それは誰のせいでもないけれど

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それは、例えばいつものように会社に出社し、いつものような社内の空気の中でいつものように仕事ができると穏やかに自分のディスクに行くと、全くに身に覚えのない書類が山積みになっていたり、あるいは、突然訳の分からないクレームの電話を受けてしまい、その対応に「いつもの」が崩壊してしまったようなものだった。
この例えがどれほど適切なのかどうかは自分でもわからないが、今回の奥入瀬はそんなものに巻き込まれた感じがした。

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確かに紅葉のシーズンであったため、奥入瀬の紅葉を楽しみたい観光客がたくさんいるのは理解ができた。そのようなシーズンではなくとも、奥入瀬には平日にも拘らず相当の方々が訪れているので、紅葉シーズンであれば観光客が川沿いの遊歩道をたくさん往来する光景を見るのも頷ける出来事であった。ただそれだけだったら、他の観光客の邪魔をしないように気を付けながら、できるだけ自分のペースを守り自分にとっての奥入瀬を楽しむこともできたであろう。

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だが、この度はそういう簡単な対処ができる状況ではなかった。前述した対処ができるのは、奥入瀬で流れている風や川の音や木々の呼吸などの、静かなる命の鼓動を感じるために必要なリズムで歩くこと。それが誰もが奥入瀬に行ったら感じる「奥入瀬の時間」の過ごし方であった。それは誰から教えられるわけでもなく、ルールがあるわけでもなく、自然とその時間の中に溶け込もうとする人間の自然な行為であると思っていたし、自分もそうしていた。

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しかし、おそらく中国人だろうと思われる観光客が奥入瀬を変えていた。実際に何かをしたという訳ではない。せいぜい、人が往来している小歩道のど真ん中で写真に平気に撮り、何人かの投稿を阻害していたとか、食券制の食堂で注文してから店外でのんびり待ち、何度呼ばれても現れないため、店員がわざわざ店外に探しに行ったために、少し私を含むそれ以降の客への料理の供給が少し遅れた程度であった。
これくらいであれば、中国人ではなくても日本人でもやってしまいそうなことである。大きな問題ではない。

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最も大きな違和感を感じたのは、奥入瀬に流れている川の流の音や木々の呼吸や微かに香る匂い、奥入瀬にしかない独特の自然という生態などの中に、自分で真摯に受け止めようという姿勢を感じられなかったことだ。奥入瀬という世界と、その奥入瀬が与えてくれるまるで神のような生命力のパワーと、奥入瀬が持っている時間のリズム。それからが別の空間に移動して、形だけが残っている。そんな感覚を覚えるような場所になっていた。

中国人と思われる方々が起こした、ちょっと迷惑な行動というものはさっき述べた程度のものだった。だから、「実際の行動」の中での迷惑行為はしていないと言ってもいい。彼らが起こした(恐らく意図的でははない)ものの異質なものは、「奥入瀬という神が創った」自然界の空間やリズムをどこか別のベクトルの方向に持って行こうとする「彼らにとって」の自然な行為であった。
それは何時間も歩いていると、具体的な事柄ではなく「空気」として感じる。そしてその空気は、私が見る奥入瀬を変えて行った。でも、それは奥入瀬の問題ではない。特別な「実際の」迷惑行為を起こしている中国人と思われる人々のせいでもなかった。

そう、それは誰のせいでもないことだった。目に見えるものに限っては。
しかし、目に見えない肌で感じる空間が私を含め多くの人々を引連れる最も大きな要素なのだ。でも、それは誰のせいでもないはずだ。それ故にもっともっと困ってしまう「空気の乱れ」であった。






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by jhm-in-hakodate | 2016-10-21 00:16 | | Trackback | Comments(0)