函館市弁天町22番
私が1歳の時から幼少期を過ごしたのが弁天町22番であった。何軒か続く長屋の一角の2間の部屋であった。そこに両親と私と妹の4人で住んでいた。昭和30年代のことであった。
その長屋はとっくの昔に取り壊され、現在は上の写真のようになっている。微かな記憶では、左側の花壇のところが長屋への通路であったと思う。
この小さな通路は、長屋に住む歳の近い子供たちの遊び場になっていた。
そしてもうひとつの遊び場がすぐ近くの「西浜岸壁」であった。今のベイエリア附近が東浜と呼ばれていたのに対して、ここは西浜と呼ばれていた。
もちろん当時はこんなヨットハーバーにはなっておらず、漁船が停泊するただの埠頭であった。だが、単純な一本竿でふぐやシマダイやチカが面白いように釣れた。鯖も釣ったことがある。鯛らしきものが引っ掛かったことがあるが、竿を上げる途中で針から逃げられてしまった。
家と西浜岸壁の間には、ご覧の工場が現在でもある。当時、ここは網工場であった。北洋の蟹工船から帰って来た父は、ここで半年働いたこともあった。とても忙しいようだった。自宅で夜遅くまで網を作っていたこともあった。やはり、私にとっての函館は「海」だ。
自宅のすぐ近くには、こんな倉庫がたくさんあった。この近辺で、アイ・ジョージが乞食役でロケをやっていたのをなぜか覚えている。また、この倉庫の壁は、私が野球を覚えてからは一人キャッチボールの相手となってくれた。
もちろん当時は知る由もなかったが、この倉庫、住友が造ったものだったんだな。
弁天町22番の端には西浜旅館がある。今となっては貴重な建物のひとつであるが、当時は(近くに住んでいる者からすると)よく見るような建物のひとつにしか過ぎなかったような気がする。
小さな子供からすると、このあたりまでが「自分の縄張り」であった。
西浜旅館から函館港に向かう道路を進むことは、幼少期の自分にとっては、大冒険であった。倉庫の間にある子供がやっと入れるくらいの隙間は、暗く湿っていて臭かった。一度入るとしばらくは入り込む気にはなれなかった。
さすがに小学生になると行動範囲が広くなり、この幸坂下の通りも友達と一緒に登下校で歩いた。当時はまだ馬も歩いており、あちこちに馬糞が落ちていた。そして、ちょうど写真の手前側で私が転んで倒れた時、目の前に三輪車(三輪自動車)が近づいていた。とても怖かったが、静かに三輪車は止まった。当時の車のスピードは相当遅かったのだろう。今だったら間違いなく轢かれていただろう。
1歳になった私を連れて両親は田舎からこの弁天町22番に引っ越してきた。
両親からすると、都会暮らしの不安もあっただろう。それでも間もなく妹が生まれ、父は必死になって働いた。北洋から帰ってからの仕事がドックになった時、毎日油まみれになって帰宅した。徹夜になったことも何度もあった。
その父が昨日倒れて救急車を呼んだ。血圧が200まで上がり、自力では立ち上がれなくなった。何度も嘔吐をしたようだ。幸い症状は重くなさそうだが、私が病院から帰ったのは夜の11時を過ぎていた。
私が函館に戻った理由のひとつが、「その時」のためでもあったので冷静でいれたのだが、どこの家族でも思うように、できれば何もない方がいいに決まっている。
父が一大決意をして函館市弁天町22番に引っ越してから52年。その決意がなければ、私はこれほど函館にこだわってはいなかっただろう。西部地区にはこだわってはいなかっただろう。普通の観光客のように、ただ雰囲気のいい街と見て終わっていたかもしれない。
私は父の決断に感謝している。
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ドック前からベイエリアまで歩くのが好きです。
下見板の建物がまだまだ残っていて私は好きです。
西浜旅館というのですか?ミートハウスと書いてあった記憶があります。
私も同じアングルで撮影しました。
三井のレンガ倉庫を相手にキャッチボールをしていたとは贅沢な?キャッチボールですねぇ。
今度行ったらボールの痕を探してみようかな?
これでゴライアスクレーンがあったらなあ・・・
三井の倉庫、考えてみるとそうですね。
電車通りから一本海岸寄りの道路は、昔馬車鉄道が走っていましたので、そんな昔のことを想像しながら歩くと景色の見方も変わりますよね。