政党政治解体のススメ

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先の参議院選挙で自民党が圧勝し、「ねじれ」が解消した。
この「ねじれ」という言葉に、皆さんは疑問を持たなかっただろうか?

自民党やマスコミがこぞってこの言葉を用いた。「この度の選挙は、ねじれ解消になるかどうかが焦点だ」と。それが国政をスムーズに機能させる特効薬みたいなイメージを抱かせるようなアナウンスをよく聞いた。
しかし、よく考えてみると、「ねじれ」は民主主義では当然起こりうることであり、また、それがあってこそ健全と言えるのではないだろうか。

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民主主義は多数決によるのが原則だ。だから、選挙によって誕生した与党が衆院・参院ともに同じ政党であれば、それが国民の判断であるはずだから、何もおかしくはないのではないか。そう思われる方もいるだろう。確かにそれも一理ある。

しかし、民主主義の最も貴重な要素の一つである、「議論によって政治を運営する」というものを、この「ねじれ」解消によって、私たちは失うこととなったのだ。
いくら「議論」という建前のもとで国会で討議をしたとしても、どうしても与党が通したい法案は、数の論理によって何でも通ってしまうのだ。では、私たちは本当に、「自民党さん、どうぞお好きにやってください」という願いを込めて与党にしたのだろうか?

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本当は違うと思う。その声なき言葉の中には、投票の棄権という形で表した人もいたかもしれない。だが、現在の選挙制度では、多数の棄権によって投票率が下がると、組織票を多く持つ政党が与党になることを是認したことになってしまう。それが現実だ。

「政治には関心がないから」「誰がやってもどうせ同じでしょ」「入れたいと思う人がいないから」という理由で投票に行かなかった人は、結果的に「私は戦争に行って死んでもいい」「自分の人権は放棄します」「放射能汚染物質が身近にあってもいい」と宣言したことになるのだ。

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そのような法改正(?)を自民党が企てているのをほとんどのマスコミは指摘せず、その代わりに「ねじれ」がまるで最も厄介なもののように扱っていたことに対して、マスコミは責任を感じる必要がある。ねじれ、つまり制止機能が無くなることが健全であり、それが最も国政の運営を円滑化する、それが大事だ。
このようなイメージを国民に植え付けようとしていた。私はマスコミに対して猛省を要求する。

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もし、ねじれが最も不都合なのであれば、もう参議院などその存在する必要性は全くない。全部衆議院だけで討議・採決し、それだけで立法が自動的にできるようにすればいいのだ。だが、本当にそれでいいのだろうか?監視・制止機能を失ったら、そこに誕生するのは「独裁政権」に他ならない。それがスムーズな政治だと言うなら、日本にナチスを誕生させればいいのだ。権力は当然のこととし、恐怖によって国民を統制する。これが最もスムーズに行くことだろう。

何を馬鹿な、と思われるかもしれないが、現実的に(ナチスほどではないにせよ)そのような方向に向かっているのは確かなのだ。そしてそれを結果的に国民は是認したのだ。

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だが、ねじれ方にも問題がある。参議院で多数を占めていた民主党が、国民が納得するような形で「抵抗」したのはどれほどあるだろうか。単なる数の誇示だけに終わってしまったのではないだろうか。

このような、望ましくない方向に向かってしまう最大の原因が政党政治にあるのではないか、と私は考えた。これは前回の衆院選挙の際に既に考えていたことだが、現代は政党政治の欠点ばかりが目立っているのが実情であるからだ。

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数の論理が何物をも凌駕する「民主主義」によって、与党となるべく政党は数集めに終始する。誰でもいいのだ。人気のありそうな人物を担ぎ出し、組織票も含めて当選させれば、政治家として無能であろうが一人は一人だ。いや、失言さえしなければ無能であった方が役に立つ。黙って党の提出した法案に賛成してくれればそれでいいのだ。
議員は議員で、与党となる政党に所属すれば、自分の「就職」は成就しやすい。そして、議員になったら、まるで小学校の学級会のように、周りの様子を窺いながら、自分が少数派にならないように恐る恐る手を挙げていれば、とりあえず自分の立場は保全できる。

つまり、政治家としての質や本人独自の政策は、数という大波の中ではあまりにも小さい存在でしかなく、それは、その議員を選出した投票者の期待を反故するものとなる、ということだ。これが民主主義だろうか。
また、逆に有能な政治家でも、属していた政党の評価が低いために、そのイメージが優先してむ落選したりしていないだろうか。

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何が最も危険かと言って、質の低い政治家が集まって国会審議が進められることくらい危険なことはない。優秀な多数派と優秀な少数派が議論することによって、より高いレベルでの審議が可能となる。それが最も望ましいことだ。

では、そのためにどうしたらいいのか。それはもう政党政治の廃止以外に方法はない。そうすることによって、有権者は単純にその立候補者の政策・資質を判断すればいいことになる。立候補者は「うしろだて」がないのだから、自分の質を高めて認めてもらうしかない。そうなると当然比例区など存在すべき理由も無くなる。名簿のしかるべき順位にさえいれば当選してしまうという、グリコのおまけ的な存在の議員は存在できないことになる。

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もし、政党が無くなったら、誰が法案をまとめるのか、そんな事例は世界的に見てもないのでは、というような声が聞こえてきそうだが、前者については、誰かが提案した法案に共鳴した議員たちが集まって討議を重ねればいいことだ。政党が無くなれば、政党助成金も不要となり、また、議員はそれに縛られることもない。政治資金は平等に各議員に与え、それを個々の調査・研究に充てればいい。
だから単純に政策を語り合える。
後者について。なければ作ればいいだけのことだ。何も世界という学級会で恐る恐る手を挙げる必要はないはずだ。逆に日本が先駆者的な立場になれれば、今までの世界からの評価も変わるだろう。

まだ、言い足りていないことがあるが、長くなったため「ひとまず」これまでとする。議員の質を高める方法はまだある。その方法については、また機会があったら述べることにする。






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by jhm-in-hakodate | 2013-08-06 04:12 | 社会・経済について | Trackback | Comments(1)
Commented by 能天気 at 2013-08-06 09:37 x
議員のレベルを上げる手段は、たった一つ。
国民のレベルが、上がる事。「その道は険しの感あり。」ですね。
日本の民主主義は、苦悩の中から勝ち得たものではなく、米国からの宛がい扶持です。
馴染むには、まだ時間を要するでしょう。
又、民主主義が、100%とも、思えません。