時代
先日、私にとって嬉しいことが一日の中で押し寄せて来た、と記した。
でも、ふと周りを見ると、考えさせられることがけっこう多い。
ある人が亡くなった。その人と顔を合わせて話をしたのは1回だけであった。その後電話でも話したことがあるが、電話では事務的な話だったため、会話という形では1度だけだった。
彼の話は、聞く側、つまり私にとって心地良いものではなかった。まるで人生を捨てているかのような内容だった。何かをきちんとやろうという意思を全く感じさせない話が続いた。投げやりになっているかのような文句を多発していた。
その人の若い頃を知っている人が、若かりし頃の彼の栄光を話してくれた。だが私が実際に見た彼の晩年の姿は、破天荒さの裏にある寂しさを感じさせるものだった。その寂しさは、彼が醸し出すものではなく、彼の話を聞いた後にじんわりと押し寄せてくる私の感情であった。
私の知人が二人、人生の転換期を迎えた。家族から離れた。同じ年の仲間にも既にそうなっている人たちがいる。彼らを否定的に見ることはない。時代が病んでいるのだ。そう思っている。
ずっと心にしまっていて話さなかったことがある。それは、
「人を愛せない人はペットを愛する」
私はそう思っている。ペットを介在しなくても、人という社会の中で、人を愛してみんな生きて行ってほしい。そう願っている。動物とは共同生活であってほしい。動物は、この地球上でともに生きている自然界の一部という関係でいいと思っている。
きっと反論が多数来るか、この言葉を読んだ時点でブログを閉じるという人もいるだろう。それは仕方ない。きちんと説明しようと思えばできる。でも今はしない。
時代のせいにしよう。みんな苦しんでいる、ということだ。
この記事を書こうとした時、中島みゆきの「時代」を思い出した。
もし、中島みゆきと話をする機会があったとしたら、きっと文学的な会話をして彼女の写真をたくさん撮るだろう。その写真がとてもいいものになるのは、会う前から想像できる。確信に近い。
もちろん、今は大いなる独りよがりであるが(笑)
さぁ、シャボン玉を飛ばそう。
明日もまた生きて行くために。
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