アメリカン・バイオレンス/Imagine

アメリカン・バイオレンス/Imagine_a0158797_0231249.jpg

皆さんは「アメリカン・バイオレンス」という映画をご存知だろうか?1981年に制作されたものだ。主に1960年代から1970年代にかけてのアメリカで起きた凶悪殺人事件を取り上げたドキュメンタリー映画である。

アメリカで実際に起きた猟奇的な殺人事件を、その現場と事件の背景・事実・犯人像・インタビューが取れたものはその映像を淡々と流し続けている映画だった。30年も前の映画であるため細かなことまでは覚えてはいないが、幾つかは、自分が受けた衝撃の大きさもあって今でもしっかり覚えている。

一つ目は、ある連続大量レイプ殺人事件を起こした犯人へのインタビューである。その中で、彼はこんな言葉を放った。「自分が殺した女はみんな殺されたがっていたんだ。それがわかった」
普通に考えると、狂気に満ちた妄想であると思うだろう。だが、その前までに数々の殺人事件の映像を見た後にこの言葉を聞くと、それも一理あると思ってしまった。暴力の論理としては、当然の帰結であると思えてしまうから不思議であった。それはこんな理屈だ。「自分の考えに従えない者は、死をも覚悟してそのような行動をとっているのだ。だから殺してもかまわない」これは、劇中で犯人が話した言葉ではない。映画のなかでいくつもの殺人シーンを見せられると、自然にこんな理解の仕方ができてしまったのだった。それくらい、それぞれの犯罪は異様であった。

二つ目は、ベトナム戦争での1シーンだ。米兵に捕らえられたベトナム人男性が、どこかの街の路上(と言っても土の上だが)で両手を頭の上に立たされている。ベトナム人男性は恐怖で顔が引き攣っているのがよくわかる。そのすぐ横に米兵が3名立っていた。3人は何やらボソボソと話し合い、うち一人がニヤッと笑うと、ベトナム人男性の側頭部目がけて1mもない距離から銃で弾丸を放った。ベトナム人男性は、例えばホースの先を指で摘んで水を流すと勢いよく水が飛び出すように血を噴き出し、その場に倒れた。米兵たちは何食わぬ顔で一連の行為を終えた。
この米兵は狂っていると思ったが、このように事務的に人を殺さなければやっていけないのが戦争なのかとも思った。

三つ目は、映画のラストシーンだ。ジョン・レノンがマーク・チャップマンによって銃殺された事件を取り上げた。事件現場と、事件後ジョンの死を知ったファンがダコタ前に集まり泣きながら別れを惜しんでいるシーンがあった。その時バックに流れたのが「イマジン」だ。



戦争の無い平和な世の中を望み叫んだ人間が、その対極にある殺人器で殺されたのであった。

イマジンの歌のなかで、「君は僕を夢想家だと言うだろう」という歌詞が出てくる。たまに、イマジンを聴くと顔をしかめる人間を見ることがある。恐らく、きれい事の理想ばかり言っても仕方ないだろう、そんなものを追い求めるのは愚かだ、と言いたいのだろう。顔にそう書いてある。
そのような者が話すのは、現実から逃避して理想を追い求めているという旨のことだ。だが、私は思う。そのような者は、理想を追い求めることから逃避して現実ばかりを語る、と。

理想は、例えば100持っていたとしたら、実現するのはせいぜい5か10くらいであろう。そんなに簡単に実現できないのは誰でも知っている。だが、理想が0であれば実現も0である。30実現したければ300か600の理想を持たなければならない。そして、世の中の変革は理想主義者の思想から生まれているのだ。現実主義者は理想主義者が作ったレールの上で生きている。そして、理想主義者を嗤う。

昨年の夏に執筆した記事「函館と戦争、そして戦争そのもの」「戦争について考える、そして問う」には多くのコメントが寄せられた。その中で、鍵コメントで投稿した方の話に衝撃を受けた。鍵コメントであるため詳しくは紹介できないが、その方は戦争体験者であった。そのコメントの重さに私は言葉を失った。だから私は即座にコメントへの返答ができなかった。今はできるのかと訊かれても、答えはNoだ。

しかし、ひとつだけ言えているのは、「もうあんな戦争はこりごりだ。絶対にしたくない」という思いが、戦争への抑止力のひとつとなりうるはずだ、ということである。


いつもお読みいただきありがとうございます。どうかクリックをお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
by jhm-in-hakodate | 2011-06-01 02:12 | その他雑感 | Trackback | Comments(0)