人を信じることと交通ルール

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元町・旧寿湯。ここを通るといつもじっと見てしまう。元町に庶民が少なくなったのは確かだ。

みなさんは交通ルールを守る時、どんなことを考えるだろうか?こんなことを突然問われても答えに困ってしまうと言うかもしれない。そう、ルールを守らなければ事故になってしまうから、考えるとか考えない以前に自然とルールを守って走行していると思う。

だが、規則は破られるためにあるという。交通ルールに関しても平気で破って車を走行させる者がいる。
もし、半分の人間がそのルールを犯して走行したらどうなるだろうか?例えば、逆走。左側車線に対向車が次から次へと向かって来たら、とてもまともに走ることはできない。誰だって怖くて車を運転する気にすらなれない。つまり、我々が安心して走行できるのは、そこに交通ルールがあるからだけではなく、ルールを人はきちんと守ってくれるだろうという人間に対する「信用」があってこそ初めてできることだ。

つまり平気でルールを破って自己本位の運転をする者は、人々が互いを信用して作り上げた「安全」を悪用するとんでもないずるい人間なのだ。北海道の運転マナーが悪いと言われるということは、それだけずるい人間が多いということだ。また、ルールを守って走行している人間の行為に甘えている子供であるとも言える。

信号無視するのも、他の車が信号無視をせずに、それによってできた安全を利用するという思い上がった無意識の考えからの行為である。全く甘えている。
これを逆の見方をすると、人なんか信用できない、と思っているつもりの人でも、普通に車を運転しているということは、結局人を信用しているからできることなのだ。本当に人を信用できないのなら、いつどこからとんでもない運転をする車が現れて自分に被害を与えるか心配で運転などできないはずだ。その人も、人が信じ合わなければ世の中が成り立たないという事実から目をそむけた甘え者である。

そう、交通ルールに限ったことではない。人は好む好まぬにかかわらず、人を信用しなければ生きていけないのだ。きれい事ではない。そうしなければ生きるか死ぬかの毎日を過ごすこととなる。
明日何があるかわからないから今だけを信じる、という人もいる。その人は日銭を稼いで生きているのだろうか?給料取りは給料日という未来をちゃんと信じて生きているのではないだろうか?もし明日を信じれないのなら、今日の分だけの金があればいいはずだ。月給などというまとまった金は必要ないはずだ。

ちょっと話が脱線したが、ともかく「人を信じる」というきれい事をしなければ我々は生きていけない。騙される方が馬鹿だという人は、交通ルールを破る人と同じく安全・安心を悪用したものの考え方をしている。
きれい事を実行するには多大なるパワーが必要だ。だが、私を含めて多くの人は楽をしたいからきれいでないことをしたがっている。それだって自分に対する大きな甘えであると思う。
by jhm-in-hakodate | 2010-12-13 23:50 | 社会・経済について | Trackback | Comments(0)