函館の新潟県出身者(3)

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相馬㈱社屋。相馬哲平氏は函館の街づくりに数多く貢献した者たちの一人だ。

越後人の気質について話す前に、前回の話の補足を。
前回は、米菓子や金属加工品の製造について書いたが、その他にも、日本で初めて舞茸の人工栽培に成功し、安価で私たちに供給してくれた㈱雪国まいたけ(南魚沼市)やこれも洋菓子を手ごろな価格で提供している㈱ブルボン(柏崎市)などがある。舞茸は自生物を採取していた頃には、高くてとても一般市民が食べることのできなかったものだった。

これらのものと五泉市や見附市・十日町市の繊維・織物、清酒、そして、コシヒカリを創ったという事柄を総合すると、越後は「ものづくり」の国であると言えよう。

さて、遠回りしたが越後人の気質について話そう。
まず、意外とプライドが高い。意外とと書いたのは、実際に地元の人と話すと言葉やその表情はのんびりと穏やかに感じるためだ。旧高田市(現上越市)が平安時代、全国で京都に次ぐ人口を持つ都だったことや、上杉謙信の義の精神、田中角栄・真紀子両氏の物怖じをしない言動等からそれを連想することができる。

次に、地理と気候だ。この地方は山に囲まれている。西はアルプス山脈(京都を出発して、海岸まで続く富山の山岳地帯を越えた所の国だから越後)、南は三国峠、東や北は奥羽山脈と険しい山岳地帯に囲まれおり、他国から隔てられている。また、冬の豪雪と曇天続きは有名であることは知っていたが、実際住んでみたら、これでもかというほどの雪と曇り空が冬には続いた。また、年間日照時間も全国平均から大きく下回っている。この地理と気候の特性が原因なのか、越後は人口当たりの精神病院数が全国の上位に位置すると人から聞いたことがある。(あくまで伝聞)しかし、性格が内向きな人は確かに多い。

次に、横の連帯意識の高さだ。ある時、会社の契約スタッフが「部落の集会があるから仕事を休む」と言って来た事がある。それも定例のものらしい。私の常識では理解できなかったため、考え直して欲しいと伝えたが、それはできないとがんとして拒否された。(注:部落とはその本人が実際に話した言葉であり、私の意図はない)それとは逆に、私が仕事上のトラブルに見舞われ窮地に陥った時に、身近の者何人かに協力を求めたら即座に全員集まって助けてくれたことがある。この時は涙が出そうになるくらい嬉しかった。
この気質が最も大切な時に発揮された。中越沖地震で発生した崖崩れで道路が寸断されたある村で、行政の復旧作業を待たずに自分たちが持っている重機で道路を開通させたという。これを知った時、私は集会に出なければならないと言った意味がようやくわかった。

最後に、新しい事に挑戦することを厭わない気質だ。前述の舞茸だけではない。全く新しい品種であるコシヒカリへの挑戦、日本で初めてワインが作られたのも越後だ。そしておまけに真面目で勤勉である。

さて、これらを統合すると越後人の気質が見えてくる。
「越後という閉ざされた地方で、どんよりとした鬱病にでもなりそうな気候風土の中、圧迫された心を解き放つことができる新しく発展するだろう箱館という北の地で、勤勉に働き同郷人との共同作業で自分の商売と自分が住む街を発展・整備させた」のが函館の新潟県出身者だ。

では何故商人だけが来函したのか?
これは想像だが、当時函館の産業として成り立つことが可能であると思えたのが漁業だけだったからではないかと考える。残念ながら越後では漁業はそれ程主流ではない。だから、新しい土地への希望を持ったとしても、それを実現できる可能性を見出したのは商人が多かったのだろう。
もし、越後のものづくり職人(分野問わず)が数多く函館にやって来ていたのなら、今の函館の姿は大きく異なっていただろう。観光は観光として、それとは別に自分たちだけの力で何か独自のものづくりをして、函館の経済を支えていただろう。
越後に住んで、黙々とものづくりに励んでいる人々を見てきた者にとって、それが残念でたまらない。
by jhm-in-hakodate | 2010-02-17 22:32 | 函館の歴史 | Trackback | Comments(0)