えた。まぁ、怪しいオヤジが撮影するのだから、それも無理はないことだ。

彼女たちは、大学4年生で就職も内定して1泊2日で遊びに来たと話してくれた。「旅行先に函館を選んでくれてありがとう」と、私は彼女たちに感謝した。私の一眼レフは相変わらずフィルム式で、フィルムを使い切っていないため、どのように彼女たちが写っているか、今はわからない。綺麗に撮れていて喜んでもらえたらいいのだが。

明日、「建築家展」で札幌から来られている建築士と会うことになった。その方とは私の札幌時代にとても楽しい仕事をさせてもらった方である。なぜか馬が合い、私が札幌を離れても連絡を取り合っていた。もし本人の許可が取れれば、輝く表情を是非撮影したい。そして函館の建物について語り合いたい。

本当に、そこに人がいると面白い。
by jhm-in-hakodate | 2010-09-04 01:11 | その他雑感 | Trackback | Comments(2)
Commented by midy at 2010-09-05 17:08 x
どう写真を撮るか?って確かに自問自答すること多いですね。
記録として撮るのか?芸術性を求めるのか?スナップが良いのか?親しみやすさを演出するのか?
絵のスケッチでは「風景に人物を配すると絵が生き生きする」なんてこと言います。
ところがこれが難しい。どこにどう入れるか?男か女か子どもか大人かで絵が違うものになっちゃうからです。邪魔にならないところに邪魔しないようにが原則なんですが、入れちゃってせっかくのスケッチを台無しにすることたびたび。
jhmさんのように沢山の函館の写真を撮って来た方が、ただの記録ではなく、生活感のある写真をというのは良く判ります。
長年、雑草や野草を撮るのをメインにしていますが、ただ花のアップの記録から周辺の風景も取り込んだ写真へと変わったり、マクロにこだわったり、ロングで狙ったりと時々で変わりっぱなし。
その時の気分次第で撮ってます。趣味の範疇を出れないのはそのせいかもしれません。でも、それでもいいや!なんて近況です。
Commented by jhm-in-hakodate at 2010-09-06 01:56
この頃、この風景を撮ろうと思ってレンズを向け、ファインダーを覗いた瞬間に、何かが違うと撮影を中止することが多くあります。
まだまだ迷っているのだと思います。本当に写真は奥が深いですね。