カテゴリ:函館の歴史( 53 )

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函館に足りないもの。それは函館にまつわる物語だ。
全国色々な街で、その街を舞台として繰り広げられた物語が存在している。もちろん函館にもさまざまな知られざる物語があるが、残念ながら全国的な知名度がある物は少ない。私は、ライフワークとして、その物語を書きたいと思っている。ある程度の構想はあるが史実をある程度取り入れなければならないため、まだ素材としては不十分なものが多数ある。そもそも主人公すら決めていない。

年表の物語版のような書籍は地元にも意外とあるが、日本の中での重要な歴史の分岐点と人の思いを交えた「創作物」は残念ながらない。
その「物語」を死ぬまでの間に完成させなければと思っている。もし傑作ができたなら、大河ドラマの候補にでもなればいいと自分でも思っているくらいの「函館のドラマ」を書いてみたい。

今、函館に最も不足しているのは、市内各所にある案内板(決して不用と言っているわけではない)ではなく、それらがつながって壮大なドラマとなる小説であると思っている。どのような内容を頭にストックしているかは今のところ言えないが、時代に翻弄された一族の悲哀を中心に描いて函館が過去に繁栄した様を物語にしたい。

そんな告白をワインを飲みながら話してみました。

物語のキーワードとなるのは津軽海峡でしょう。



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森町鷲ノ木の海岸にこの碑はある。本当に目立たなく訪れる意思を持って探さなければ見つからないような場所だ。
しかし、函館地方における歴史的な大事件はここから始まったのだ。ここに旧幕府軍が上陸しなければ今の函館はなかっただろう。

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旧幕府軍はこの地から箱館に向かい、官軍や松前藩と闘い箱館・松前を手中にした。戦いが劣勢となった松前藩士たちは奥尻や青森に逃避せざるを得なかった。
しかし、青森で大編隊を組んだ官軍と松前藩士は合流し、津軽海峡を渡って旧幕府軍と最後の戦いを挑むことになる。

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ところが、官軍が北海道上陸を果たしたのは、太平洋側である鷲ノ木と反対側の、日本海にある乙部町であった。これには意味があると推測している。
それをきちんと説明しようとしたら、もはやブログではなく小説の分野でしか書くことができませんので、詳しくはお話ししませんが、この上陸から始まった箱館戦争は、江戸時代が終焉する最後の戦いであったのと同時に、相馬哲平氏などの豪商を誕生させることになった。

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そしてこの戦いは、私の遠い祖先である松前藩家老蠣崎家の離散という結末を迎えるものになったのである。



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函館は運に恵まれている街だった。「だった」と過去形にしたのは、その運を活かそうという意識を函館市民から感じないからだ。

かなり大雑把に函館の歴史を確認しよう。
まず、最初の大きな幸運は、開港だった。この開港により、貿易都市函館が誕生した。それも海外との取引であった。そのため函館駐在の外国商人のために洋風住宅が建築され、街の形態を大きく変えた。
幸いなことに、北海道および北洋で漁獲される魚介類は当時函館に集積されていた。そのため商人が函館に多数存在するようになった。それに加え、北洋漁業の拠点ともなり、寄港している船舶数の増加に伴って造船業も盛んになった。
そう、その時は函館に金が集まっていたのだ。特に明治後期になると、繁盛した商人たちは、そのお金の物を言わせて次々と高品質の建物を建築した。それも洋風のテイストをふんだんに取り入れたものだから、当時の写真を見ると、まるでテーマパークのような、ありえないだろうと思われるほどの欧米化した建物が連らなっていた。まさしく横浜に次ぐ「近代化した街」と言えるほどの新しいものを取り入れることができる環境にあった。このあたりが現在の函館西部地区の原型となっているのではないかと筆者は想像しているが、ともかく、函館は全国でも特別な「希望の街」のひとつとなった。

それはしばらく続いた。おまけに青函連絡船により、函館が北海道の玄関口という役目を担っていたのだから、函館という街の存在の重要度は非常に高かったと思われる。また、函館の資産家は相当な財力を有していたと想像できるのだ。だから何度も大火に遭い大きな面積を消失したとしても、復興するために要した時間は少なかったのではないかと思う。

そしてその復興された建築物も未だに函館の街を彩るアクセントとなる古建築物として現存するほど堅固に建築され、デザインも優れたものが多かった。それは函館の財力を象徴するものであったのだろうとそうぞうできる。

しかし、戦後、次第にソ連との漁業交渉で年々漁獲高が減少を余儀なくされ、漁業関係としての函館の立ち位置は弱くなっていくことになった。それと連動するように造船業の経営も悪化する一方となり、港湾関係の職業の衰退は急激で大規模になった。
それでも、「北海道の玄関口」というアクセスの利点もあったのだが、北海道への移動が飛行機が主流となると、その地位も自然消滅することになる。

そして、ついにその時はやって来た。ドックの再建のための大量リストラ・関連会社・取引会社の倒産などで、海関係は壊滅状態と呼んでもおかしくないほどに疲弊した。
しかし、函館は幸運だった。全国にも誇れるほどの大都市だった函館の街並と夜景は、それを一目見ようとする観光客が相当数来函していたのだ。
そこで函館は海の街から観光の街という方向転換を急減に行った。観光地を整備し、今まで野放状態(と言ったら大袈裟だが)元町公園周辺を整備した。
観光は、函館の港関係で賑わい金をふんだんに使って建てた家が並んだ道路を歩くことで、訪問者に異国情緒菟ある街という印象を与えることができた。そして、もう一つの幸運は、その古建築物に維持保存に対して、著名な方で言うと、SECの故沼﨑氏や魚長食品の故柳沢氏などが積極的に古建築物を買い取り再活用してくれたことだ。これらがなければ、今の函館はそうとうみすぼらしい街になっていたかもしれない。また、個人でも自分の古くからの建物を護ろうと私財をなげうっている方々もいる。

そのような幸運が重なって、函館は造船・漁業の不況による打撃からかろうじて救われた。

そう、函館は幸運だったのだ。
しかし、今危惧されるのは、自分は運良く函館という街で生活をできているという意識を持っている人たちがかなり少ないということだ。
函館には年間約500万人弱の観光客が訪れている。この方々が落としていく金は相当なものになる。一人2万円としたら1000億円にもなるのだ。それが、街全体に流れ、私たちはとりあえず生活をしていくことができる。それを意識できている人は函館市民の中で何割いるだろうか?
それどころか、観光収入源の中心地となる西部地区をぞんざいに扱っていたり、無視したりしている人の多さは毎日仕事や生活をしているかなりの割合でいることが何となくわかる。

つまり、函館に最後に残された幸運を食いつぶして滅んでいくことを望んでいるかのように、目先の快楽を追及していということだ。西部地区を親だと仮定したら、親がせっせせっせと稼いだ金を子供たちに分配したら、親を殺すためにその金を使っているようなものだ。

さて、函館市民は最後の幸運を尽きるまでそれが気が付かないのだろうか?



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8月31日午後11時40分、別れを告げる時がついにやって来た。

その前に千鶴子さんからお客さんへの最後のご挨拶があった。

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その後店内に「また逢う日まで」が流れ、店にいた者たちが大合唱した。
そうだ、これで終わるわけではない。まだ続きはあるのだ。だが、これを機に退職することになった成田さんは感極まって目頭を押さえた。

そして、北大水産学部の寮歌なのか何かは忘れたが、アルバイトの方々が合唱した。そうだ、ここのアリバイとは水産学部の学生が歴代務めていた。切っても切れない関係だ。

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すると隣にいた高校の同期生が函館中部高校の校歌を歌い始めた。私の母校でもあり、元子さんの母校でもある。

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今まで何度もシャッターが閉まるまで飲んで元子さんと一緒に帰ったことがあったが、この時はシャッターを閉める場面を見たくなかった。それは私たちにとって永遠に閉じられるシャッターだからだ。

さぁ、杉の子を目に焼き付けよう。

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そしてまた逢う日まで、金粉入りのシャンパンで最後の乾杯だ。

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杉の子物語と言っても、私は語れるほど杉の子に通い詰めたわけではない。
通い始めたのはここ4~5年のことだ。店の長い歴史から見ると、ほんのわずかな期間だ。
だから、世間一般の方々が読んでためになるようなことは書けない。あくまで自分が知り、感じ、思った自分との自分たけの物語を少し話そうと思う。

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杉の子に生まれて初めて行ったのは、中学2年の時(1972年)だったと思う。当時は昼間の営業もしていたようだ。写真上の故泰郎マスターの息子と同級生だった私は、彼と大門で遊んだ(確か映画を観に行ったと記憶している)後に、彼に連れて行かれてこの店に入った。
その時は彼のお母さん(千鶴子大ママ)がカウンターの中におり、青いソーダ水をご馳走してくれた。ちょっと薄暗く、正直言って、子供の来る所ではない(笑)と感じたし、また、この店の素晴らしさを知る由もなかった。ただ、同級生の親が経営している店。そんな存在でしかなかった。

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その千鶴子さんの言葉で今でもはっきり覚えていることがある。
それは、彼の家に遊びに行った時のことだった。今で同級生と映画の話を色々しているうちに、(年齢的にそろそろ関心を持ち始めた)ポルノ映画を観に行こうかという話になった。もちろん大真面目ではなかったが、その会話を聞いた千鶴子さんがこう話した。

「ポルノ?そんなのつまらないから他の映画を観たら?」

衝撃的に素敵な言葉だった。普通の母親であれば、「まだ子供なんだから、そんなの見るんじゃない」と叱るのが定番だったからだ。千鶴子さんに叱りたい気持ちを抑えている雰囲気はなかった。
学校の他の同級生の間では、彼の両親の子供になりたかったという者がけっこういた。私もその気持ちがよくわかった。

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その同級生が生まれた年に杉の子は誕生した。
広く知られていることだが、その年泰郎さんはキャバレー経営に失敗し、1200万円(北海道新聞では1000万円となっていたが、元子さんは1200万円と言っていた)もの借金を抱えていた。今のお金に換算すると何億になるのだろうか。そして、新たな子供が生まれた。

そんな四面楚歌のような状況の中、杉の子をオープンさせた。もちろん貧乏であったはずだ。だから店のマッチのデザインも印刷屋さんに頼むのではなく、千鶴子さんが書物を切り取ってマッチ箱に貼りつけ、その上に手書きで店の名前を書いた。それが冒頭のマッチだ。オープン当初のものということだ。

今では、博物館に飾ってもいいほどの貴重なものだが、当時はそうするしかなかったのだろう。

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泰郎さんと千鶴子さんは、家に行くといつもにこやかに出迎えてくれた。そして彼の部屋で遊んでいると、東京の大学から帰省したお姉さんと時々会った。それが元子さんであった。内心、凄くきれいなお姉さんだなと子供心に思っていた。

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高校を卒業して、私はしばらく函館を離れ杉の子で飲むことはなかった。
しかし、40代後半だったろうか、行こうというきになって一人でいってみたら、千鶴子さんは大喜びをしてくれた。私のことももちろん覚えてくれていた。
それから、千鶴子さんが引退して元子さんが経営者としてカウンターに立ってしばらくしてから私は通うようになった。そこでとても中学生ではわからない杉の子の良さを知った。

それは、父泰郎さんが娘元子さんに教えた言葉がきちんと伝わっていたからだろう。

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昨夜、最後の挨拶をするために駆け付けた千鶴子さんと話した。
「昔は友達の親の店というイメージで見ていたけれど、今では普通に素晴らしいみせだと思っています」
すると千鶴子さんは、「きていただいたお客さんがみんないい方たちばからりだからこうなったんですよ」
私は速に返した。
「いえいえお父さんお母さんがいい方だから人が集まったんですよ。

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函館の夜は、秋とも思えるような風が吹いていた。
季節が変わったのだ。
8月31日で閉店する杉の子に行くまでは、時間を要した。
最後の日に行くべきか行かざるべきか。

でも、行ってしまった。

これは最後の夜のドキュメントである。撮った写真は出し惜しみはしない、皆さんにとっての「杉の子」を深く記憶にとどめていてほしい。

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地元の人でも、最近大野平野って言わなくなりましたが、ここ北海道で初めての稲作が始まったとされています。江戸時代の初期だそうです。

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そんな農地の真ん中を新幹線が走る風景を想像すると、まるで上越新幹線か、北越急行を思い出します。はっきり言って両方とも田舎風景ですが(笑)

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次回に続くとしながら、しばらく続けていなかった(3)をやっと投稿する。これには理由があった。現在函館市地域交流まちづくりセンターで開催中(6/17~6/26)の「素彩堂 紺野写真館展」を見てから書こうと決めていたからだ。昨日、それを見、正解だったと思った。

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紺野写真館は、明治14年に福島県から移住していた紺野治重氏が開設し、以後3代に亘って続いた函館写真界草創期からの老舗写真館だった。

2代目松次郎氏は大町にある小林寫眞館の創設者である小林健蔵氏とも交流があったようで、恐らく当時の函館の写真師たちは互いに切磋琢磨しながら、写真の街函館を築き上げていたのだろうと思った。そして、特に感銘を受けたのは、歴代の当主が記録としての写真撮影に力を注いでいたことだ。

写真には色々な意味がある。思い出として撮ることもあるだろう。自己の表現として撮ることもあるだろう。カメラというメカに憑りつかれて撮ることもあるだろう。
どのような動機があって写真を撮っても、姿形を全面的に加工して全くわからなくしない限り、写真は記録となる。ポートレートを撮っても、イベント風景を撮っても、海や山を撮っても全てその時代の記録となるのだ。

だから、本人が意識するしないに拘らず、写真を撮るということは、記録を残していることになる。それは写真の宿命であり役目でもあるのだ。特に文字や絵以外に記録するものがなかった明治時代においては、忠実に見えたものを記録できる写真という魔法を使い記録することは、写真師だけに与えられた大きな責任だったかもしれない。

私も写真を撮る理由の一部に記録するというものを感じている。だから「函館古建築物地図」を開始した。このシリーズは単なる記録である。それ以外の何物でもない。だが、もし誰かがそれを行っていたら私はやらなかっただろう。たまたま誰もやっていなかったから始めた。函館の建物が好きで、街が好きで写真を始めた者にとっての責務だと思ったからだ。記録として残すべきものは、夜景や教会や煉瓦倉庫などだけではないはずだ。また、函館の魅力はそれらだけではないはずだ。

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さて、函館ではこの他、5/25~6/5まで同じ函館市地域交流まちづくりセンターで「箱館写真の時代  幕末と明治初期に撮られた箱館写真」という企画も開催されていた。

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タイトルの通り、幕末から明治初期の函館はもちろんのこと、日本にとっても貴重な写真が展示されていた。

そして、5/31~6/9までは函館駅2Fで「港まちの記憶―古地図・古写真などに見る函館港の歴史」が開催されていた。
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古地図ばかり写真におさめたが、他に連絡船の写真や田本研造の写真などもあった。田本研造の公表されている写真はだいたい見ている。もちろんそれらは貴重品であるため手にとって見ることはできない。しかし、私にもそのチャンスが訪れたことがある。それが冒頭の写真だ。
訳あって全体をお見せできないが、これを持った時は手が震えた。本物の田本だ。そして、この写真もまた、当時の函館の政治的状況を示す証拠が写っていた。

田本研造も結果的にとても貴重な記録を多く残していたことになる。

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これは同じ田本写真の所有者のものだが、この写真館の刻印は大正時代のものとみられる。

そして、道立函館美術館では現在「夜明けまえ-知られざる日本写真開拓史《北海道・東北編》」が開催されている。(5/18~7/14) また、市立函館博物館では6/14~9/1まで「新島襄と幕末の箱館」が開催されている。

偶然とはいえ、今年の夏は古き函館に関するイベントが目白押しとなっている。

函館は現代日本に至る起点となった歴史的背景をかなり多く含有する街である。夜景と海産物だけの街ではないのだ。この魅力を、まず地元に住んでいる市民が理解し、行動に移すべきだと思う。何を行動したらいいか、本当に魅力を理解したのならおのずと答えは出てくるはずである。
そして、それは函館の未来に続くものであるはずだ。




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函館市写真歴史館の2階に行くと、幕末から明治時代にかけての貴重な「写真機」が展示されている。開港に伴ってもたらされた異国文化との接触。その中のひとつに写真があった。

容易に想像できることだが、明治時代には写真はとても贅沢なものだった。高い金を払い、衣裳をめかしこみ、じっと我慢して同じポーズをとらなければならなくても、人が紙の中に姿を刻み込まれる写真という魔法を体験してみたかったのだろう。

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それほど函館の街は潤っていたし、また、新しいものを取り入れることを厭わなかった。だからたくさんの写真師を生んだ。その先駆者は木津幸吉であったし、田本研造でもあった。特に田本の撮影技術は、今見ても、当時の機材を考えると、どうしてこんな精巧な画像を撮ることができたのだ、と不思議でしかたない。

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2階には、日本最古の写真もある。現在は国の重要文化財に指定されているため、現物は展示されていないが、石塚官蔵とその従者の写真がそれだ。

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それらのものを目の当たりにし、私は厳かな気持ちになった。普段は簡単にシャッターを押してしまうのだが、この写真歴史館では、1枚1枚を大事に撮ろうとしたフィルム写真のように、慎重にしっかり構え、時間をかけてシャッターを押した。
まるで尊敬する師匠に失礼がないように、控えめに「撮らせていただく」入門生にでもなったような気分だった。

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2階には、当時の写真機の操作を体験できるコーナーがある。試しにやってみた。被写体となっているのは、目の前の元町公園の風景だ。

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ご覧の通り、撮影者には上下逆さまにモニタリングされている。そして、レンズを動かすためにはいくつものねじを強い力で回さなければならない。今のカメラであれば、あっという間に変えることが角度でも、相当の詐欺用を経なければ為すことはできない。

改めて、写真を1枚撮るという、その重さを知った。その重さをかみしめて1枚ずつ、撮影を重ねることによって、きっと違った写真の奥深さを知ることができるのでは、そんなことを考えてしまった。

(次回に続く)






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元町公園に、函館市写真歴史館という、旧北海道函館支庁庁舎を利用した施設に行ってきた。実は、この館内に入るのは初めてだった。写真が好きで、歴史が好きな自分が入らないのは自分でもおかしいと思っていたが、元町公園に行くと、気分がずっと撮影モードになってしまい、見学という気持ちになれなかったのが実情だった。

だが、今日は撮影は一切せずに、真直ぐ写真歴史館に入館した。

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1階は、主に近代のカメラを陳列していた。昭和時代のものが多かったが、どこか懐かしく、何枚も撮影してしまった。


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私の父はカメラが好きだった。凝っていたというより、趣味として時々撮る程度だったが、改めて昔のカメラを見ると、当時はきっといい金額がしたのだろうなと思う。
貧乏なくせにこんな趣味を持つという悪癖(?)は見事に子供である私に受け継がれた。血は争えないというやつだろうか。

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父はCANONが好きだった。その影響なのかどうかわからないが、私も今CANONがしっくりくる。

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だが、これらは函館でなくとも、どこでも収集展示できるものだ。函館の写真の歴史を語るものは、この施設の二階にあった。

(次回に続く)





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