函館を語る(1)
何とも大袈裟なタイトルにしてしまったが、合計しても人生の半分くらいしか函館に住んでいない人間が、複雑な「しがらみ」が未だに蜘蛛の巣のように張り巡られているこの街の隅から隅まで語ることはできない。(本当にそこまでできる人間はいるのだろうか?)
だからと言って、この街で生活している以上は自分の街だ。ましてここは特別な街、函館だ。
今まで本ブログで、函館について課題ごとに自分の考えを述べてきたが、ひとつの題材だけを取り上げて読むと、偏った主張に思えわれることもあるだろうと思っていた。実際、過去にも個別の題材の内容について、反論のコメントが殺到したこともあったが、本ブログを最初からくまなく読んでいただくと、全て関連性を帯びているのだが、今回の記事で566番目となるほどのものを全部読んでくれと言っても無理があるし、書いた本人でも「それは何年何月何日の記事」と示すにも相当な時間を要するため、その概要をいつかまとめて表さなければならないと考えていた。
そんな折、先日ayrton氏から、函館の市街地形成と経済についての意見が寄せられ、その必要性をより感じたため、今回の仰々しいタイトルの記事を書くことにしたのだった。
マズローの法則(欲求5段階説)が矛盾に満ちた法則であることは、もう皆さんはご周知であると思う。この法則には、様々な条件が必要とされる。まず大前提は、経済が重要なファクターとなっている社会に存在している人民であるということだ。逆に言えば、思想が生きる上で最も貴重だと考えている人々には、全く「馬鹿なことを言うな」という理論であるのだ。
それでも、条件が整っている社会環境にいる場合、なるほどと思ってしまうのが、マズローの法則だ。
なぜこのような話から始めたかと言うと、今まで私たちが信じていた自由資本主義経済社会も、マズローの法則と同じように、その理論の成立のためには、様々な条件が必要とされているからだ。まず、数字を追い求めるのが善であるという意識をもっている人間にしか通用しないということだ。資本主義は、結局のところ、右肩上がりでなければ意味を成さない考え方である。それを人々は発展と発達いう言葉にして酔い、ただひたすら数字を追い求めて行く。だが、その先に何があって、人類全体や地球環境にどのような影響を与え、生み出すものと失うものは何なのか。このことを明確に説明できる人は誰もいないだろうし、聞いたこともない。
今、自由資本主義経済の親分みたいな存在であるアメリカ経済が危機に瀕している。その原因の詳細を説明できるほど、アメリカの経済には通じていない者でも、ちょっとした洞察力がある人間であればわかると思うが、要は麻薬で身を滅ぼしたということであると思う。
ところが、麻薬でハイになっている人間に、「麻薬は危ないよ」と言っても聞き入れられないのと同じように、儲かっている者にとっては迷惑千万な、そんなことどうでもいいという類の言葉でしかない。そして残念ながら、社会においては儲かっている者が、やはり強い立場にある。
それは函館においても同じだ。この仕組みの中に函館も当然いる。次回は、経済と街並の関連性について述べます。
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私は、いま赤川の山奥に住んでいますし、仙台からの転入(移住という言葉は好きでない)なので、比較的客観的に観察できると思うのですが、一言でいうと、やはり地勢的に難しい場所に、函館(その中でも西部地区、駅前)があるということでしょうね。
生活に、西部地区、駅前は全く関係ありませんから。
文化・スポーツも含めて。
この後のお話の展開を楽しみにさせていただきますが、“これからどうするか”という生産的な方向にも触れていただくと幸いです。
「緑の島」の活用法とか。
次回か、その次になるかはわかりませんが、そのことについても触れたいと思っています。
山の麓の地域が廃れると同時に、室蘭全体も廃れて、今ではたった9万人しかいない街になってしまいましたね。これも函館と似ていますね。
札幌のように、山の麓がまだ高級住宅街として健在な街は、元気ですよね。
そうなって欲しいとの想いがいまでも強くあります。