何かがどこかで動いていても、誰も気が付かないのだろう?

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今日はJohn Lennonの命日だ。36年前の日本時間では明日の夕方のテレビニュースで殺されたことを、私は知った。
しばらくの間、少し不謹慎な気がしていたのであまり人には話さなかったが、そのニュースを知った時、「嘘だろう?」という現実を受け入れることのできない気持ちと、それがやはり現実だと認識しなければならないとすれば、「ついにその日が来たか」という、ずっと自分が心のどこかでいずれ起こるかもしれないと不安が的中した無念さがあった。

世の中は、色々な心のベクトルが混じり合って何かのムーヴメントをつくりだすものである。それは一つや二つの個別的な分析では説明のできないほど複雑に絡み合ってどこかに何かを向かわせる。それは、はっきりとした何かの証拠があってわかるものではない。わかるのは、どこに向かっているかもしれないというベクトルのおぼろげな方向性だけだ。
Johnの死はは、その強烈な個性と存在感ゆえに、人々が「そうなってはいけないが、ひょっとしたら起こってしまうかもしれない」不安を感じてしまうベクトルの力が具現化させてしまったもののひとつに思えた。

JohnのImaginを理想に溺れている「現実逃避をしたがる夢想家」が好む曲だと密かに蔑む人は実際にいる。それもまた一つのベクトルの力だ。Johnは彼だからこそ語れる歌で私たちの心を摑んでいたが、同時に彼を嫌悪する人間もつくってしまった。それは強烈な個性と影響力を持った人間の宿命である。しかし、その宿命は最悪の形となって具現化された。

「いずれあるベクトルに沿った力が悲劇的な事実として具現化する」

それは、戦争が起きる時と同じ流れであるといつも思う。例えば地下深く活断層が着実に動いていても、私たちがそれをはっきり認識するのは地震という災害が起こってからであるのと同じように、何かがどこかで動いていても、誰も気が付かないだけなのだ。







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by jhm-in-hakodate | 2016-12-08 23:24 | その他雑感 | Trackback | Comments(0)