高齢者が運転しなければならない街は老人に優しくない町

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昨日のニュースで、15歳の娘を高齢者が運転していた車にぶつけられて亡くした母親のインタビューが流れていた。自分の子供を失う悲しみ・喪失感・絶望感が実際どんなものなのか経験がないので想像でしか言えないが、自分の存在価値まで疑ってしまうほどやるせないものではないかと思う。

車での事故死で社会的に大きな問題となる原因に、飲酒運転・スピードの出し過ぎ・わき見運転・携帯電話での会話や操作・過労などの他に、高齢者の認識・判断・反応の能力低下によるものもクローズアップされている。確かに普段運転していて、妙に遅い車、前後左右の間隔の取り方が変な車、平気で中央線をはみ出す車などは結構高齢者が運転していることが多い。
確かに高齢者の運転は見ていて同じ道路を走っている者にとっても不安に見える。ある意味危険がある。だが、ここではそれを主題とはせず、「なぜ高齢者はそこまでして運転をしなければならないのか」を考えてみる。

その理由のひとつとして、自動車が公共交通機関(バス・電車等)を利用するよりも早く到達し、経路も自由に選ぶことができる乗り物であり大量の荷物も手から離して運搬できるもので、一度その便利さを知ってしまったらなかなか手放すことができないというものがある。これは私もその恩恵を受けている身だ。逆にそれがなければ購入費・維持費が膨大にかかる高額な消耗品を持つ意味がないのだが。

次に、車を運転しなければ日常の仕事や買い物その他の用を足せないという地理的な問題がある。これが今日の主題だ。

この問題は、仕事柄街の形成というものをずっと見て来たり、たまたま色々な街に出張で何年かごとに訪れて見た変遷を基に考えてみると以下のようになる。
高度経済成長の時代は、経済も右肩上がりであり、人口も右肩上がりで、それと共に賃貸住宅から持家へと住居を買える絶対数も右肩上がりとなった。そうなると、当然の如く、街は郊外に向けて拡大していく。道内では札幌がわかりやすい例だ。私が初めて住んだ約40年前の札幌は、まだ市内の「えっ、こんなとこに!」という地域に牧場があったり、住宅街と住宅街の間に広い農地があったりと、とても120万人都市とは思えないのどかな部分があった。しかし、今や190万人都市となった札幌にはもうそんな地域は市街地にはない。玉葱畑もずいぶん住宅地となったし、牧場はイオンになったりと、昔の面影は全くない。当然、昔は随分遠くて不便そうだなと思うような地域にまで住宅がたくさん建てられ人が住んでいる。
一般的にそのような外れの地域の公共交通機関の便は芳しくない。だから、住民は車が必需品となる。
そのようにして車の保有台数は一家に一台どころか二台や三台が今では当たり前になっている。それでも、札幌の場合は(東京もそうだが)、中心街が固定されており、中心街に行く時はできるだけJRや地下鉄等で行くようにする人が多いので、車の利用という点では、ある程度目的地によって使い分けされているのではないかと思う。
ところが函館のような地方都市は少し事情が異なってくる。バブルが終焉し、人々が価格の安い商品を追い求めていた頃、都市の郊外に「日曜日などを利用して、家族できていただき、大量に安いものを買いだめしてもらう」ための広い販売面積と品揃えを持った商業施設がたくさんできるようになった。それで最も規模を拡大したのがAEONであるが、それ以外の場所でもホーマックやツルハ、ゼビオ、などなど出店した。しかし、それは「郊外型店舗」と呼ばれていた。読んで字の如く、店舗は住宅街には遠くはないが近隣には住宅が整備されていない場所にあり低い土地利用料で浮いている分、建物に費用をつぎ込み大型店化を果たし、豊富な種類と大量のストックを可能にした。なおかつ、同じ敷地内にいくつものショップを配置すると、そのモールに一度車を停めると、たいていのものはそのモール内で購入でき、あちこち市内各所を移動して買いまわる必要性が無くなった。単純に利便性というものだけで見ると、格段に便利になった。
なぜそうしたのか?たとえばホームセンターだけがぽつんと郊外にあっても、最初は物珍しさで行くかもしれないが、そのうち他のもの(食料品や衣服他)を購入するためにはまた別の場所に移動しなければならなくなるため、だんだん面倒くさくなる。それでは、異種の大型店を集めると付加価値が生じる。だから、膨大な敷地を利用したショッピングモールが次々と誕生した。すると、そのモールに行くと大抵のことは用が済むため、そのモールの周辺は「便利な街」となる。するとその周辺に住宅街が誕生する。
つまり、本来郊外であった地域がひとつの街となってしまうのだ。これは何度も私が指摘したように、衰退する地方都市の典型的な変遷パターンである。しかし、いくら指摘しても人々はそのような地域に魅力を感じ住み始める。だが、あくまで郊外は郊外なのだ。全ての都市機能がそこに集約しているわけではない。ほんの日常的な一部の機能が集まっているだけにしか過ぎない。例えばJRを利用する場合、「郊外」はやはり駅から遠いのだ。また、バスなどのターミナルをそこに集中するわけにはいかない。なぜなら元々「郊外」なのだから。
このようにして分断された都市機能を地理的につなぐのが自動車である。このような「機能が分断された街」には車は不可欠となる。それ故に、「分断された街」に住む者は例え高齢になったとしても、車を使わざるをえなくなってしまう。そうしなければ「不便」なのだ。地方都市はこのようにして小さな便利さに吸い込まれるようにして都市機能の崩壊を加速し、衰退していくのだが、住んでいる以上は分断された機能を補うために高齢者であろうが誰であろうが自動車を運転しなければならなくなる。

しかし、高齢者の運転技術はやはり不安が多い。きっとそれはある程度それを認識しているのだろう。のろのろ運転の高齢者の車を別車線から追い越す時、運転している姿を見ると、それこそ必死になっているものをいつも発見する。何もそこまで辛い思いをしてまで運転しなくてもいいのではと思うのだが、車がなければ不便だからそうしているのだろうと少し可哀想になってしまう。

このような環境は、高齢者に優しい環境と言えるだろうか。ひょっとしたらもう運転ははしたくないかもしれないけど住んでいる場所が「不便」だから車を運転するしかないという高齢者も多数いるのではないだろうか。そうなると元々運転に不安のある高齢者の事故発生率は当然高くなる。それに伴って事故に会って死亡ないし負傷する歩行者も増えるかもしれない。だから単純に高齢者の事故の増加は、高齢者の運転能力の問題だけとは言えないのだ。
これは、そのような街を作ってしまった住民全体の責任だ、と私は思う。





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by jhm-in-hakodate | 2016-11-18 00:53 | 社会・経済について | Trackback | Comments(0)
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