I shall be released:社会・経済について
2021-10-24T23:06:40+09:00
jhm-in-hakodate
函館に住み働き生活しながら、日々感じ考えたことをジャンル問わずに書き綴ります。また、函館の素顔をあまり上手く撮れない写真でご紹介もしてまいります。
Excite Blog
高度経済成長と自民党
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2021-10-24T23:06:00+09:00
2021-10-24T23:06:40+09:00
2021-10-24T23:06:40+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
さて、若い方々は教科書などで学ぶしかなかっただろうが、私が生まれたのは、日本に自由民主党という政党が生まれてから3年後のことだった。もちろん幼い頃は政治のことなどわかるはずもなく、また、若い頃は多くの若者がそうであったように政治に関心を持てなかった。政治というものは自分とは別世界で動いているものであると考えていたし、現代のように何かを発言しようとしてもその場所がなかったこともあり、政治について考えることなどほとんどなかった。だが、私が物心ついた時から大部分の時間、自民党が日本を支配して来たし、その時代を生きていたというのは紛れもない事実であり、世の中の変化は政治に関心がなくても肌で感じることができた。
私は政治学者でもジャーナリストでもないし、政治研究家でもないため、史実と異なることを述べてしまうかもしれないが、自民党が長期支配していた国の一国民として、一国民が感じた自民党の功罪を時系列的に述べ、私なりの解釈で戦後から現在までの日本の政治について述べてみたいと思う。
私が内閣総理大臣としてリアルに記憶にあるのは佐藤栄作氏が最も古く、時々テレビなどでその姿を見ていた。残念ながら佐藤氏の前の総理大臣池田勇人氏の記憶は全くない。よくよく考えると、佐藤氏が総理大臣に就任したのが1964年で、私の家にテレビがあったかどうかもわからない時代であったため、それ以前のことは自分の記憶のなかでの映像に残るわけがないのが事実だ。
佐藤氏の時代は、おそらく昭和の歴史の中で最も輝いていた時代ではなかろうか。東京オリンピックに象徴される敗戦からの急速な復興とその勢いを長期的に持続させた高度経済成長。それは、まだ子供だった私にも理解ではなく感覚として把握することができた。
その象徴的なものがいわゆる白物家電だった。裕福とは程遠い私の家にもテレビが置かれ、それが何年か経つと白黒からカラーになり、洗濯板が洗濯機(最初は脱水が洗った衣服をローラーに挟んでやるものだった)という画期的なものになったりいつしか冷蔵庫という食生活を大きく変える新兵器まで登場した。
そして子供としては何よりも願っていた電話機が我家の片隅に置かれたことは、世界が変わったような気持ちになった。思春期の私は、その電話で気になる女の子に電話という方法で話しかけることができるようになって嬉しかった。だが、今のように一人一人が携帯を持ち、直接本人に電話かメールをするというものには程遠く、家庭に1台しかない電話にかけるとまず相手の親が出て取り次いでもらうという関所のようなものがあった。「ちょっと待ってください」と言ってからしばらく間があると、本当に取り次いでもらえるのか、男の子と電話したらだめという家庭だったらどうしよう、など不安な気持ちが耳から頭にかけて強くなり、女の子が出た時にはもうそれだけで自分の望みが半分以上かなったような気がした。今から思うと、女の子が電話に出るまでの間がなんともいえない、まるで試験結果が出るまでの期待と不安が入り混じった長い時間だった。
これらのものは、私の家だけではなく、他の家に行っても当たり前に見かける、いわゆる一億総中流と呼ばれた時代の光景だった。人々はきちんと真面目にさえ働けば年功序列で給料も役職も年々上がって行くことが保証されていたのと同じだった。政府もいわゆる「護送船団方式」で、金融や公共事業などで企業を手厚く守っていた。後に日本は「資本主義国の中で最も社会主義が成功した国」と呼ばれるようになった。
ちょうど我家に前述の白物家電が揃って行った時代と佐藤栄作氏の長期政権時代が一致する。おそらく今の50代以降の者が「古き良き昭和時代」と懐かしく思えるのはこの時代ではなかろうか。その路線を築いたのが池田勇人氏であり、戦後最も優秀な総理大臣であったという評価もあるが、先ほども述べたように、リアルタイムに国のリーダーだと自分が認識して顔を覚えているのは佐藤栄作氏だ。
その佐藤氏は、戦後米国占領下にあった沖縄の日本返還を成し遂げ、世界的に有名な、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を表明し、後にリーベル平和賞を受賞した。そして、その後の日本の総理大臣を担う人材を多く育て、前後の混迷期から見事に脱し、安定的に経済成長を続ける日本という姿を世界に見せることができた時代だったのではないだろうか。
しかし、その反面、非核三原則の裏側で米国と有事の際は沖縄に核兵器を持ち込んだり通過さてもいいという密約を交わしていたり、優秀な人材を生んだがゆえに自民党に派閥という奇妙なグループが多数出現したり(派閥は佐藤時代からあったようだが)、70年安保闘争ではその終わらせ方に無理があったためか、後に連合赤軍事件という今では小説の中でしか存在しないかのようなグループの犯罪まで起きてしまった。
だが、マイナス点を差し引いたとしても、この時代は何度も繰り返し述べているように、日本には明るい未来が待っているかのような思いをさせる経済の成長や国民の生活の改善が確実に進んでいた、古き良き昭和時代であったのではないだろうか。そういう日本を築き上げ国民を引っ張った政党として、自由民主党は確固たる国民からの信頼を得ていたような気がしていた。
そして、佐藤氏の後に内閣総理大臣に選ばれた人物がこれまた強烈な人間だった。それは田中角栄氏だった。
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憲法改正のススメ
http://jhm1998.exblog.jp/241238171/
2021-10-13T18:17:00+09:00
2021-10-13T18:17:17+09:00
2021-10-13T18:17:17+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
先日自民党総裁選が行われ、岸田氏が新総裁となりました。みなさんも、彼が今後どんな政策を発案していくか関心があるとおもわれます。なぜなら自民党総裁選は、内閣総理大臣を決めることに直結していからだ。そんなのは常識としてほとんどの人の認識にあるでしょう。
しかし、うん、ちょっと待てよ。総裁選というのは、自民党の私的代表者を決める選挙でしかないはず。会社で言えば、役員会や株主総会で社長を誰にするかということと同じようなものだ。その代表者が同時に国の行政のトップに同時になるというのは単純に考えてとてもおかしい話ではないか。日本No.1の企業の社長が同時に日本における政治的な強い権限を持つようなものではないでしょうか?
なぜかって?
昨年からのコロナ禍で仕事以外は閉じこもり的な毎日を繰り返し、私の中で今まで何となくそれなりに「まぁ、ある程度大筋で物事が混乱なく動いているのだからいいのではないか」とたいして気にも留めずに黙認していたことが、政府の対応などを見ていくうちに、何か根本的なことが実は間違っていたのではないかという考えを持つようになりました。その中のひとつが自民党総裁=内閣総理大臣ということです。
日本という国は、よくよく考えてみるととても変な民主主義形態をとっています。
戦後の憲法制定で民主国家となった時、みなさんも学校で学んだ三権分立という、立法・司法・行政という機能を分立させ、独裁的な行為がなされないように作られた制度がスタートされました。実態を知らない子供当時はもちろんのこと、大人になってからもこの制度そのものには疑問を持つことはなかったのですが、ここ数年日本の制度はおかしいと少しずつ思い始め、特に安倍政権末期から菅政権のコロナ禍でやはりおかしいと強く考え始めました。
正直申しまして、安倍元首相の発言のいたるところに国民を馬鹿にした舐めた(内容と判断される)ものを感じ取りました。自分の内閣の支持率もそれなりにあるし、野党も脅威に思えるほどの勢力もない、まして自民党内にも自分を脅かすだけの頭角を現わしている者もいない。もう、やりたい放題、言いたい放題やれるような環境にあったことに、私は強い嫌悪感を抱いていました。
どうしてこんな人が内閣総理大臣でいれるのか?それは、三権分立が実は分立していないからだと思いました。
みなさんよーく考えてみてください。
確かに日本は民主主義国家で、立法府である国会の議員を私たちが住むそれぞれの地域の代表という形で、選挙によって選出し国会に送り出します。その国会で国会議員の中から議員の投票によって内閣総理大臣を指名することになります。それは何もおかしくはないのではとお考えになるしょう。しかし、例えばある衆議院議員立候補者がとても優秀でぜひ国会に行き議論してもらいたいと願いその立候補者に投票して見事当選したとします。ところが、その政治家が所属する政党のトップには期待も持てなく、内閣総理大臣にはふさわしくない人物であると思ったとしても、その政党の論理でその人が総理大臣になってしまうのです。つまり、自分が属する地域の代表は選ぶことができるが、この国の代表は選ぶことができないシステムとなっているということです。それでは、その政党とは別の政党の立候補者に投票したらいいのでは、という意見もあるでしょうが、別の立候補者はとてもではないが頼りなく能力があるとは判断できなかった場合、自分の地域の代表者という観点からするとやはり投票をためらいます。これは個人的にはさっさと無くした方がいいと思っている比例代表制についても言えます。ある政党自体は支持したいのだが、比例代表の名簿の上位に名を連ねた立候補者だけは当選してほしくないと思っても、その政党を投票紙に書いてしまうと上位の者は当選してしまうわけです。これって、本当に民主的なのでしょうか?
こんな議員や内閣の選出の方法にも大いに問題がありますが、もっと大きな問題は、立法府である国会の衆議院において過半数を得た政党(もちろん連立も含みます)が、結果的にはそのまま行政府である内閣になってしまうということです。これって、分立と言えるのでしょうか?つまり、数の論理によって、立法もできれば同時に行政もできるという、見事なまでの特権が与えられるようになっているのです。
それだけではありません。一見政府から独立しているように見える司法でも、最高裁判所長官は内閣の指名により天皇が任命し、最高裁判所判事は内閣が任命し天皇が認証するということになっており、つまり、結局のところ衆議院で与党となったところに権力が集中するようになっているのが現在の憲法であり裁判法なのであります。
もちろん最高裁判事は衆議院選挙と同時に実施される国民審査により罷免することも可能ですが、現実的には、最高裁の判断で複数いる裁判官の中で誰がその判断に賛同したかなんて専門家でなければ分からないでしょうし、また、特に地方に居住していれば最高裁の判決を傍聴することなどそう簡単にできるわけがありません。そのため、国民審査でどうぞと言われても、よくわからないからまぁ今のままでいいかということになってしまっているのが大多数の方々の思いだと考えます。
一国民として、本当に困った制度であると思っています。このようなシステムの中で国という機関が運営されているわけですから、当然の如く歪みが生じます。与党は、自分たちが作った法案を国会で通し、それを行政に反映させ、何か法的な解釈で問題があったとしても、最高裁で政府側に都合のいい裁判官を指名して自らを守ることができるわけです。このようなシステムの中で、戦後ほとんどの期間を自民党に私たちはその地位を与えているわけです。だから、田崎史郎さんが政治評論家という肩書ながら自民党内部の情報提供だけして仕事を続けられているわけで(笑)、本当に日本の政治がこのままでいいのかどうかという視点で発言しなくとも、彼は飯を食っていけるのですね。
話を戻しますと、結局現在の憲法に定められている三権分立は形だけの「民主主義」であり、結局のところ、例えばアフガニスタンでタリバンが軍事制圧し、国を支配しているのと同様に、私たちも自民党に支配されていると言っても過言ではないでしょう。もちろん、軍事的暴力によるものと国民の投票によるものとでは大きな違いがありますが、結果的に私たちは自民党に支配されることを望んだということになります。「独裁」という意味では、私たちの慣習としてそれを望んでいることになります。
しかし、本当にそれでいいのでしょうか?今後の日本は現状の制度で自民党とは限らなくても、どこかの政党に独裁されるシステムでいいのでしょうか?
憲法9条の改正はよく議論に上がりますが、私たちは三権分立に関わる憲法41条や65条・76条を軸とした他の憲法や他関係法律を改正し、より権力が集中するシステムを変革しなければ、真に主権は国民にあるという憲法の大前提が脅かされる結果となります。先ほども述べた比例代表制や政党助成金などは、議員選出数が多い党がより力を蓄えることができるシステムであります。安倍政権で富める者はより豊かになり、貧しい者はより貧しくなるシステムに相違ありません。
しかし、様々な著名人が話しているように、変革は既得権を奪う行為であり、既得権者は命を懸けて抵抗するのが世の常です。これを凌駕できるのは、私たち国民の総意以外にないでしょう。では、何がいったい問題なのか、次回からは、戦後の日本の政治を流れをおおまかに述べながら説明していきたいと思います。その分岐点はバブルであったことについて。
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どうして新規コロナ感染者数が急激に減少したのか
http://jhm1998.exblog.jp/241230482/
2021-10-06T22:49:00+09:00
2021-10-06T22:49:49+09:00
2021-10-06T22:49:49+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
よく報道番組で「理由がよくわからない急激なコロナ新規感染者数の減少」ということで、識者や街頭インタビューのコメントを耳にしますが、誰もが言わない「思い当たる理由」に、「衆議院選挙が控えているから」というものがあります。
もちろん医学的・統計的な根拠を用いて選挙があるからと言っているわけではなく、半ば冗談半分で言っているのですが、確かに菅元総理大臣は秋の衆議院選挙を目指し、逆算して1日100万回のワクチン接種という大号令をかけたのが思惑通りになったのかもしれません。
逆に言うと、もし衆議院選挙が来年だったとしたら、もう少し減少のスピードが緩やかであったかもしれない、そんな憶測までしてしまいます。
いずれにせよ、衆議院選挙は当初の予想より前倒しして行われることとなりました。これは岸田新総理大臣がようやく落ち着いたコロナ感染状況が、落ち着いているうちにやった方がいいと判断したからではないかと、これまた邪推しております。なぜなら、昨年も11月に入ってから徐々に感染が再拡大したから、そうなる前に、ということでしょうか。
さて、そんなうがった見方をしてしまう私ではありますが、その理由のひとつは私の性格が元々ひねくれているということもありますが、もうひとつはそのように思わせてしまう政府の言動があったからであります。
でも、私たちは何気なく政府がどうのこうのと話をしたりしていますし、なんとも思わず、ほんの一部の時期を除いて戦後自民党イコール政府という概念を持ちながら、応援したり批判したりしているのですが、だいたい田崎史郎さんが、表向き政治評論家という肩書でありながら、自民党の広報のような話ばかりをテレビや講演でしていること自体、冷静に考えるとおかしなことなのではないでしょうか。また、それで仕事を続けていれることもおかしなことだ思います。
自民党内部の裏話などが注目を浴びて、大切な目指している政策の内容と実現性あるいは実行のプロセスなどについて話題に上げない人が政治評論家と呼べるのかどうか。本来ならそう呼べないはずなのですが、なぜか仕事になっている日本という国も、またおかしいものです。
私はここ何年か前から、日本の政治の仕組みについて致命的におかしいという部分があると少しずつ疑問を持ち始めました。今後、そのおかしさについて、何回かにわたり述べていきたいと思います。それは、憲法で定められた制度とそれに疑問を持たない国民によって、結果的に70年以上続けられていた「欠陥」についてであります。
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国ってどこにあるの?
http://jhm1998.exblog.jp/241194537/
2021-09-12T23:52:00+09:00
2021-09-12T23:52:15+09:00
2021-09-12T23:52:15+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
この度の新型コロナの大流行により、私たちは今まで何も考えずに行ってきたこと、あるいは行ってこなかったことや、目を向けようとしていなかったこと、何もない時には疑いもしなかったことが、実は膨大にあることに気付かされた。
コロナ対応に関しても、世界のその国によって大きく異なっていたことも報道などで知ることができた。
中でも際立ってリーダーシップの強さを感じたのは、ドイツのメルケル首相だった。常に冷静で落ち着いて発言する彼女が感情をあらわにして国民に自重することを訴えかけたのには、他国民ながら感動した。
その頃我国のリーダーは人前に出ることはなく、国民から見ると雲隠れしているかのように見えた。ドイツと日本でなぜこんなに違うのかという疑問を当時持った。
ドイツと日本は共通点は多い。第二次世界大戦で同盟を結び結果的に敗戦国となったが、持ち前の勤勉さと優れた工業技術でその後見事に立ち直ったことなど、ある意味どことなく親近感を個人的には持っている。
しかし、両国には大きな違いがある。それは、第二次世界大戦で犯してしまった大きな出来事についてだ。ドイツはナチスという政党に政権を持たせてしまったことに大いに反省し教訓として二度と同じような過ちを起こさないよう国民レベルで自戒している。しかし、日本は大政翼賛会が象徴するような、独裁的にアジア侵攻を実行していた組織の存在を許していた、あるいは作らせてしまったことに対して反省や教訓を持っている認識はない。それどころか、自民党にほぼ独裁を現在も許している。
似たような経験を持つ者同士なのに、どうしてその後の考え方が異なるのだろうか?
そもそも、どうして世界中にこんなにたくさんの国があるのだろうか?
以前から世界の国々のことを本で読んだりテレビで見たりすると漠然とそんなことを考えたりはしたが、この度のコロナ禍で在宅しテレビ等を見る機会が増えたこと、特にオリンピック・パラリンピックを見た累計時間は自分史上最も長くなったこともあり、一体国というものは何なんだろうと考えさせられた。
しかし、そんな壮大なテーマについて世界規模で考えるなんて、研究もしたことがなければ知識もほとんどない私には、答に向かう道筋すら見つけることができない。なせなら、これだけたくさんの国ができた経緯を、集積して分析する術を全く持っていないからだ。
そこで、せめて自分が属する国のことくらいは考えることができるだろうと思ったが、情けないことに、そもそも国というのは何を指しているのかがよくわからなたった。
私は日本に生まれ日本で育ち、現在も日本に住んでいて日本国籍を有している。日本においてかなりの割合を占めるどこにでもいる日本人だ。
特に日本は島国であるせいか、その事を強く意識する機会は少ない。まして外国との取引や交流を持つ職業についていないため、その傾向は強いと思う。
でも、改めて日本という国とは何だろうと考えた時、その前に国ってどこにあるのだろうか?という疑問を持ってしまう。多くの人は、そんなの日本が有している領土内にある地域の集合体であるに決まっていると考えるだろう。北方領土や尖閣諸島の問題はとりあえず置いておいて、私はその通りだと思う。
では、誰がその領土を所有しているのかと言うと、明瞭に答えることのできる人はどれだけいるだろうか?
何故なら、日本においては土地の個人所有が認められているからだ。土地を持っていると言うことは、日本領土の一部を所有していることであり、ということは、土地所有者は国の一部であってもおかしくはないのだが、現実感覚的には土地を持っている国民の一部にしか過ぎない。つまり、例えて言うならば、ある企業の株式を所有していれば、株主総会で発言することができるが、領土の一部を持っていてもそう簡単に国会で発言することはほぼ不可能だということだ。
いやいやそのために選挙制度というものがあり、我々の代わりに国会で討議してくれているのではないか、と言う人もいるだろう。それが日本の民主主義制度であることは、私も承知しているが、本当に私たちが選んだ人が、私たちが望むことを代弁してくれているのか大いに疑問だ。
これらのことを併せて考えていくと、国という存在はどこにあり、誰が所有し、誰が運営者なのかわからなくなる。
このような疑問を、できるだけシンプルな視点で(現在の自民党の政局的な観点は全く持たず)これから何回かに分けて、今まで朧気にしかなかった疑問を綴って行きたいと思う。
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政府について~感情論/昭和のオヤジが語る
http://jhm1998.exblog.jp/241191417/
2021-09-09T23:19:00+09:00
2021-09-09T23:56:12+09:00
2021-09-09T23:19:13+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
新型コロナウィルスに関して、「私たち」がおかした過ちについて述べてきましたが、行政としてとらなければ為らなかった対策等について、また、そもそも政府というものは何なのか、そもそも国というものは何なのか、日本国民は国に何を求めて過ちをおかしたのかなどについて述べたいと思いますが、それは推測や私見であれ、論理的に述べなければならないものなのですが、人間ですから感情というものがあります。
その感情的な話をするのに最もふさわしいのが、このブログの品位(などあるかどうかはわかりませんが)をかろうじて保つためにしばらく蔵の中に閉じ込めていた昭和のオヤジであります。そこで今回に限り彼を開放し、思う存分話をしてもらいます。あっ、これから話すのは彼ですからね。私ではありませんよ。
「あ゛ー、苦しかった。人を暗くて寒い所に何年も閉じ込めやがってこの野郎。やっと出て来れたと思ったら、自分の都合が悪いから人に話をさせようなんて、なんてずるい奴なんだ、このブログ主は、えっ!まるでどこかの市長や総理大臣みたいじゃねえか。ふざけんじゃねえよ。だがな、せっかくやっとのことで出てきたから話させてもらうぜ、いいか、覚悟しろ」
「ずーと、オレが閉じ込められていた間、日本はどんどん腐ってしまっていた。けっ、オレが黙っていたのを幸いに本当に膿が永田町だったっけ、あそこに溜まってしまったてわけさ。何がって。それは後からゆっくり話すけどよ、まず、自民党総裁選に出馬しないことを決めたガースーだがよ、色々言われたけど少しかわいそうな気がしてならねえんだ。どうしてかって?そりゃ、ダメなところを挙げたらきりがないけどよ、でもな、たった1年の間に携帯電話料金を安くして、おいちょっと待て、安くしたのはいいけど、オレには使いモンにならねえから安いプランにしてねぇけどな、まぁ、それでも何もしないよりはましだ。それからデジタル庁だっけ?ああいうのをやっと作った。不妊治療の健康保険適用もやったな。これは画期的だぜ。そして、コロナ対策、まぁ、いつもやることが遅くて緊急事態宣言だとか対策もワンパターンで責められても仕方のないことは山ほどあるがな、それでも、そんなの難しいと言われた1日100万回接種、できるようになったじゃないか。ケッ、やればできるじゃねーか馬鹿野郎。こんなことをたった1年でやった総理大臣、そうそういねえぜ」
「そもそも、安倍の野郎が体調が悪くなったって屁理屈抜かして、一番大事な時に辞職しやがったあとに、つなぎの役割になってしまうかもしれないと誰でもがわかっていながら引き受けて、これだけのことをやったのだから、それはそれで評価してやんなきゃそりゃぁかわいそうってもんよ。少なくともな、自分のことが裁判沙汰になってて、コロナに何の対策もできねぇから人様の前に顔出しをしないで雲隠れしていた安倍よりもずっとマシだ。色々言われながら、支持率がどん底まで落ちても、気の利いたことは全然話せなくて、毎回オウムのように同じことを話しても、とりあえず話すべき時には話していた。安倍のようにこそこそ雲隠れしなかっただけでも立派じゃねえか。おっと、こんなことで立派とあやうくオレも勘違いするところだった。とりあえず話すだけでも立派と言えるくらい、日本の政治家は落ちぶれているってことだ。あぶねぇ、自分も何か低レベルなところで話をしてしまっているがな」
「だいたい、こんな腐った体質にしてしまったのは、最後は責任放棄した安倍って野郎のせいだ。オレがどうして安倍のことが気に入らねぇかって言うとな、仮にも一国のリーダーがだぜ、コロナで大変なことになっている時に苦しいけれどみんな頑張ろうぜ、ぐらいのことも言わなかったことだ。何もできないことは、アベノマスクで充分わかったがよ、自分の体調が悪かったかどうかはわからねぇが、血反吐を流しても這いつくばって国民の前に出て、何かを話すのが国のリーダーってもんじゃねえか。それすらしないで辞めやがって。だいたいだな、国会答弁で、立憲民主党に対して、東日本大震災の時、当時の民主党は何もできなかったしゃないかと散々馬鹿にしていたくせに、いざコロナが流行ったらそう言った自分が何もできなかったじゃねーか。ふざけんじゃねーよ。それを天に向かって唾を吐く、っていうもんだ。わかった、安倍」
「そもそも、そんな時、見ている方はあまり面白くなかったがよ、あんたを必死にかばったのがガースーじゃねえか。ところがその恩を忘れて、ガースーが総裁選に立候補しようとしたら無視しやがって。どこまで自分の都合ばっかり考えているんだ、えっ。だいたい安倍が去年充分なコロナ対策をしなかったから、ワクチンだとか諸々の準備が遅れてしまったことを、国民はもう忘れているんじゃねぇか。それを一から始めなきゃならなくなった、元々スローモーなガースーにとっては、そりゃぁ大変なことだったろうや。官房長官の時は一生懸命安倍首相を守ってやって、自分が総理になったら一身で安倍のツケを払わなきゃならなくなったなんて、なんで割に合わねぇことだがや。せやけどな、そのガースーも大きな間違いをした。それは、官房長官の時から言ってた「仮定の質問には答えられません」というやつだ。その態度が今回のコロナの対策が遅れた大きな原因じゃねえのか。政治家ってもんは、まだわからない将来のことを想像して、最悪のことも考えて実行策をシュミレーションしてみることが仕事なんじゃねぇのか。今の野党がだらしねぇからといって、どうせ選挙やっても自民党が勝つに決まっていると、国民を舐めくさっていた安倍の悪いところが一気にガースーの時に出てしまったとも言えるんじゃねぇか」
「もう、裏で画策している二階や安倍や麻生は国会議員を辞めた方が自民党のイメージが良くなるんじゃねぇかと思うんだがな、オレは。二階は歳も歳だし歩くのもおぼつかなくなっているんだから、デイサービスのお世話になってもらって、余生をあんな面倒くさい顔をしないで、もう少し穏やかに暮らしてもらえばいいじゃねぇか。安倍は辞職して『仲良し倶楽部』でも作って毎日ゴルフでも花見でも個人でやってればよかろう。麻生も辞職して『お坊ちゃま紳士倶楽部』でも作って仲間と酒を飲んで、意味不明なことを好きなだけ話していればいいんだってば。それが国民のためにもなるし、この三人が裏で糸を引いている限り、自民党は何も変わらねぇなと思えてくるべや。だいたい、この三人に引導を渡せない自民党の他の議員の力不足もそもそも問題だっちゃ」
「いいか、この三人が自分から辞めるつもりがないのなら、安倍の山口4区、麻生の福岡8区、二階の和歌山3区の人たちよ、今度の選挙では当選しないように考えてくれ。それが日本ためになることなんだからな。わかっているよな。落選したら今回の総裁選のような醜い駆け引きなんぞ無用になるのかもしれないんだがや。頼むぜ、あんたらの一票がこの政府をもう少しまとなものになるかどうかの分かれ道になるにちげえなねぇ。昭和生まれのオレが言うのも何だが、今はもう令和だ。昭和の体質をいつまでも引きずっている政府に危機感を持たねぇのか国民は。オレなんか、このままではろくでもない息子や娘だとか、可愛くてしょーもねぇ孫たちがかわいそうでならねえんだ。安心してあの世に行くこともできねぇんだよ、わかってのか政治家どもよ」
「だけどな、そもそも何で政府はいつも自民党なんだ。うーんよくわからねぇ。そんな面倒なことは、オレにしゃべらせたこのブログをやっている奴に話してもらいたいもんだ。オレはもう酒の酔いが回って、面倒くさいことは話す気にはなれなくなってしまったべ。あとは頼んだぞ、いいか。おっと、今日のところはここで身を引くが、またそのうちオレにもしゃべらせれよ。いいか、わかったか、てやんでぇー」
はい、相変わらず何年経っても下品で、出身地がどこなのかわからない言葉を使って好きなことを乱暴に話していましたが、しばらくはまた蔵の中でおとなしくしてもらおうと思っています。次回からはできるだけ論理的にこの国のことを述べてみたいと考えています。
再度お話ししますが、今日の昭和のオヤジの発言は、私とは一切関係ありませんので何卒ご承知おきくださいますよう重ね重ねお願い申し上げます。
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どうしてこんな中函館に来るの?
http://jhm1998.exblog.jp/241186073/
2021-09-04T23:53:00+09:00
2021-09-04T23:53:19+09:00
2021-09-04T23:53:19+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
現在北海道は緊急事態宣言下真っ只中ですが、函館は観光客が減少したことと、夜の飲食店が休業もしくは早じまいしている以外、特別人々の行動や暮らしぶりに変化は見られていません。特に昨年から飲み屋さんにほとんど行っていない私にとっては、何も変わっていないと言えます。
先程、観光客が減少したと言いましたが、学生の夏休みや社会人のお盆休みが過ぎたから自然に減少したとも思えるような気がします。もちろん、コロナ前の賑わいではないのですが、それでも宿泊施設には夜になると、それなりに灯りが点いていますし、それと同じくらい、コロナ患者専用ホテルにも灯りが点いています。
何とも不思議な光景です。
西部地区に住んでいる私は、8月の中旬をピークとした人々の大移動の中で、これは明らかに帰省ではなく観光目的で来たのだろうと思われる、緊急事態宣言地域のナンバーの車を嫌というほど見ました。
どうして、最も強い自粛を要請されている地域から人が来るのでしょうか?私のような地方都市に住んでいる者は、緊急事態宣言下にある都府県には恐くて行けません。札幌にだって特に用がなければ行く気にはなれません。
もしそのような所に必要性もなく行って、万一コロナに感染したら、もう、周りから袋叩きにあうでしょう(笑)
ですが、大都市に住んでいる人はそんなことは気にはならないのでしょうね。その感覚は札幌などに長年住んだ経験がある私にも少しはわかる気がします。
わかるというのは、分析できるということであって、理解できるということではありません。
人ごみの中をかいくぐるように生活していると、あまりの人の多さに、その街で起きている出来事と自分との間の「身近さ」を感じなくなります。例えば、東京に住んでいたとして、昨年夏に感染拡大した夜の新宿は、いつも六本木で飲んでいる人からすると、まるで別の県で起きていることのように思われたかもしれません。
また、よく聞いたのが、周りに感染者がいないから自分も大丈夫という錯覚。
今の感染状況は災害級と言われていますが、他の災害と決定的に違うのは、その被害状況を視認できないことです。それもそのはずです。無症状者は当然その様子から感染を知ることもできないですし、発症したら多くの人は自宅で療養するか、宿泊施設に入るか入院するかのいずれかですので、直接的に感染者を目の当たりにする機会は医療関係者以外はあまりないからです。
もし、街を歩いている時に、目の前で激しい咳を繰り返し、意識も朦朧として、そのうち、ばたんと道端に倒れ込んでしまう人をたくさん見たら、誰でも大変なことが起こっていると認識するでしょう。
ただ、その場面が街中ではなく、その人の自宅で起きているだけであって、災害レベルとしては変わりはないのです。
私たちの生活が色々な面で便利で楽になった代償として、想像力を失ったのかもしれません。様々な情報を集約して、今世の中で何が起きているのかというものを想像する力が衰えたのかもしれません。
これには、政府のやマスコミの問題も多くあります。今までは一般の人々に対して、自分が考えたことを述べてまいりましたが、次回からは政治が私たちに何をしたのか、また政治はどうなるべきかについて、私が考えることを述べたいと思います。
たっぷりと、余すことなく話させていただきます。
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今は楽観よりも悲観を、自己正常化バイアスと私たちの間違い
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2021-09-02T22:23:00+09:00
2021-09-04T14:44:01+09:00
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社会・経済について
日本で本格的な新型コロナ感染が日常化するようになってから1年半以上が経った。
私たちは、この間多くのことを学んだはずだ。また、多くの間違いを犯した。ネットや報道などでも、様々な情報があふれ、何が正しくて何が間違っているのかの判断もつかなくなった時があった。
当初、新型コロナはただの風邪だ、という声を多く聞いた。私の周りでもそのような言葉を聞いた。新型コロナウィルスが日本に上陸し、感染が拡大し始めた頃、私はすぐさま毎日マスクを着用するようになった。その時社内では私の他1名しかマスクをしてなかった。次第に国内の感染者数が増えて来ていることに危惧を覚え、その話を近くの席の者に話すが、またか、といううんざりしたような反応だった。
その後、医療従事者などがテレビで、ウィルスは変異するたびに弱毒化するから心配ないとか、夏になって気温が上昇するとウィルスの活動も弱まり沈静化するだろうなど、「そのうち治まるさ」という空気がどこかで広がっていた。マスクをしている者に対して、マスクを信じているのかという物理的な概念ではなく信仰的な概念でマスク無用論を唱える者もいた。欧米諸国に比べて感染者数が少ない日本やアジアは体質的にこのウィルスには抵抗力があるのではないかという仮説も生まれた。そして、政府はGOTOトラベルキャンペーンを夏の第2波が来ているにも拘らず続行し続けた。
だが、こられはすべて「楽観」することによって自己の精神を防衛する自己正常化バイアスでしかなかった。すべてが逆の結果となり、私たちは大きな間違いを犯していたという認識を持つ必要に迫られた。楽観したい者は、悲観的で不安をあおる者の言葉に聞く耳を持たなかった。しかし、現実は悲観的な見解を述べていた者の通りとなった。
やっと国民全体に危機意識が拡がり、マスク着用率も高まったが、ただマスクをしていれば感染しないという自己正常化バイアスあるいは「皆しているから自分もしなければまずい」という本質から外れた思考で正しく着用していない者がいる。ウレタンマスクは透過率が高く効果的ではないという多くの情報が流れながらも、かなりの割合で着用している人を見かける。また、不織布マスクでも、きちんと折らずにただそのまま平面的に着用している者も多い。いくら不織布でも、顔面とマスクとの隙間が多ければそこからエアロゾルが入ったり漏れ出したりすることを理解していないようだ。不織布の効果を最大に出すことができるのは、鼻の形に合わせてワイヤーを折り曲げ、頬の部分に隙間を極力無くすように着用する、すなわち密閉状態を作ることよって得られる。
やっとワクチン接種が進み、後何か月先になるかわからないが、重症者数は減少に転じるだろう。しかし、ここでも危険な自己正常化バイアスは人々をコロナの脅威に陥れるかもしれない。ワクチンを打ったからもう安心だ、元の日常に戻れる。そう楽観的に思っている人には、再び厳しい現実を目の当たりにしなければならなくなるだろう。今日、あるネットニュースでアメリカのLAの新規感染者のうち、その3分の2がワクチン2回接種者だったという。おそらく、接種したからマスクをせずに「日常的」な生活や行動をしていたからではないかと思う。
ワクチン接種率トップクラスのイスラエルやイギリスの感染者数も再び上昇している。菅首相はロックダウンしてもすぐリバウンドしている国が多くあると述べているが、それはロックダウン解除後にその国民がマスクをしていなかったからだ。
私たちが考えなければならない最も重要なことは、できるだけ科学的に悲観的に日常を送ることだと思う。現実として、今まだ新型コロナの治療薬はない。無い以上私たちは注意深くウィルスに感染しないよう気を付け、また、ひょっとしたら無症状だがもう既に感染しているかもしれないという前提で、きちんとしたマスクの着用やリスクの高い行為を控えるという行動をとるしかない。
私は、新型コロナが「ただの風邪」として私たちが安心して「新たな日常」を送ることできるのは、ちょっとした症状であれば市販の「コロナ薬」の服用で対処し、それでも改善しなければ、近くの町医者を訪れて簡単に「コロナ薬」を処方してもらえることが可能になった時だと「悲観」している。それまでは私たちはマスクを外せないと考えている。
それ以外に今は何があるのだろうか?神風がどこからか吹いてきて、ウィルスを弱毒化してくれるという都合のいいことを考えるのは極めて非科学的である。ひょっとしたらそうなる可能性もあるかもしれないが、それを自信を持って主張できる科学者は誰もいないだろう。
今、世界は新型コロナウィルスの登場によって「強制的に」物事の仕組を変えさせられている。思考や意識の変革を迫られている。その中で生き残れるのは、より悲観的な結果を想像し、それを打開する新しい考え方を持つ人間であろう。なぜなら、窮状に陥っている者が這い上がろうとするパワーは、楽観的な人間の比ではないからだ。
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オリンピックとロックダウン
http://jhm1998.exblog.jp/241161408/
2021-08-14T22:32:00+09:00
2021-08-14T22:32:04+09:00
2021-08-14T22:32:04+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
昨日、ついに国内の新型コロナ新規感染者数が2万人を突破した。ネットでは相変わらず誰かの責任だとか、まるで他人事のようなコメントをする人たちを多く見かけたが、もはやこの感染拡大は、危ないとわかっていながら移動したり会食したり遊んだりしているその行為とそれを何となく許してしまっている私たち国民全体が拡げてしまったものであり、私たちが猛省しなければならないと思っている。
拡大の原因のひとつにオリンピックを開催することによって、自分たちも我慢せず行動してもいいだろうという心理的要素があったという人もいるが、本当にそうなのかどうかはわからないため、この記事ではそれについては語ることはしない。ともかく、事実として7月に入ってから新規感染者が猛烈な勢いで増大したとことだけは間違いないことだ。
そのオリンピックの開催について、世の中は賛否両論が渦巻いた。特にネットでの反対派のコメントは強烈だった。また、マスコミもそれを遠巻きに後押しした。
かくいう私も当初はオリンピック開催に懐疑的であった。しかし、ある時から少しずつその考えに変化を生じてきた。それは7月に入り、新規感染者数が一気に増加傾向になった時だった。
そもそも、オリンピック開催反対の理由の一つに、パンデミックが起きている世界各国から人々を招いて、(6月までには)やっと落ち着いてきた新型コロナが、外国の人々によって国内で感染を広めてしまうのではないかという危惧があった。私が懐疑的になった理由の一つもこれであった。しかし、オリンピック関係者が大勢日本に到着する前に、すでに日本の新規感染者は増加傾向を示していた。それによって私の視点は変わってきた。
オリンピックに参加するアスリートたちの多くは、出場のために自国内での感染から逃れるため、また、オリンピックでベストの成果を出せるよう、相当ストイックな日々を過ごして来たのかもしれない。アスリートにとって、その人や種目によって一生に一度しかないかもしれないチャンスのために最大限の努力をしてきただろう。そのような人たちが、感染者が急増している日本に来て、万一感染してしまったら申し訳ない。そして、それを自国に持ち帰ってしまったら申し訳ない。そんな気持ちに変化して行った。
そこで私が密かに考えた解決策があった。それは、「日本国内をロックダウンして、大きな社会活動はオリンピックだけにする」ということだった。
しかし、いわゆる「有識者」でも「知識人」でも「政治関係者」でもない私が、このような大それたことを提案しても、政府関係者に届くはずもなく、せいぜい凶暴なネット民の標的の的になることは容易に想像できたため、自分の胸の中にしまい込んでいた。
しかし、結果的に、それが最善の策であったのではないかと、オリンピックが終わり(パラリンピックはこれからだが)、それを待っていたかのように感染が大爆発している今、改めて思う。
オリンピックの期間、国民は全ての社会活動を停止して自宅のテレビでオリンピックを観戦する。そうすることによって、アスリートが感染することを最小限に抑え、また、国民の間での感染拡大を同時に抑えることができる絶好のチャンスであったのではないか。そんな風に私は考えた。
だが、この考えは今の日本の世論の中ではとんでもないものであると言われるのは充分わかっていたし、仮に万一注目されたとしても、誰も実行策として真剣に検討するはずもないこともわかっていた。国全体をロックダウンしてオリンピックを開催する。思いついた私でさえ異様に思える。だが、そもそも感染が拡大しているのに危険とも思える行動をしている情景も異様であるし、その中でオリンピックを開催することも異様だ。どうせ異様であるならば、ロックダウンしてオリンピックした方がまだましであったのではないか、と私は思った。
そのロックダウンだが、yahooの「みんなの意見」で、日本で、ロックダウンするべきかどうかというアンケートで今現在79%がするべきと答えている。私もするべきに一票を投じた。しかし、コメント欄は(ネットではいつものことではあるが)汚い攻撃的な言葉が散見していた。もちろん理路整然とコメントする人もいたが、多くは、おいおい、コメントする前にもう少し考えたらどうか?と首をかしげたくなるようなものであった。海外でロックダウンしてもその後リバウンドしたじゃないか。だからロックダウンしても意味な、という意見もあったが、では具体的にどのようにしたらいいのかという発言はない。その中に、憲法を改正しないとロックダウはできないからというものが相当数あった。
私は「なぜそんな論理になるのだろうか」と疑問に思った。
例えばここ数日の集中豪雨で本州の各地に甚大な被害が出ているが、このような天候の時、よく道路が通行止めになる。また、鉄道も運休になったり航空機も欠航したりする。それは人々の安全を確保するために行っていることだと誰もが理解を示し、大きな問題として取り上げることはない。みんなそんなのは当たり前という共通認識がある。しかし、見方を変えれば、これらは人の移動の自由を奪う行為であるはずだ。自己責任で誰にも助けを求めないし、誰にも責任追及はしないから通行止めを解除してくれとは誰も言わない。つまり自由を制限されても、誰もがこんな時だから仕方ないよねとの共通認識を持っていることになる。
そして、誰も通行止めや運休や欠航するためには憲法を改正せよとは決して言わない。
そう、災害時においては行動の制限を私たちは許しているのだ。ロックダウンも同じだ。伝染病の蔓延という災害において、人々の被害を未然に防ぐという理由においては何らかわないものだ。ただそれを私たちが許容する共通認識とするかどうかの問題であって、わざわざ憲法を改正する必要など全くないし、特別措置法の中にそれを盛り込めばいいだけの話ではないだろうか。私はそう考える。
さて、ロックダウンは必要かどうかという点について述べると、もうその方法しか残っていないのではないかと思えてしまう。何ら特効薬を付加させない緊急事態宣言やまん延防止等重点措置を繰り返しても、結局は国民の自制頼みであり、かつ、その国民が自制をうっとうしく思って無視しているのだから、取るべき手段はロックダウンしかなくなっているのが現状ではないだろうか。ロックダウンに反対する人も多いが、ただ反対するだけで、実効性のある具体的方策を提言している人を見たことも聞いたこともない。
ロックダウンもせず、指をくわえてワクチン接種が進むのを待つのでなく、全く別の手段によって感染の拡大を抑制できるアイディアを出すことのできる人がもしいたら、その人は間違いなく救世主であろう。もしロックダウンを行わないのなら、私たちは救世主が現れるのを待つしかないのではないだろうか。
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私たちは今大火事の中にいる~人を殺す自由などない
http://jhm1998.exblog.jp/241128860/
2021-08-12T21:51:00+09:00
2021-08-12T21:51:41+09:00
2021-08-12T21:51:41+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
2週間前の投稿の続きとなります。
今回のタイトル、先に新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長に言われてしまった言葉ですが(笑)、その発言の前から私の頭の中にあった言葉です。
そう、今私たちはとてつもなく大きな、その規模も知ることができないくらいの前代未聞の火事の中にいるのです。その炎は激しくどこにでも飛散し、あらゆる場所に新たな火事を引き起こします。しかし、この炎は色もなく、熱さも感じず、においもせず、大きさも私たちは感じることができません。だが、確実に燃え盛っており、私たちに襲いかかろうとしています。
この炎は、ちょっと気を緩めるとその人に襲いかかり、火傷を負わせます。幸いにも火傷が軽傷で済むこともあれば、見た目にはどこにも火傷を負ったようには感じることもあります。しかし、この炎はまるでゾンビにかまれた人間がゾンビになるのと同じように、一度炎を浴びたものは別の人をも巻き込んでしまうという恐ろしいものです。もちろん重傷を負う人もおります。また、命は助かっても火傷が残りその後の日常生活を送ることのできない人もおります。この炎は人の命や人生を奪ってしまう大変やっかいなものです。
今、日本、そして世界はこのとてつもなく恐ろしい火事の真っ只中におります。
その中で私たちはどうしたらいいのでしょうか?
ある人はどこから降りかかってくるかわからない火の粉の犠牲にならないように、慎重に防護服を身にまとい、たとえ炎に触れたとしても軽い怪我で済むように全身に水をかけてじっとおとなしくしています。ある人は、火傷を負うかどうかはどうせ運次第だからと自分の好きなように動き回っています。また、ある人は、そこに炎が燃え盛っている可能性が高いとわかっていながらその方向に歩いて行きます。また、ある人はせっかく今まで我慢してきたのにもう耐えきれず、目もくれず火が燃え盛っているかもしれない所に走り出します。
この火事は、最初は自然発火したような天災ともいえるものでした。しかし、世界中の多くの地域で消火活動を怠ったために火事は広がってしまいました。その時点からこの火事は人災となりました。
しかし、この火事にも解決策があります。火はその上から蓋をすればそのうち消えます。まして消火剤を撒いたらなおさら効果的です。世界の一部の地域では大きな蓋をして人を家から出れなくするという手段で鎮火にあたりました。
だが、蓋をされた人の行動を制限するのか、人から自由を奪うかと、消火活動を否定する人たちもたくさん出てきました。そして、火が小さくなって蓋を外したら、まるで酸素たっぷりの強い風が吹いたかのように再び火は燃え広がりました。
自由というものは気持ちがいい。自由がいいに決まっている。自由を制限する権利など誰にもない。私たちには私権がある。
それはごもっともです。私も同感です。でも、同時に自由に行動するためには個人個人の責任が発生します。自分の自由のために、他人の命を脅かすことは決して行ってはいけないのです。自分の権利と自由のために、誰かを殺す、あるいは他人の人生を滅茶苦茶にしてしまう、そんな自由などあってはならないのです。
極端に言えば、炎をまき散らしてもいいと積極的に考えていなくても、結果的にそのような危険性のある行為をしている人は、自分の手で誰かを刺したり、首を絞めたり、トリガーを引いたりという実感もないまま、人に危害を与えているということになります。
決して刑法では処罰されない殺人あるいは殺人未遂を集団で行っている。今の日本や世界はそんな状態ではないのでしょうか。
さて、日本の消火活動は消防隊の段取りが悪く遅々として進んでいない。そんなお盆休みの中、火の粉をかぶっているかもしれない人があちこちに行き、また、火が燃え盛っているあるいはくすぶっている所に行こうとしている人々が多くいる。毎日「最多更新」という報道の中で。
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コロナ新規感染者1万人突破、問われる日本人の民度
http://jhm1998.exblog.jp/241110414/
2021-07-30T00:50:00+09:00
2021-08-01T11:34:20+09:00
2021-07-30T00:50:37+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
かなり久しぶりの投稿となりますが、世の中の現在の状況に抱いていた懸念が度を越してまいりましたので、ブログ投稿という手段でその懸念を訴えたいと、重い気持ちを振り払ってこれからそのことについて述べます。
なお、この新型コロナ感染に関しては、様々な面から述べたいことがありますので、これから何回か続けよう(毎日ではありませんが)と考えていますが、写真は世界遺産登録が決まった北海道・北東北の縄文遺跡群の中心的遺跡である、青森県三内丸山遺跡をこの期間掲載させていただきます(撮影は2019年7月)<
さて、今日、遂に日本全国の新型コロナ新規感染者数が1万人を突破しました。先週あたりから増加の加速度が過去の流行とは比べ物にならないほどに高くなり、半ば冗談で今秋には全国の新規が1万人を超えるかもしれないとおぼろげに考えていましたが、うれしくない意味でその予想は的中しました。
今回の第五波について、何かひとつだけチョイスしてその問題を述べることは難しく、多方面からこの問題を話さなければなりません。
その第1回目として、まず国民について述べさせていただきたいと思います。
私は日本人というものは、より節度とこれ以上は人としてやっていけないだろうというボーダーラインを、誰から教えられなくても守って慎ましく社会を築き上げている国民だと思っていました。しかし、その節度あるはずの国民の民度が、どうやら私の期待していたものには、残念ながら達していないことが、本日の全国1万人突破で強く感じてしまいました。
まず、現在感染株の主流となっているデルタ株の、感染力の強さについて、多くのメディアが報道し、ネットニュースなどでも頻繁に取り上げられているにも拘らず、それを警戒するどころかまるで他人事のように街に繰り出している人々があまりにも多いこと。その人出と感染力を掛け合わせると、本日の東京の新規感染者数が先週同曜日の2倍になるのも不思議ではなかった。専門家は以前より厳しい予測と警告を発していたが、実際はそれを超える感染者数となってしまった。
こうなるまでの間、世論ではオリンピックをやるのに何で自分たちだけが自粛しなければならないのかとか、あるいは、政府の対応があまりにもずさんで、もうこれ以上「協力できない」という声があちこちから聞こえていました。それはそれで心情的にも、また、切羽詰まった日々の売り上げという点でも理解できます。確かに政府の対策はとんでもないもので、それについては後日ゆっくりとお話ししたいと思いますが、それはそれとして、そんな頼りない政府だからこそ、私たち国民がもっとしっかりしなければならないはずなのに、結果は本日の新規感染者数を見てもお分かりの通り、残念な結果になってしまっていました。
そもそも、この新型コロナウィルスは、(ワクチン未接種を前提として)人間の感情や思惑や批判や開き直りに関係なく物理的に感染拡大させてしまうものです。それは良識ある日本人であれば誰でもが認識できているはずだと私は思っていました。しかし、相次ぐ酒類提供時間の短縮あるいは停止などの要請が続き、そのうち、もう食っていけないからと自粛要請を無視して酒類提供を続けたり、要請時間を延長して営業を続けていたりしている店舗があることを私たちは報道等で知ることができました。
マスコミは、この報道に関し、店舗営業の運営が厳しいとか、時短要請を守らず遅くまで営業している店があるとか、どちらからと言うと飲食店側にスポットを当てたものばかり世に情報を提供していました。
ですが、よく考えてみてください。飲食店の方々は生き延びるために必死に営業しようという心情は理解できますが、問題は自粛要請を守らず営業している店に利用している市民にも大いにあるのです。経営維持のために自粛要請を無視して営業を続けているお店の切なる気持ちはわかるけれど、自分や家族や会社の同僚たちのためにも感染リスクの高い行動は控えなければならないという意識を、市民が強く持っていたら、そのようなお店には行かず、営業延長している飲食店も延長しても無駄だとわかり、要請に背いてまでも営業はしないでしょう。しかし、実際に需要と供給が一致しているからそのような飲食店側の行為が成り立ってしまっているのです。
つまり、私たち日本人のモラルが著しく低下している結果が、今まで、新規感染者が1万人を超えるのはほかの国の話で、日本はそこまで酷くはならないだろうという信じていた「日本人の節度」が崩壊したという形で、この度の数字になってしまったのだろうと考えます。また、こんな時にオリンピックを開催しているのだから自分たちが我慢する必要などないのではないか、政府のやることに整合性がないから協力できないという意見もネット上でよく見かけますが、はっきり言って、10代の反抗期の若者のような思考回路のような意見にしか思えません。
これだけ新型コロナに関する情報が公開され、専門家による警告などが毎日のように報じられているのに、つまり、リスクのある私たちの行為はこのようなものですよと口を酸っぱく話しても、感情論的な観点から「協力できない」というのは、自分はもちろんのこと、自分に関わる友達・職場の人間・学校の人間・家族がどうなっても構わないと言っているのと同じことなのであります。
相手は、政府でもなんでもなく、更に感染力を増したデルタウィルスなのです。人々がどんな感情を持とうが、思想を持とうが、科学的に移るリスクが高いことを行ってしまえば、現実的に感染者は増加し、パンデミックは一向に収束の目途がたたなくなります。その原因はいくつもあり、もちろん政府によるとんちんかんな政策がかなり大きなものですが、そんな頼りない政府であれば、自分たちの身は自分たちが守るという考えに何故国民はならなかったのでしょうか ?
こんなことは、視聴者を過度に刺激したくないマスメディアは決して問題点としてあげないでしょう。しかし、いかなる理由があったとしても、結果的に感染者が急増した一因には私たち国民の意識の低さがあったことは否定できないと思います。まさしく私たちの民度が今問われているのは間違いことであります。
日本人の節度を持って忍耐強く秩序を守っていき、他人にはかけないという世界から称賛されているはずの民度が、今陥落していることは間違いありません。
休日の渋谷や銀座などの人出が多く、通行人が不安になりますね、というコメントをたまに聞きますが、であればまず自分がそのような場所に行かなければいいのではないかと素朴に思うわけなのですが、それを堂々とインタビューに応えている光景にもとても違和感を覚えます。
ともかく何かがおかしく、誰かのせいにばかりして、冷静に自分を見つめない今の国民には、危機感を覚えます。
もちろん、ここまで感染が拡大したのはすべて国民の責任ではありません。政府のとんちんかんな対応が大きく影響していますし、そのことについてはこれから何回にも分けて、自分の考えを述べたいと思っていますが、まずは、日本人よ、もっと冷静に、コロナに対してはもっとネガティブに、人の命や人生変えてしまうことに私たちは今直面しているだという認識をしっかり持っていただきたいというのが私の願いであります。
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便利さと危険性が背中合わせだったLINE
http://jhm1998.exblog.jp/240896684/
2021-03-24T23:35:00+09:00
2021-03-24T23:35:43+09:00
2021-03-24T23:35:43+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
気が付いてみたらおよそ4か月ぶりの記事を今書こうとしています。
この空白の4か月の中で、もう一切記事を書かなくてもいいかな、つまり、自然消滅してもいいかなと考えた時もありましたが、それでもこれは発信しておきたいと思う事柄が次第に蓄積し、そろそろ自分が考えたことを世間に伝えてもいいのではと、このブログを始めた時のような思いになりました。
そんなわけで、まずは、今色々報道で話題になっているLINEの問題について、自分なりの考えを述べさせていただきたいと思います。
まず、何故今この度のような問題が発覚したのかという疑問です。
一応、発表はLINE側が自ら行ったようですが、タイミングがあまりにも偶然過ぎるの不可解です。ちょうど東北新社の接待問題に絡んで総務省のNTT接待問題が発覚した時期にyahooとLINEの経営統合が発表され、そのあとにこの度のLINEの個人情報問題。
へそ曲がりな私は、「やられたらやり返せ」「足を引っ張ってやれ」の応酬をNTTとyahoo・LINE間で行われたのではないかと勘繰ってしまう次第であります。まあ、それは私の勝手な想像ですので、真実はどうなのかはわかりませんが、携帯料金の価格競争だけではない争いがあったのではないかと思ってしまいました。
それはそれとして、そもそも私はLINEはその始まり当初から疑念を抱いておりました。
それはなぜかと申しますと、例えばfacebookのmessegerやtwitterinstagrmのDMなどはSNSの付録のような機能としてメールサービスを行っており、企業としての収益は本体のSNS内での広告収入が主であり、メールそのものには収益があるのかないのかわからない程度のものであると理解していたのですが、LINEはその収益が見込まれないメール機能のみでスタートさせたからであります。当時、私はこの疑問を近くのLINEをインストールした人に訊いてみたのですが、「LINEスタンプを売って収益を得てるのでは」という納得のできない回答がありました。そもそもLINEはどちらかというと10代20代の若者が受け入れやすいようにプログラムされているとの認識があり、その年齢層が支出できるお金は限られているはずで、スタンプだけでは大した売上にはならないだろうと想像されました。
もちろん現在はその利用者数から広告や決済や様々な収益を得ることができるようになっているようですが、最初はどのようにして経営を成り立たせるのかとても不思議でありました。
そんな中、LINEの様々な問題点が発覚されました。まず、LINEに登録すると同時に携帯の電話帳に入れているLINE登録者にその情報が公開されてしまうということ。私がLINEを開始しなかった大きな理由はまさにこれだったのですが、いくら約定にあるからと言って荒業すぎるし、個人の意思の選択の余地のないシステムに閉口してしまったのです。その後、新たに登録した人がぼそっとつぶやいたのが、LINEを始めてから迷惑メールが増えたということです。これは単なる偶然かもしれませんが、まぁ、LINEであればあってもおかしくないなと、ますま私はLINEを遠ざけてしまったものでした。
そして、一時問題となった韓国政府がLINEやカカオなどを閲覧していたという報道で、うーんそういうことかと、ますます私は自分が利用すべきではないものであるという確信を強く持つようになりました。
しかし、さすがに圧倒的に周囲の人たちがLINEでトークしている中、私もやらなければ迷惑がかかることがあるかもしれないので、(諦めて)始めようかなと思い始めた矢先にこの度の問題が浮上し、現在のところ「やっぱりやめておこう」と決め込んだ次第であります。
さて、話は戻り、何故LINEは当初メール機能のみのシステムで運営できたのかということですが、私は一つの仮説を立てました。
それは、「LINEが当初最もしたかったのは情報収集であり、それを買ってくれる企業があったから運営が可能であった」というものです。情報と言っても個人情報だけではありません。若者たちがLINEを利用することによって交わされた会話から、今の若者の思考や好み、流行等を知ろうしたのではないか。つまり市場リサーチを会話の中からてデータ化したかったのではないのか思います。そのためには統計上も数多くのサンプル数が必要であります。だから、LINE登録すると他の登録者に強制的に公開され、ビッグデータとなるような荒っぽいことをしたのではないかと考えます。
それはどこに売れるのか?
ちょうどLINEが流行したのと時を同じくして、韓国のエンターテイメントが日本のみならず世界で流行し始めてきたのです。見事なまでにスマートに世界の若者たちの心に浸透し始め、皆様ご存じのようにBTSは今年のグラミー賞の候補になるまでに世界を席巻しました。そうなるまでの間、LINEは日本のみならず、世界に利用者を拡大したのです。これも単なる偶然と言えるのでしょうか?
うがった見方かもしれませんが、LINEは当初から日本をターゲットに、日本の若者の好みや傾向などをリサーチすることを最大の目的として運営され、そのデータをきちんと買い取ってくれる企業が韓国内に存在したからこそ、人の目あるSNSという手段ではなく、もっとも本音の言いやすい「トーク」に特化したものを作ったのではないかというのが私の仮説です。
まぁ、これは人によっては仮説ではなく妄想だと片付けてしまう方もいらっしゃるかもしれません。
でも、最後に一言、昔からよく言われている言葉です。
「タダより高い物はない」
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コロナによって世界は変わる
http://jhm1998.exblog.jp/240688246/
2020-11-15T00:47:00+09:00
2020-11-15T00:47:38+09:00
2020-11-15T00:47:38+09:00
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社会・経済について
今日も日本の新規コロナ感染者が過去最多を更新した。北海道全体でも今までにない高い水準で感染者が発生しており、今日は全体数から札幌分の除いた、つまり札幌以外の地域の感染者数が100名以上になるなど、新型コロナウィルスは一地域に集中より私たちの身近なものとなってしまった。函館でも連日新規感染者の報告があり、何かの偶然で市民の誰もが罹ってしまってもおかしくはない状況となっている。
このようになるのはわかっていた。春頃に書いた記事にも、秋から冬にかけて大きな波が来るかもしれないと記した記憶がある。政府は緊急事態宣言を発動したが、それは大きく経済をストップさせる行為であり、いつまでもその状態を持続させるのは不可能であるため、いずれ諸々の制限(要請)を解除するのは明らかであったし、再び人々が今までに近いような状態で社会活動・娯楽などを行うのは容易に想像できた。しかし、新型コロナウィルスはインフルエンザウィルスのように夏になったら沈静化することもなく、温かい地域・国での感染状況を見て理解できたように、夏にも猛威を振るい、そして、最も危険な晩秋から本領を発揮してきた。それが今の日本や世界の状況だ。
そんな危険な要素を含んでいながらも、政府はGO TO トラベル、GO TO イートキャンベーンなどを強行し、当初規制されていた東京在住者のキャンペーンも適用となり、日本全体にどこか「緩み」が生じたことは否定できない。例えばマスクひとつにしても、全国で緊張が走った春先は誰もがマスクをしていたのだが、そのうち若干感染者数が下降すると、マスク不要論がそれなりの数の人々に広まった。人は皆理論的に動くわけではない。ほかの人もマスクをしていないのだから、自分もしなくても大丈夫だろうという、「気分」で動く者も一部にはいる。また、夏の第2波の時も、どちらかというと夜の街で遊んだり働いていたりする若者が中心だったため、無症状や軽症が多く、感染者が多いといっても、世の中の特定の一地域さえ回避すれば何とかなるだろうという大きな勘違いを持ってしまったのも、今になって過去最高を記録する拡大につながったのではないだろうか。
以前も書いたが、もう政府は緊急事態宣言を出すことはできない。それどころか、GO TO トラベルを延長することまでしている。これはたぶん、自民党の二階幹事長が全国旅行業協会の会長として鎮座しているせいもあるかと思われるが、ともかく見事に感染拡大の状況整備がされ、危険性の高い晩秋を迎えてしまった結果が現在の感染者数として現れた。
はっきり言おう。政府に対策を期待しても、それは無理なことだ。現在の社会システムの中での経済と生命の維持の両立は困難であることは、日本だけでは世界各国で立証されている。自分の命は自分で守るしかない。神経質だと言われようが、何を言われようが、世の中にはどんな主義主張であろうが、結果的に「加害者」になってもいいと考えいる人が大勢いることを念頭に、自分のできることは全部して自分を守るしかないのだ。政府にはただ金を出してもらう、医療体制を整備してもらう、検査体制をよりよくしてもらうくらいしか望めない。
経済と健康の両立は無理であることは、今回の拡大で十分わかっただろう。「金をとるか命をとるか」のどちらでしかないはずなのに、両方とれたらいいなという楽観的な経済状況を優先した方策では、私たちは命の危機に直面せざるをえないことを。
そしてもうひとつわかったのは、もう私たちが当然だと考えている社会システムでは、今回のようなパンデミックを打破できないということだ。私たちは自由民主主義が最も「正義的」な社会だと知らずの間に刷り込まれていた。しかし、世界を見ると、その自由主義の大国に膨大な数の感染者が生まれている。個人の自由が認められているのだから、マスクをしない自由、外出する自由があるのは当然だと考えるのは間違いではない。だが、それはほかの人々を巻き込んだパンデミックを生む結果となった。
対照的に、国民を管理抑制し、監視し、個人のプライバシーも丸裸にされている中国では、沈静化され、人々は普通に働き遊んでいられている(ようだ)。それでは、中国のような、独裁的で人々の言動も抑圧されている政治であるべきなのか、と考えても、答えはNoとしか言えない。一度自由を知ってしまったら、なかなか簡単に手放すことなどできるわけがない。(それでも自民党はじわじわと「実質的な」自由を国民から奪おうとしているが)
この度の新型コロナウィルス感染で、私たちは金と命、自由と管理という相反する課題を解決しなければならないという大きな問題に直面することになった。それを解決するためには、私たちが今まで考えていた価値観やイデオロギーをことごとく覆す新しい社会的経済的概念や社会的経済的システムが必要となってくる。
それは全世界的な規模で変わらなければならない。
いずれワクチンの普及などで何年か先には新型コロナも沈静化するかもしれない。しかし、その時までに失った経済や命、生きていたとしても後遺症から立ち直るのは相当な年数を要するであろう。その間世界の混乱は続き、今何とか生き延びれている人でも身体的危機や経済的危機にさらされるのは想像に易い。
そうなる前に私たちは今まで考えもしなかった新しい概念や価値観を持たなければならないだろう。金がなければ命が脅かされるのではなく、自由よりも管理が優先されるのでもない、全く新しい概念が必要とされている。それは、きっと今よりも世界を平和にするという副産物をもたらすかもしれない。なぜなら、それはおそらく生きるか死ぬかという二者択一の必要もなく、右か左かという二者択一の必要もないものでなければならないはずだからである。
そのような概念が生まれてきたら、結果的にコロナによって世界が変わったということに、後に言われることになるであろう。
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アメリカン・ヒステリック・バイオレンス
http://jhm1998.exblog.jp/240673564/
2020-11-05T23:59:00+09:00
2020-11-05T23:59:09+09:00
2020-11-05T23:59:09+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
昨日から、私だけではなく多くの方がアメリカ大統領選の動向に注目しているであろう。
今回の大統領選は、単に次期米国大統領を決めるというルーティンのようなものではないことは皆さんもご存じだと思う。場合によっては世界の情勢を変えることもありうる選挙であるし、世界という前にアメリカ合衆国の今後が左右されるものであることは違いない。なぜなら、トランプは就任後、アメリカがひた隠しにしていた「本心」をむき出しにしてもいいじゃないか、という言動を数々行い、それまで「理性」の陰に隠れていた「バイオレンス」を正当化させてしまったのだ。
ここで言うバイオレンスとは実際の暴力のことではない(ただし、今のところという前提がつくが)人々がマイノリティに対する差別を堂々と行ってもいいのだという概念的暴力や経済的損得だけが正義という経済的暴力、新型コロナを軽視したアメリカ国民に対する(実際の攻撃をしない)肉体的暴力をトランプは行った。それらに対して疑問を抱く国民が強くトランプに対して嫌悪感を示した。選挙前のインタビューである国民がどちらに投票しますかという問いに対して、「トランプではない人」という答えを発したが、それが今のアメリカの状況をより明確に表していると思った。そう、バイデンがトランプより優れているかどうかではなく、トランプ以外の人間を選びたいという思いが、空前の投票率につながったのだと思う。
しかし、一度解き放たれた「パンドラの箱」は、もう手が負えなくなってしまった。トランプ陣営が何の根拠もなく「不正投票が行われている」と言い放つと、投票所に中に入れろと抗議をする人々が押し寄せたり、どこかに投票が廃棄されたのだとか、理性など全く感じさせない「ヒステリック」な言動が横行している。
これがまだ抗議程度ならいい。再集計や集計差し止めの提訴ならまだいい。一番恐ろしいのは、本当のバイオレンスが現実化することだ。今回の選挙で銃を買い求めた人が激増したという。アメリカ国民は現実的なバイオレンスの危機を感じているのだ。それは、何かのきっかけでヒステリックバイオレンスとなって、悲惨な状況を報道で見てしまうことになるかもしれない。決して単なる主義主張で対立するわけではない。ヒステリー状態の中で、本当の暴力がアメリカ国内各地で繰り広げられるかもしれないのだ。
そもそも、以前から疑問に思っていたのだが、選挙人を決めるための選挙という制度は何の意味があるのか全く分からない。せっかくきちんと集計をしているはずなのだから、全国民の得票数で決すればいいのに、どうしてこんな紛らわしいゲームみたいな制度にしてしまったのか。そして、今回、トランプはエアーフォースワンで各地を飛び回って選挙活動を行っていたが、公務のために使われるはずである飛行機が、自身の選挙活動に使用しても何ら疑問も持たないアメリカ国民の感覚も理解できない。
ともかく、おかしなことばかりが次々と私たちの前に登場するこのゲームは、ひょっとしたら約250年前の南北戦争のような国内の分断・対決を現実のものにするかもしれない危険性をはらんでいる。
アメリカはとてもパワーのある国だ。だから色々な方面で世界を席巻し、いまだに最も地球上で影響力のある国となっている。しかし、そのパワーは常に正義のもとに発揮されているとは限らない。アメリカはすでに「正しくない戦争」をいくつも行っている。しかし、その時の国民はその「ヒステリックバイオレンス」に賛同してしまっている。パワーがあるがゆえに、パワーが理性を凌駕してしまうことがしばしばある。
しかし、これは勘でしかないが、今回は「理性」までもがヒステリックになりかねない可能性がある。そうなれば手の付けようがない。何日後になるのかはわからないが、私たちは悲惨なアメリカ国民同士の銃撃戦を報道などで知ることになるかもしれない。
それを回避するためには、トランプが敗戦を率直に認め、支持者たちに落ち着いて行動をするように説得するしか方法がない。だが、これも今の様子であれば期待できない。なぜなら、トランプが大統領ではなくなった時から、今までの数々の不正や疑惑の捜査や事業の膨大な負債での倒産・一部には離婚をありうる(もちろん慰謝料は膨大なものになるはず)など、単に選挙で敗れただけでは終わらない面倒な事態が待ち受けているからだ。
そんなトランプ氏にもう一度この歌を贈ろう。
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金を選ぶか、命を選ぶか
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2020-10-30T00:16:00+09:00
2020-10-30T00:16:13+09:00
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jhm-in-hakodate
社会・経済について
アメリカ大統領選挙がいよいよ大詰めを迎えるにしたがって、日本でも両候補者の動向や支持者の発言などが盛んに報道されているが、それを見て私はあることを思った。
選挙の争点の一つに新型コロナ対策か経済かというものがある。改めて解説するまでもなく、トランプは経済を、バイデンはコロナ対策を主張している。そんな中、フランスでロックダウンが発動された。日本でもじわりじわりと増加傾向にある。再びコロナの脅威が私たちに思考することを要求してきたのだ。
経済かコロナ対策かという聞こえのいい問題でない。金をとるか、命をとるかという二者択一を私たち人類は迫られているのだ。
しかし、簡単に二者択一などという分類で済まされないのが、この感染病のやっかいなところだ。感染拡大(つまり命)を選択するとおのずと経済は止まる。それによって食べていけず亡くなってしまう人間も出てくるかもしれない。つまり、コロナに感染しなくても経済的に生き延びれない人が出てくるかもしれないということだ。
そこで経済を動かす(つまり金)ことを選択すると、コロナ感染者は増える。これも命の危険にさらされることになる。
この矛盾に満ちた状態を整理して論理的に解決の方向に導くような発言者を、残念ながら私は今のところ見たことがない。
もちろん私にもそんなものは思いもつかない。しかし、金をとるか命をとるかの二者択一をしなくてもいい方法論は、ひょっとしたらどこかに眠っているかもしれない。
ただそれを誰も気付かずに、経済かコロナ対策かの二通りしか考えることができないのかもしれない。
例えばお金がなくても生きていける世界を作ったら、コロナ対策に集中できるようになる。つまり私たちの生活に必要なものを「金」という概念の媒体を通して得るシステムを変えることができたら、危険を知りながらも経済活動をしなければ生きていけないなどということはなくなるのだ。
もちろんこれには大きな壁が立ちふさがる。「金」によって人を支配し、自分の立場を守り、世界の経済に影響を与えている人々は、そんな社会なんて全く価値のないものだと思うだろう。また、色々な方法でそれを阻止するだろう。
しかし、もし「金」がなくても私たちが生活していくことができる手段があるとしたら、金持ちという人々はの「価値」は低くなるだろう。
だが、この私の思い付きのような考えは、そう簡単に広まらないだろう。もっと切羽詰まった、生きるか死ぬかの淵に、世界中の多くの人々が立たされない限り新しい経済システムを考えることはないだろう。でも、いずれ金か命かの二者択一にしか答えを見いだせない世の中にピリオドが来る日があるかもしれない。
もしそういう世界を築き上げることができる国が出現したら、核やミサイルに頼らず世界を変えることができるかもしれない。
それは人類にとって、大きな変換点となりうるに違いない。
なんとも茶番のようなアメリカ大統領選の報道を見ていて、私はそう思った。
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ある素敵な社長さんの話
http://jhm1998.exblog.jp/240530249/
2020-08-17T00:00:00+09:00
2020-08-17T00:00:58+09:00
2020-08-17T00:00:58+09:00
jhm-in-hakodate
社会・経済について
これは、全国の食物を扱っているある会社の方から聞いた話です。
北海道内の超有名な菓子製造会社の社長さんの話です。その会社のお菓子を食べたことのない人のほうが珍しいくらいの北海道の銘菓を製造販売している会社ですが、なぜそのようになったのかが、少しは理解できる話であります。
私がその会社の方から直接聞いた話ではないため、万一のために会社名は明かしませんが、今では大手になったとはいえ、最初はひとつの町のお菓子屋さんでありました。そこでは何人かの従業員を雇い、コツコツとお菓子の製造を行っていました。そのうち、業績が伸び、社員の生活も安定してくると、社員は自分の家を建てるようになります。ところが社長さんはお金も信用もあるはずなのに一向に建てません。
なぜなのか?
それは、社長さん以外の全社員(当時)が家を持った時、やっと社長さんが自分の家を建てることにしたことで分かりました。その社長さんは、まず従業員の生活が根につくことを使命としていたのでしょう。それを見届けてから、古いアパートから新しい一戸建てに引越したわけであります。
こういう社長さんのもとで働けば、何かしら会社のために頑張って働こうという気にもなりますよね。そして、最初にも申し上げましたように、その会社は数々のヒット商品を生み出し、知らない人はいないくらいの超有名な菓子製造メーカーになったわけであります。
それとは反対に、先日twitterでこんな投稿を発見しました。
「以前面接した会社の人事の方が仰っていたのが、函館の経営者は社員を安い賃金で働かせて、自分は良い車に乗り良い家に住み良い暮らしをしていると。そういう経営者ばっかりだと。
ホントその通りだなと思いました。」
函館から全国でも受け入れられるヒット商品が出ないわけは、こういうことが理由だったのでしようか。
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