カテゴリ:その他雑感( 854 )

a0158797_21564300.jpg

さて、そんなわけで猫親子3匹との共同生活が始まったわけだが、強調したいのは「共同生活」を始めたという自分の認識だ。決して猫を飼ったという意識はなかった。そもそも経緯からして、少なくても私が望んだ同居ではなかった。どういう理由かわからないが、親猫が私の部屋を育児するための場所として選んだとしか考えられなかった。だから私としては能動的に「猫を飼った」という意識にはとうていなれなかった。
また、相変わらず基本的には干渉はしないという暗黙のルールは守られていたので、やはり「共同生活」という言葉が最も適切だと思う。

ところが、そんな悠長なことを言ってもいられない状況がすぐにやって来た。この奇妙な共同生活が始まって間もなく、私のアパート(というより、玄関が共同であるため貸間と言うべきだろう)に片足を引きずって歩く小猫が舞い込んで来たのだった。誰が最初に発見したのか、今となってははっきり覚えていないが、建物の別室に住んでいた若い女性と北大生と私の3人で話し合い、北大の獣医学部にその怪我の状態を診てもらうことにした。その結果は骨折ということだった。車に轢かれたか何かで骨折したのだろう。だが、特別な処置をすることもできないので見守るしかない。そんな感じの診断だった。
やれやれ、こんな状態でどこかに放してしまうのも酷なことだ。仕方ない、3匹も4匹も同じようなものだ。まとめて面倒見るしかない。そんな軽率な勢いで結局私がその小猫の面倒をみることになった。

その小猫は、共同生活中の子猫に比べるとはるかに大きかったが、成人(ではなく成猫)した猫よりははるかに小さかった。当時の私の推測では生後2~3か月くらいではないかと思っていた。だから、食事はもう普通に魚の缶詰か何かを食べるのだろうと思っていたが、実際に部屋の連れて戻ったら、やっと目の開いた子猫たちと一緒に親猫の母乳を啜ったのだった。驚いた。骨折している小猫がまだ離乳していなかったこともそうだったが、自分の子供でもないその小猫に何の抵抗もなく乳を吸わせている。
ある意味、人間というのは何で「家族」というシステムを作らなければならなくなったのか、その不便さに疑問を持った。小猫が乳を望めば誰の子であれ母となった猫はそれに応じる。何という平和なシステム何だろうか。
私は猫の世界が少し羨ましく思えた。

だが、少したって、子猫がやっと歩けるようになり、それどころか走れるようになり、骨折していた小猫が普通に動けるようになると、私の部屋は子供たちのかけっこ場となった。小さい3匹じゃれ合って遊び、親猫は黙って何も言わなかった。そうなると当然部屋の中に置いてある物を倒したり、引っ掻いたりと目茶苦茶な住環境を迫られることになってしまった。しかし、さすがにそれを認めていたらこっちもたまったものではない。私は小猫たちに悪さをするたびに体を拾い上げ、軽く頭を叩いて叱った。すると、叩くと同時に親猫は「まずいことになった、申し訳ない」とでも言いたそうに首を引いて目を瞑った。彼女なりに私に対して謝罪の意思表示をしたのだろう。

そのように育児をしなければならなくなった頃から、私たちの生活は共同ではなく、猫の飼育という要素が加わって来た。人間と同居する上では守ってもらわなければならないルールを教えなくてはならなくなったのだ。そんな日々を過ごしていると、ある時、子猫が面白い反応を示すことを知った。それはたまたま私が電気カミソリで髭を剃っていた時のことだった。小さな子猫2匹はカミソリの電動音に異常な反応を示した。反応と言っても興味津々というものではなく、明さまに敵意を持った反応だ。そこで試しに子猫2匹の前にその電気カミソリを動いている状態のまま床に置いてみたことがある。すると2匹は、前足を真直ぐ引いて、いかにも臨戦態勢に入り、「にゃ~」ではなく、「カーっ」という威嚇の戦闘態勢に入ったのだった。でも、他の小猫と親猫は知らんぷり。
これが経験の差なのだろうか。各自の反応を見ているとそれがよくわかった。

まぁ、そんなこんな色々な出来事があるにせよ、少しの間は4匹の猫との共同説生活は続いた。子猫が少し大きくなると、試しにキャット空中3回転ができるかどうか試してみた。すると子猫はたちは体が柔らかいせいか、見事に空中3回転を達成できた。親猫はその体重の重さから1回転半しかできなかった。やはり若さはいいものだ。
そんなバタバタしているが楽しい生活を私たちは楽しんでいた。

それがある時から事態は暗雲の中に行っていくことになる。それは次回で。(だんだん5話まで行きそうな気がしてきました)



いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_21272409.jpg

その猫に対して、私は特別な感情を持たなかった。正確には、猫が好きな人のような可愛がり方をしなかったということだ。しばらく顔を出さなかったとしてもそれほど気にはならなかったし、たまに「あいつどうしているのだろう」と思うくらいで、とりあえず来た時のために缶詰を用意しておいているものの、まぁ、猫には猫の都合というものがあるのだし、他にもっと可愛がってくれる人がいるのだったらそれはそれでいいのだから成り行きに任せよう、という感情しかなかった。

2週間くらい顔を見なかったこともよくあった。久し振りに顔を出した時は「よう、何やってたんだ?」と話しかけてみるのだが、猫はまるで「そんなのはこっち勝手でしょ」と言いたげに知らんぷりしていた。まぁ、いいか。気が済むまでそこにいたらいいさ。だいたい私たちはそんな関係で、お互いに干渉はしなかった。ところがある時、私の部屋の窓に訪れない期間がかなり長くなった時がある。たまに「そう言えば見ていないな」と思うことがあったが、たぶん「定住」できる家を見つけて、きっとそこは完全に家の中だけで飼われているのだろう。それはそれで良かったのかもしれない。そんな風に思っていた。

しかし、もちろん私にはこの時だけしか体験しなかったこと、恐らく多くの人々も体験しないであろう奇妙なことを私は体験した。

それは、もうその猫のことは頭の片隅の一部にしか存在が無くなって来た頃のことだ。いつものように窓を開けて、私は真昼間から布団の中に入ってボーとしていた。すると窓の敷居に猫が突然現れた。一瞬それは過去の何気ない登場の仕方のように思えたし、でもどこか違うような気がした。そして、しっかりと猫を見ると、何と口に真っ白い子猫をくわえていたのだった。えっ!子供を産んだのか?そうか、そうだったのか。だからしばらく顔を見せなかったんだな。と咄嗟に思ったと同時に、その時その猫がメスだったことを初めて知ったのだった。それくらい私は無頓着だった。

だいたい私は猫の種別にも関心がなかった。だから、その猫の毛の模様についても大雑把にほとんど灰色と白としか認識していなかった。ところが、その灰白の猫から全身真っ白な毛の子供が産まれた。どういうメカニズムなのだ、と不思議に思ったが、考えても答えが出るわけもなく、ともかく「あっ、そーなんだ」という妙な納得を無理矢理自分に言い聞かせていると、猫は子猫をくわえたまま、すっと床に降り私の許にとことこやって来た。
私は一瞬戸惑ったが、まぁとりあえず布団の中に入りなよ、と掛け布団を持ち上げて中に入れてやった、すると親猫は遠慮なく私の胸近くに座り子猫をやっと口から離し、ぺろぺろと子猫の体を舐め始めた。間近で白い子猫を見ると、まだ目が開いていなかった。産後何日目で目が開くのかなんて私は知らないが、ともかく生まれて間もないに違いない。そのくらいは何となくわかった。

しかし、そこで私はあることを思い出した。誰からか聞いた「猫は自分の子供を人間に見られたり、他の動物からの危機に遭遇すると自ら子供を食べてしまうことがある」という言葉だ。それが本当なのかどうかは私は見たことがないのでわからないが、ともかく警戒するのは本能的に当然だろうというくらいの意識はあった。ところが、この新親猫は警戒どころかまだ目も開いていない子猫を、わざわざ私の部屋に連れて来たのだった。
ありえない。猫に関して無知な私でもそのくらいはわかる。ともかくありえない。

だが、その白い子猫をじっと見ていると、無条件で可愛く思えた。まだ立つこともおぼつかず、よろよろと親猫に寄りすがろうとしている姿は可愛い以外のなにものでもなかった。驚きの次には何とも言えない心を暖めてくれるシーンに包まれていた。まぁ、良かったんじゃないか、と何の根拠もない歓びを私は感じた。
ところが少しすると、親猫は、さて行こうかと窓の方向を向き、そして子供を置いて窓から外に出て行った。おいおい、この子猫はどうするんだ。もしかして私に育ててくれということなのか。とんでもない。そんなことはできるわけがない。だいたい私は母乳が出ない。毛を舐めたりする習慣もない。
そもそも、人間が子猫を捨てという話はよく聞くが、親猫が子猫を人間に預けて育児放棄をするという話なんて全く聞いたことがない。

私は、残されたこの子猫をどうしたらいいのか戸惑って、とりあえず子猫が押し潰れないように掛け布団を持ち上げているだけだった。子猫はよろよろと動こうとするが、思うように動けず、ほとんどその場にとどまっているだけだった。困った、困った、と何もできずにしていると、親猫が再び窓から颯爽と、今度は全身真っ黒な猫をくわえて私の許に歩み寄ってきた。そして、先ほどと同じポジションに座り、同じように子猫を口から離し同じように全身をぺろぺろと舐め始めた。だが、ひとつだけ違うことがあった。それは黒猫はお世辞にも可愛いとは思えない風体をしていたことだ。特に可愛い白猫の後に連れて来ただけに、よけいに黒猫のぶっきらぼうな風体が芳しい印象を与えなかった。
あぁ、この親猫、私の好みを知っていて、まず可愛い方から連れて来て、既成事実ができたことを認識したことを確認してから、可愛くない別の子猫を連れて来たのだ。
これは親猫の周到に考えた策略だったのだろう。見事に私はその策略に嵌ってしまった。仕方ない、こいつらの寝床を作ってあげなければいけない。
そこで私は部屋にたまたまあった段ボール箱の一部を改造して、猫一家の家をこしらえた。段ボールの中には新聞紙や布きれなどを敷いて少しでも暖かく過ごせるようにしてやった。一家にとっては窮屈かもしれないが、寝る時はそこで寝てもらわないとこっちも困るから、私が眠たくなったら、強制的に3匹をそこに入れ、そこが君たちの家なのだ、と理解してもらうようにした。

さて、共同生活を始めるにしろ、食べ物がなければ生活は成り立たない。私はその日からスーパーに行ってお徳用の魚の缶詰を常に買うようになったる
ともかく、通常では考えられない猫親子と私の共同生活が、その日から始まってしまったのだった。

2回で完結しようと書き始めたのですが、どうやら4話以上になりそうです。次回に続く。




いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_22561634.jpg


たまにはきちんと何かを話そうと思う。
いや、これから話すことが「きちんとした」ことに分類されるのかどうかはわからない。それは読んだ方が判断することであろう。私が言う「きちんと」というものは、自分の考えをきちんと話そう、という意味だ。

だいぶ前に書いたかもしれないが、本人でさえその確かな記憶がないので、ある部分まではもし重複していたとしてもとにかく書いてみることにした。
それは私が20歳から22歳くらいまでの間のどこかで起きた話だ。時期などの細かい記憶はないけど、出来事は今でも鮮明に覚えている。

私は札幌北区のあるボロアパートの1階に住んでいた。当時はもちろん昭和だったが、その中でもとびっきりの昭和的なアパートだった。玄関・トイレが共同で、電話も玄関先に1台公衆電話があり、電話がかかって来ると音に気付いた住人の誰かが出て対応するという、今では信じられないようなシステムが当たり前の時代だった。
台所、というより「流し」はレバー式、と言っても今のキッチンにある混栓式のようなお湯と水が混じり合うといったレバーではなく、単に水を出すためにレバーを右から左に回すという代物で、冬になるといつも管が凍結していた。ところが幸いなことになぜか凍結しないトイレの水をやかんに汲んで、コンロでそれなりの高温のお湯にして、レバーからゆっくり下にお湯が流れるようにかけて辛抱強く金属管内で凍結した氷を少しずつ解かしていく原始的な手法を使わなければならなかった。
一度のトイレで組んだ水で解凍できたらまだましだが、何度も繰り替えさなければならない時は、水が出るまで1時間以上かってしまったこともある。

ともかくそんな昭和でも古代に属するアパートに流れる空気はゆっくりしていた。金もなく特別やりたいこともなかったその頃は、夏になると窓の半分を全開にして空気を入れ替え、本人は布団の中でだらだと横になっていることが多かった。音楽を聴きながら布団に入ってボーと天井を見ていることもあった。そんな時期、必ず夕方近くに窓の敷居にひょいと現れる猫がいた。あるいは窓の下で「にぁぁ~おん」と啼き、自分の存在を示すこともあった。最初、当然のことだが私にとってはstrangerであった。
どこかから辿り着いた猫なのだろう。きっとどこかに塒があって、ちょっとした散歩の途中に私の所に立ち寄っただけかもしれない。

だから、その猫が来た時は、「よう、ようこそ」「ちょっと一休みしていくかい?」のような声をかけていた。
猫は怯えもせずにじっと窓の敷居に座って室内の様子を眺めていた。私は、ある時まるで自分の家に訪問したお客さんにするように、「せっかくだからソーセージでも食べるか」とおやつを差し出した。すると猫はそれを美味しそうにしっかりと食べた。むしゃむしゃむしゃ。口からこぼれたら落ちた室内の床に下りて拾って食べ、また窓敷居の定位置に戻った。

そのようにしてかす猫は時々私の部屋をたびたび訪れるようになった。さすがに何度も遊びに来るようになったらシーチキンの缶詰くらいは私も用意することにした。貧乏だったが、私の部屋を訪れる数少ない「お客様」だったので、せめてご馳走くらいは、というきもちだった。
そして、猫と私の関係は、たまにはちょっとふざけて猫を抱いたり、キャット空中3回転の実験をしたりする以外は、ただそれぞれ自分の過ごしたい時間を過ごしていた。私が本を読んでいる時は、その猫には一切構わなかった。そんな状況に退屈したのか猫は帰って行くのだが、また懲りずにそのうちに訪れてくる。
シーチキンをあげる時は、窓の下の地面に缶詰を置いて食べさせた。
一応、窓敷居までが君に許される位置であり、それ以上は勝手に踏み込まれても困るし、猫もそれを察しているかのように自分「定位置」を変えることはなかった。

我々の関係は、ただ偶然知り合った人間と猫、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ところがある時から事情が一変した。ありえないことが私の身に起こったのだった。
(次回に続く)




いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_00103634.jpg

NHKのドキュメント72時間のエンディング曲の松崎ナオさんが歌う「川べりの家」がとてもいい。
こんな歳になってしまった者からすると、とても透明な心でみずみずしく歌っているその歌は、年齢を重ねいつしか忘れてしまったどこにでも見えるかもしれない風景の中から自分のこれからの将来に夢を持とうという、現実と夢を退避させながら淡々と歌って行く松崎ナオさんの曲は、どこか誰でもが持っている原点のような気がする。

若い頃、渋谷の道玄坂で朝まで遊んでくたびれてガードレールにもたれかかって街を眺めて、少しさみしくなったように、「なんて奇跡の色を持っているの キラキラ揺らめいてる 水溜まりに映っている 僕の家は青く透け 指でいくらかき混ぜても もどってくる とても儚いものだから」という感性は、歳と共に持たないようにするようになったのかもしれない。

でも、そんな自分からは何も特別なものは伝えられない。
もう一度「一瞬しかない」時を大切にして、感じ、記録してみたい。

a0158797_00272579.jpg

もし私の写真がつまらないものだとしたら、きっとそれがないからだろう。






いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_00065688.jpg

あっ、最近我家では、「BOTANIST」のシャンプー・コンディショナーを使用しています。私は無駄な抵抗と思いつつも、毎日これで洗っており、少なくとも髪が爆発することがくなったのは事実であります。

a0158797_00094859.jpg

ついでにこの度、石鹸も昔使っていた「サボン・ド・マルセイユ」にしようと注文。それも600gの大物で、包丁で切って使わなければ不便なデカいものです。でも、切って使う、これがサボン・ド・マルセイユの醍醐味なんですね。

a0158797_00132230.jpg

a0158797_00143857.jpg

そんなわけで、感づかない人は全く知ることもないだろう。どうでもいい話題でした。




いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_23022637.jpg


本日は休日であり、なおかつ「相棒season15」の最終回スペシャルということで最初から最後までゆっくりと拝見しました。
「相棒」の楽しみのひとつとしては、杉下右京が他に捜査員では推理できない展開で事件を解決していくことにありますが(もちろん魅力はそれだけではないのですが。登場する人物のキャラクター・ロケ設定その他多岐にわたります)、今回もいったい真相はどうなんだろうか、という点において、単純に社美彌子(仲間由紀恵)がロシアのスパイ・ヤロボロクと恋愛関係にあったという展開にはしないだろうな、ということはわかりながら見ていたわけです。

ここで、そもそも今回のストーリーがわからない方のために簡単に説明を。警視庁広報課課長・社美彌子に子供がいたことを週刊誌が子供の写真入りで公表。誰がリークしたのか、とか、この子供(白人系の顔をしている)の親は誰なのか(彼女は独身)、ひょっとしたら以前の内閣情報調査室時代に付き合っていたとされるヤロボロクなのではないか。それではロシアのスパイに情報漏えいがあったのではないか等々、警視庁上層部は色めき立ち、もしそれがスパイに恋愛感情を持っていたとしたら相当国家的にも重要な問題となりうる。それでいったい真相はどうなのか。

まぁ、こういう展開で話が進むのですが、結局週刊誌に情報を流したのは社美彌子本人であり、その理由は、(杉下右京の推理によると)彼女には秘密にしておかなければならないものがたくさんあり、中には自分にとって、その情報の出方によっては不都合が生じるものがある。子供がいるということもその中の一つなのだが、少しでも肩の荷をおろし、また、誰かに探られる前に自分から(第三者の報道帆通じて)露見させた方がいいのではとのことだった。

スパイと恋愛して子供をもうけたとなると、社美彌子のキャリアに大きな傷が付く。当然警視庁幹部からの事情聴取を受けることになったのだが、最終的に彼女は「ヤロボロク」に犯されてできた子供だ、と告白した。すると警視庁幹部は色めき立つ。スパイに恋愛関係になったのなら本人の大きな失態のような責任が生じるが、犯された、つまり被害者であったということになれば、もしそれを公にすると、日本政府はロシアのスパイにハニートラップをかけていたことを世間に知られてしまうからである。だから、社美彌子の件に関してはね今後追及はもとより記憶からも外せという結論にせざるを得なかったことになった。
逆に言うと、社美彌子はこうなることを予想して、本来明かすべきではない彼女の過去を表面化させ自分を少し身軽にさせたのだった。

そこまで推理した杉下右京はさすがと言わざるを得ないのだが、この大きなストーリーの流れの中で見過ごされている疑問がある。「本当に社美彌子はヤロボロクの子供を身ごもったのか」という疑念である。もしそれが本当だったとしたら、一般的には彼女周辺に妊娠に気づいた者もいるだろうし、また、出産のための不自然な休暇を取っているはずだろう。ヤロボロクの子ではないかという疑念が生じた時に、どうして捜査員は社美彌子の部下から「彼女が外観上も妊娠を思わせるような体型になっていなかったを確認しなかったのだろうか。また、出産当時に「理由のわからない休暇を社美彌子がとっていたのかどうか」を調査する必要があったのではないかと思われる。
ところが、それらの調査は一切せず、子供はハニー・トラップを続行している社美彌子が「丘された」できたことだった、ということでひとまずの決着で最終回を終わらせている。

ここから善意に推測すると、元々ヤロボロクには子供がいて、事件の際にその子供を社美彌子に押し付けてアメリカに亡命した。ということになりそうだ。そういう説明をするのも面倒だから社美彌子は自分が産んだという筋が番組を用意したのか。もしそれならいいのだが、そうではなく、「犯されてできたこども」が真実だとしたら、妊娠期間についての説明が全くなかったのが稚拙であった。

さて、私はこの番組の揚げ足取りをしようとしているのでない。
一見、解明できたかのような気持ちにさせておきながら、その後じっと細部を見ると綻びだられという物語はたくさんある。

ものをつくる行為は、どれだけ緻密な合理世を持ってその作品に投影させるかが大切となる。
それをストーリーはばかりを優先して、その他のことにほころびが発見されると、

作品作りも同じだ。一見あでやかに見える絵でも色のバランスや構成に対し疑問を抱いてしまったら、失敗作らだったと言わざるえないであろう」

そんなわけで作品を作るということは非常に難しい。これは他人ごとではないのである。





いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_23550451.jpg

この写真の方が昨日亡くなった。死因はガンだった。

その知らせを聞いて、過去に彼を撮った写真を探してみた。だがごく僅かしかなかった。元々被写体として撮影意欲が湧き出てくる風貌ではなかったし、撮ったものは彼の事務所のPCにすぐ保存することが多かったため、私の写真ライブラリーの中に残っているのはほんの僅かであった。

彼は決まって、自分が困った時に私に電話をよこした。舘野泉氏の演奏会を夫婦で観に行くために、運転に不安のある彼は私に鑑賞料をおごるからということでドライバーの役目を果たさなければならないことがあった。いつも彼の不安定な運転に神経質になっていた奥様は安心して帰り道はうとうとと眠り始めた。別に自分は特別に慎重に運転したわけではないのだが、よほど彼の運転が不安だったのだろう。

住宅の建て替えをするときも、工事費が適切かどうか確認したみたくて、私に建築図面を見せてくれたとがある。内容を確認すると、妥当なものであり、色々と注文がエスカレートするからこの金額になるんですよ、と専門的立場から意見を述べ、納得してくれた。

そして、彼と二人きりで最後に飲んだのは昨年の秋の頃だった。その時も突然電話がかかって来て、ちょっと江差から人が来るのだが、それまでの時間潰しに来てくれないか(もちろそのような言い方ではなかったが、結局はそういう意味だった)
やれやれ、今日は私はの誕生日でもあるのに、こんなムサイおっさんと呑まなければならないのかと、ちょっと躊躇したが他の人に電話をしても都合の悪い人たちばっかりだったので、わたしを誘ったわけだったのだが、もう少し言い方を考えて話したらこっちの気分も違っていたかもしれないのだが、彼にはそんな気の利いたことは話せない。いや、私にだったから正直に話したのかもしれない。そう思うことにした。
それにしてもその日は私の誕生日であった。何で自分の誕生日にこのおっさんの付き合いをしなければならないのか、ちょっとした不条理を感じながらも、「まぁ、いいか」と少し間付き合うことにした。だが既にその時、彼の咳の出方は異常なほどの回数になっていた。さすがの私も心配になったが彼は咳を除いてはいつもの彼だった。

それから約1か月後、彼は入院した。

a0158797_00483263.jpg

病名はがんだった。私は元来のひねくれ者と行動として、皆が寄ってたかって見舞いに来る時期がおさまるのを見計らってから病院に行った。見舞品は青森県立美術館で買ったシャガールの2017年カレンダーだった。それは月ごとにめくるとシャガールの絵を1か月楽しめるようになっていた。彼は「新しい古地図カレンダー」を作ったからと言ったが、私は内心「いいからシャガールを楽しんでくれ」と思い、彼に、「このカレンダーの全ての絵を、来年見てくださいよ」と言って無理矢理渡した。
その後病室から1階のカフェへ場所を移ししばらく話すことになったのだが、私の分のコーヒー代を彼が出そうとしたので、「病人におごってもらうくらい今は金に困っているわけではないから」と言って断った。私と彼は苦笑いをして顔を見合わせた。
何やかんやと話している中で、「私は星野さんが死んでしまうなんて考えられないんだけれど」と話したところ、彼も「自分でもそう思う」と返してきた。でもやっぱり死んだ。死というものはそういうものなのだろうか。あまりにも私たちは日常というものの不変性を信じすぎているのだろうか。

彼のおかげで私はブログを書こうと思ったし、彼の業務的命令でfacebookにも登録し、彼から依頼された色々な取材で、普通に生きていれば知らないことまで知ることができた。何よりも函館で起こったムーヴメントの裏にはかなりの割合で彼が存在していた。そのようなところから勉強させてもらったことは数多くある。私が今でもこのように世間に向けて何かを発信しているのは彼のお陰であると思う。

ある飲み会の時、皆がいる前で私は「もうそろそろ隠居した方がいいのでは」と彼に話したことがある。その発言の理由は、「あまりにも彼の存在が大き過ぎて、次世代で育つ人がいないのではないかと思った」からだ。彼は「いや、まだまだ」と反論した。
本当は、早めに引退して彼にしか書けない本を書いてほしかったのだ。

ある時、彼は私にこう言った。「函館の歴史を勉強している者の年齢層が高くなっきた、次にやれるのはあなたかその他一部の人間しかいない」という趣旨のものだった。私もそう思った。でも私はあなたとは違う形で歴史を伝えたい。恐らくあなたも、あなたを取り巻く人々も全面否定するかもしれない私流の歴史の伝え方をして、あなたの意思を継いでいきたい。決してあなたの真似はしない。いや、真似などできない。

あなたは、時には反面教師として、時には適切なアドバイスを話す人間として、私の中に存在した。
昨年珍しく私の写真展に来てくれた。まさか来るわけがないだろうと思っていたからびっくりした。そして、あなたのFacebookでの最後の投稿はなせかTom Waitsの曲であった。Tom Waiitsを聴くようなタイプの人間ではなかったのだが、私が深夜に聴きたくなるというTom Waitsを度々facebookに投稿したのを覚えていたのだったのだろうか、それとも実は元々のファンだったのだろうか。

ともかく、少しくらいは彼は私のことを好いてくれていたのかもしれない。だから困った時に私に電話をかけたのかもしれない。

「下駄を鳴らして奴が来る、腰に手ぬぐいぶら下げて」
彼の登場の仕方は私にとってはまさにそれだった。


いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_23435078.jpg


2月14日より20日間にもわたって国際ホテルで開催された写真展が終了し、展示品等の撤収作業が終わりました。
ずっとギャラリーにいれたわけではありませんので、どのくらいの方が来られてご覧になったのかはわかりませんし、写真展そのものが成功だったのか失敗だったのかもわかりません。自分の中ではいつもやる度に失敗だったと思っています。もう少し違うものを作れたのではないか、せめてここをこうした方が良かったのではという反省ばかりが目に見えて「良くできた」などと思える日が一生訪れない気になってしまいます。

ギャラリーには、私へのメッセージを所定の紙面に書いていただき、封筒に入れ、箱の中に投函していただくという形で皆様のお声を聞くようにしていました。
その中で、けっこう多かったのがモノクロの写真が良かったというものでした。モノクロは2点展示しましたが、最初の構想ではなく直前に思い付きプリントしたものでした。しかしメインはあくまでカラー写真の方です。それを評価されなかったのは、きっと私の力不足だったのではないかと思いますが、ではこの次は評判の良かったモノクロで、ということは私はしないでしょう。

なぜなら、モノクロ写真はかなりの数撮っており(またはモノクロに編集したりして)、慣れたものだからです。そして、それは前回の写真でオールモノクロということでやった「過去」のものだからです。それと同じことをするくらいなら、個展をやらない方がいいと思っているくらいです。やるなら前回とは全く違うものを。そういうコンセプトや目標が生まれて来ないのなら、個展をやる必要はないとさえ思っています。
だから自分には慣れていてそれなりに評価されているモノクロをメインにはしませんでした。今の自分にはちょっとハードルが高い表現をあえて選びました。

a0158797_00083617.jpg

メインの背景は、今回の写真展が決まった時から函館の風景を軸にして作ろうという漠然としたものは決めていました。しかし、それをどういう構成でどのような表現にするかは、本当に直前までほとんど空白のままでした。でも、幸なことに、最も写真に登場したモデルさんを撮影することができてから、タイトルも写真のイメージも固まってきました。ですが、それも去年の冬が始まってからのこと。本当に制作という点では時間との勝負になってしまいました。

元となる背景は函館の夜景が主でした。されを単にきれいに撮るというコンセプトであれば、私は写真展はやりません。そのような写真はインターネットに余ってこぼれるくらいたくさん存在するし、私よりもはるかに上手な写真が山ほどあります。皆さんは気軽に自宅や出先でそのような写真をネットでご覧になれます。わざわざ足を運んでいただき、見ていただくのであれば、誰もが作らない写真でなければならない。偉そうですが、それが私の考えでした。

ですから、函館の夜景(あえてきれいなものを潰したものもあります)にモデルさんの姿を散りばめて表現しましたし、それに自分なりに意味を持たせました。そのためにご覧になっていただく順番も決めたのです。それをどこまで理解いただけたか、逆に理解いただけるものになったのかどうかはわかりません。
わからないまま、次はもっとハードルの高いものを作ろうと考えています。それが私が個展をこれからもやりたいと思っている大きな動機であります。

国際ホテルの方々には本当にお世話になりました。在廊中、平日であるため来客も少なく、空き時間はずっと本を読んでいました。そんな私に優しくお声をかけていただいた国際ホテルのスタッフの方々には本当に感謝しています。このご恩は、もし次に開催させていただけるのなら、作品という形でお返ししたいと思っています。
ただ、ちょっとだけ残念なことがありました。それは国際ホテルさんには全く関係のないことですが、先ほどお話ししたご覧になった方からのメッセージ(封筒に入っているはず)が誰かに持ち去られていたのでした。どうしてそれがわかったかと申しますと、用意してあるメッセージ用紙にご記入いただき、隣に置いてある封筒に入れていただき投函する方法を採用したわけですが、その手順がわかりづらいかもしれないと思って、実例のために、時々メッセージを回収する際にも、必ず1部ないし2部箱の中に残しておいたのでした。それを見ると、あぁ、こんな風にやればいいんだということを摑んでいただけるのではないかと思ったからです。
このメッセージの残し方は、封入することによって個人のプライバシーも保たれ、より率直な意見が書けるのではないかという考えからだったのですが、最終日「例」として残しておいたメッセージ入りの封筒が無くなっていたのです。

そうです誰かが持ち去った、それ以外は考えられません。
哀しくなりました。それが宿泊客なのかそれ以外の方なのか、もちろんわかりません。どの国の人なのか、函館の方なのか、わかりません。
そのような方式を採用した私が悪かったのは確かかもしれませんが、それでも私に対してのメッセージが誰かに奪われてしまったのはショックでした。私が見ることのできなかったメッセージを書いた方には本当に申し訳なく思います。ごめんなさい。

再度申し上げますがネこれは国際ホテルさんの問題ではありません。どの場所で行ったとしても、このような「人が見ていないのなら好き勝手なことしてしまえ」という人はいます。そういう方への対処を取らなかった私が至らなかっただけであります。本当に申し訳ありませんでした、と思うと同時にそのような人がいることに哀しみを覚えます。

次は順調に用意ができれば9月に開催しようと思っています。場所は「あそこ」です。
ずっと何年も暖めていた構想を実物のものとして展示しようと考えています。

きれいな写真を作るの比較的簡単です。自分が見えたものを美化すればいいのですから。モノクロもある意味簡単です。でもそれらだけでは表現できないもの、今回も次回もそれに挑戦している私だったのです。

今回ご来場いただいた方々、本当にありがとうございました。とてもいい経験となりました。国際ホテルさん、本当にありがとうございました。


いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_22030387.jpg


ラブソングを書きたいと思ている。

この歳になったからこそ書けるような。

それも灼熱の温度を伴った激しいものではなく、
たとえば、朝もやのたちこめる湖の水面に静かに滲みこんでいくような、
穏やかな、穏やかな

あっ、ラブソングといっても曲は無理です(笑)

詩だけです・・・・。




いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_21342681.jpg


2月の中旬から何十時間も見ることとなった風景の一部。国際ホテルのギャラリー付近の光景だ。
私は椅子に座り、ずっと本を読んでいた。
でも、もちろんことだが、最初から帰る時まで書物に目をやっていたわけではない。時々周りを見渡したり、立ち上がって少し歩いてみたりした。

a0158797_21422485.jpg

a0158797_21430289.jpg


そして、ふと思った。

「今の自分には何が見えているのだろうか?」

a0158797_21450449.jpg


そして、その見えたものから何を生み出すことができるのだろうか?

a0158797_21462656.jpg


よりストイックにならなければ見たいと思っている世界も見れないのではないか?

a0158797_21485539.jpg


今の自分に必要なのは、きっとそれなのだろう。
さぁ、谷に下りよう。



いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村