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どちらも戦後の北洋漁業の隆盛を彩った企業です。(もちろん小熊倉庫は明治時代からありますが)
写真右の窓の鉄柵の中に「〇は」というマークが着けられており、その名残を示しております。ちなみに「〇は」の屋号は、創業者の出身地(明石郡林村)から会社の屋号を林屋とし、その一文字目の「は」を略号としたことから付いたマークだそうです。
昭和30~40年代には函館港によく「〇は」のマークの母船が停泊していましたね。
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公会堂附近の一風景。そう言えば、最近の新築住宅には出窓がありませんね。出窓も大正から昭和初期の函館の建築文化のひとつの特徴なのですが。

今日(正確には昨日)社内の旧亀田市生まれ・育ちの人間と話した。
話の内容を要約すると、西部地区は観光やデートをするための地域で、生活は商業施設が整った美原周辺が好ましいとのことだった。そんな便利でもない西部地区の地価が高いのは納得できないとのことだった。
美原地区の買物が便利なのは全く否定できない事実である。西部地区が不便なのも事実だ。しかし、まるで西部地区が札幌では定山渓のような街から外れた保養地のような存在であるのはいただけなかった。まして、江戸時代から市街地が形成されつつあったことや、明治時代、堤清六をはじめとする当時の経済界の重鎮が谷地頭に住んでいたことや、堤氏らが創業した日露漁業のことなども知らなかったことには驚いた。

しかし、彼の知識不足を責めるつもりはない。何故なら、彼は30代で、まして身近に函館の歴史を窺わせるものが全く無いのだから。問題は、函館の歴史を小・中学校で殆ど教えていないことだ。だから西部地区の風化にも観光と函館経済と自分の生活との関係にも無頓着になってしまっているのだ。彼からすると、西部地区で起きつつあることは別世界のことなのだ。

しかし、強引に歴史的に貴重な小学校を解体する教育委員会が、函館の歴史の特異性を子供に伝えるための教育指導を各学校にするわけもないだろうし、また、できる立場でもないだろうから、益々西部地区に住んでいる者にとっては気が滅入ってくるのである。
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だいぶ前の報道ですが、売出されていた旧相馬邸を札幌の不動産会社が購入し、整備が完了したら一般公開はもとより、音楽演奏にも利用させ、その歴史的価値性を損なわない使われ方をされるようです。
是非その通り実行していただきたいと切望するとともに、より西部地区の文化性を高めていただきたいと思います。
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1/28の弥生小学校。言葉が出ません。

写真のちょうど屋根の部分。私の在学時はこの傾斜があるトタン屋根はなく、陸屋根、つまり屋上があった。屋上は児童に開放されており、当然遊び盛りの小学生にとっては格好の自由空間だった。
休み時間になると誰ともなくここに集まり、たむろった。
集まった生徒の中に、家がすぐ近くの男子がいた。何かで皆が笑った時、彼もつられて笑った瞬間鼻から緑色の鼻汁が大量に出たことがある。それを見た周りの子供たちは大笑いした。私もつい笑ってしまった。
本人は顔を赤くして恥ずかしがった。当時はまだ衛生状態も良くなく、また、簡単に病院にも行けない家庭もあったり、それくらい珍しいことではないと親から無視されたりということで、今ではあまり考えられないかもしれないが、このような子供が確かにいた。
世の中の人間を有害な人間と無害な人間の2種類に分けたとしたら、彼は明らかに無害な人間だった。私と誕生日も近かった。何よりも同じ長屋群の住人だった。その関係かどうかわからないが、関係は悪くなかった。お互いの家に遊びに行くこともちょくちょくあった。
高校からは別の道を歩み、なかなか会うこともなくなったが、30歳過ぎにお互い業務上関連する仕事に就いたため、時々ばったり出会う機会ができた。彼は既に結婚し子供もでき、家も建てていた。私はどうしようもないチョンガーで、相変わらず気ままな生き方をしていた。似たような場所で育ったのにこうも違うものかと、彼を見直し自分の情けなさを痛感した。
ところが、それから何年もしないうちに彼が病気で亡くなったとの話を聞いた。ショックだった。彼には、自らの努力で築いた生活と守るべき家族があったのに、何で真面目に生きてきた人間が・・・。

同じ長屋の隣に1歳下の男の子がいた。彼もまた真面目に勉強し、今では外務省職員として海外で働いているそうだ。これまた、同じような場所で育ったのに私とは正反対の生き方をしている。

弥生小学校の校区には、狭い空間から巣立った人々と、それと同数のドラマがある下町があった。
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旧々函館無尽(旧北洋相互銀行)、SEC(関根要太郎作)、旧安田銀行(現ホテルニューハコダテ)が並んで見えるこの角度が最もお気に入りの八幡坂風景です。
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日和坂。この界隈には古い家が多く、色々な角度から撮影することが楽める坂です。

私は学者でも何でもないので、詳細な調査や高尚な理論に基づいてこの題材について話すわけではない。約半世紀の経験を繋ぎ合わせて一つの形になったことを言葉で表現するだけである。

この命題を考えるきっかけになったのは、北海道生まれの人間で、北海道のあちこちを訪れたことがあるということが原因となっているのかもしれない。何故なら、長い年月と領主の変遷によって街が様変わりした歴史を持つ本州の街では、ややこし過ぎて気付きもしないことが、この歴史が浅くてややこしくない北海道に住んでいると、明瞭な形で見えてくるからである。

以前書いたことがあるが、私は苫小牧に住んでいた。この街はご存知のように工業や物流の拠点として拡大してきた街だ。特にトヨタや関連する事業所の労働者の収入は、他事業所の同年齢のそれに比べ高い。飲食店での彼らの金の使いっぷりは別物、とスナックのママから聞いたことがある。市にも収入が入る。生活保護費は全道でもトップクラスだ。そのためなのだろうか、離婚率も高い。逆に貧富の差が歴然としているからなのだろうか、犯罪発生率も全道トップクラスだ。そして、この街には美術館がない。書店に人が入っていない。人口と書店数の割合から進出して来た書店はいつもがらがらだ。
この街で早くから開業したある老舗企業の社長は「本屋なんかやってもこの街では儲かるわけがない」と断言した。苫小牧には文化が根付いていない。

何故なのか?それは、この街の住民の多くを占める人間が、この街が好きだから住んでいるのではなく、稼ぐために住んで働いているからだ。

街に愛着心を持たないと文化は産まれない。これが私の持論だ。

もし、大手企業が幾つか苫小牧から撤退したら、物凄い数の人間があっという間にこの街から去っていくだろう。かつて、高収入を魅力とした移住者に溢れた炭鉱地が閉山によってもぬけの殻となり、廃墟だらけとなったように、「金の切れ目が縁の切れ目」だからだ。
どのような街でも存亡の危機はあるはずだ。基幹産業が斜陽化し、失望に街が覆われた時だ。その時、街に愛着を持っている者は何とか再興できないかと必死に考える。より楽しい街にしたい。これからも自分が住んで行く街だから。

そう、「自分が生きて行くべき街」と思う人が多く住んでいる都市に文化は産まれるのだ。

そういう意味では、函館はまだ救われている。正確に言うと、その分岐点にあるのかもしれない。しかし、ここに住んでいることが必然的であって、その暮らしの中で自己を表現して行きたいと思う人がまだたくさんいるのも確かだ。私はそういう人々が失望せずに、その想いを具現化していけば函館は文化だけではなく、産業においても「廃墟」状態になることはないと信じている。
だから私もこの街に住んでいる。
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この美容室の名前はギリシャ語だそうです。そういえば、建物もエーゲ海にありそうだと想像できますね。
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千歳坂。この坂を登った突き当たり周辺に函館の歴史上貴重な寺院が並立しています。

最初に断っておくが、私は蕎麦通ではない。何故なら、蕎麦通はもり蕎麦等の「冷たい蕎麦」を好むに対し、私は「温かい蕎麦」が大好きであるからだ。真夏でも汗をだらだら掻きながら食べる。蕎麦粉の割合もどうでもいい。美味しければ何割であろうが一向にかまわない。一言で言えば節操がない、ただの蕎麦大好き人間である。だから、これは蕎麦通のしきたりではなく、私だけの持論である。

まず、初めて入る店での注文だが、概ね金が許せば天ぷらそばを頼む。中華料理ほど頻度は低いが、やはりこれにも訳がある。まず第一に単純にてんぷらが好きだということと、美味しい蕎麦屋は大抵てんぷらも美味しいからだ。これは恐らく間違いないと思う。しかし、蕎麦の場合、必ずと言っていいほどのこだわりはない。
最もこだわるのは、やはり麺とつゆである。
麺は太麺と細麺のどちらでも好きだが、つゆとの味のバランスがとても大事だ。細麺の場合箸で掴むと自動的に多数の麺が付いてくる。と同時に相当量のつゆも付着して口に入ることになる。この時、つゆの味が濃くて尚且つ麺も濃厚な味であれば飽きが早々とやって来る。どんなに麺が美味しくてもだ。太麺の場合、多少つゆの味が濃くても一度に多数の麺を掴めないため、飽きはなかなか来ない。しかし、麺そのものが味を大きく左右する。麺が美味しくなくつゆが濃かったら、つゆで誤魔化したのか?と勘ぐってしまう。
結論として、つゆは適度に薄味で、麺はしっかりとした味わいがなければ細麺であろうが太麺であろうが最後まで堪能できないことになる。

それでは、函館の蕎麦屋の場合はどうだろうか?残念ながら全体的につゆの味が濃い。
以前大阪から来た人がこんなことを言った。

「北海道の料理は味付けを濃くして誤魔化している。せっかくの素材が台無しだ」

これを聞いた時、私も今より若かったため、何をいちゃもん付けてるんだ、と思ったが、年を重ね各地の料理を食べる機会が増えるにしたがって、それもあながち間違いではないと思ってきた。特に明石焼きを食べた時のたれ(つゆ)の香ばしさには脱帽した。札幌などでは流石に全国各地から人が流入しているせいか、まろやかなだしを効かせた味のつゆが増えてきている。
そして、麺も手打ちが増えて欲しいと思う。違う店に行っても同じ麺を使用されていることが多く、あぁ同じ製麺所の蕎麦なんだなとすぐわかってしまう。だから、その蕎麦屋の味は暫く経つと記憶から抜けてしまう。
記憶に長く残る蕎麦屋はやはり手打ち蕎麦だ。麺にこだわれば、それを引き立てるつゆにもこだわる。だから美味しいのだ。

どうか、手打ち蕎麦屋が2軒に1軒くらいの割合になって欲しい。蕎麦大好き人間の切なる願いであります。
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小熊倉庫と函館港。海岸の好きな場所のひとつです。

私は蕎麦と中華料理が大好きだ。
この大枠2種類だけで1週間の昼食を済ますことができる。特に蕎麦は1週間に1度でも食べることができなかったら、自分が自分でなくなる。呼吸をしていなのと同じ状態になってしまう。そのため、新しい街に引っ越したり、長期出張で見知らぬ土地に赴いた時は、まず蕎麦屋を真っ先に探す。何件か見つけるとホッとして、「さあ、どの店に最初に入ろうか」と思いを馳せることになる。
ところが、長崎県に出張に行った時である。いつものように蕎麦屋を探すが見当たらない。佐世保でも大村でも長崎でも島原でも見つからなかった。おかしい、九州の人は蕎麦を食べる習慣がないのか?そう言えば、時代劇で江戸の町民が蕎麦を食べる場面はあるが、西郷隆盛が蕎麦を食べる場面は見たことがない、などと根拠の無い妄想が頭に渦巻く。私の蕎麦欲は臨界点を超えて、生きる屍のような日々を過ごすこととなった。
そんな出張の最終日の前日、とにかく何でもいいから麺を食べようと入ったうどん店に蕎麦があった。

何と九州ではうどん店のサブメニューが蕎麦だったのだ。

文化の違いとは恐ろしい。わかっていればあんなに無味乾燥な日々を過ごさずにすんだのに。
やっとの思いで辿り着いた蕎麦だったが、美味しかったという記憶は残念ながらない。やはりメインではないからなのだろうか?九州出身者がご覧になっていたらどうか教えてください。

さて、表題の「しきたり」だが、もう一つの好物の中華料理に私だけのしきたりがある。
それは、初めて入る店では必ずあんかけ焼きそばか中華飯(丼)を注文することだ。私なりの理由がある。中華料理で多用されるあんかけが上手にできていなければ、きっと他の物も美味しくないはずだ、という持論があるからだ。あんかけは熱が冷めにくい。その性質から、すっと口に入れることができるあんかけは、中華の鉄則である強火を使うことを実践していないか、できたての料理をすぐ持って来ていないかのどちらかである。
また、食べている最中にあんかけの粘度が落ちるのもいただけない。味ももちろんのことだ。
以上のチェックを通過した店は、次回はホイコーローを注文する。これも、中華料理に多用される豆板醤の使い方を味わうためだ。この2品の双方が自分好みであると、行きつけの店となる。

これはもちろん美食家ではない私の勝手な「しきたり」である。他の人にはどうでもいいことかもしれない。だが、好きなもの程こだわってしまうのは私だけではあるまい。

次回はもっとこだわりたい蕎麦のしきたりについて話します。
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大町にて
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元町にて

どちらも一目見てお解かりの通り大失敗作です。でも、この灯りの柔らかい色が気に入り、恥を忍んで投稿しました。フィルム式一眼レフのため、きちんと撮れたかどうか確認できませんので・・・。(言い訳)
三脚を買うか、強靭な腕力をつけるまでは夜間撮影は自粛します。(後者は嘘です)

それにしても、函館の正月は道内他都市にはない家紋付暖簾を出している家を多く見つけることができ、やはり歴史を感じさせてくれますね。(最後は何も無かったように終わる)