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これが4月末完成予定の5階建賃貸マンションのパースです。
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これが現在建築中の土地に過去にあった建物です。どう見ても廃墟のようですが、実際この建物の前を歩くと、何ともいえない情緒を感じさせる、人を惹き付ける雰囲気を持っている建物で、帰省の際函館駅から歩いて実家に向かう時に西部地区に戻ったのだと実感させてくれるものでした。(写真提供:関根要太郎研究室@はこだて)

都市景観形成地域に指定されており、両隣に歴史的に価値ある建物の間に景観とは似つかわしくない5階建のマンションが建築中です。
条例には「周囲の景観と調和のとれたものとする」と規定されています。皆さんはどう思いますか?前回ご紹介した伊賀邸といい、疑問がつきまとってしまいます。

そこで、ここで一度西部地区の建造物に関する条例の整理をさせていただきます。
まず、函館市で制定しているのが「函館市都市景観条例」を基に都市景観形成地域を指定しています。その地域は、船見町の墓地からベイエリアないし二十間坂と一部南部坂辺りまでが指定されています。その中にある歴史的な価値ある建物の一部を景観形成指定建築物として指定しています。これを担当する市の部署は都市建設部都市デザイン課であります。
そして、都市景観形成地域の中でも、特に伝統的建造物が集中している地区は「文化財保護法」に基づいて伝統的建造物群保存地区に指定されています。その地区の中の「明治から昭和初期に建築された和風、洋風および和洋折衷様式の建築物等で、伝統的建造物群の特性を表しているもの」を伝統的建造物として指定されるわけです。これを担当する部署は教育委員会になります。(以上、函館市発行「函館らしい都市景観の形成をめざして」より)

それぞれの主旨や制限を述べたら長くなるので省略しますが、担当部署でだいたいのことはお察し付くと思います。
そうです、伊賀邸はあの弥生小学校を破壊した教育委員会の管轄業務なのです。単なる偶然かもしれませんが、またまた「何でもあり」なのです。ちなみに、函館市都市景観条例の第5章第28条には伝統的建造物の除去は条件付だが認められており、もちろんその地区での新築も条件に則っていれば認められる。
つまり条例上では伝統的建造物を解体して、別形状のものを作ってもただ伝統的建造物という名が無くなるだけで、特にお咎めはないこととなります。これが「保存を目的とした」条例なのです。全くのザル条例でありますが、その精神まで希薄になりますと、繰り返しますが「何でもあり」になってしまうのです。
伊賀家を批判するつもりはありません。保存のための維持手段指導や提案のない、ポリシーのかけらもない担当所管をただ疑問視してしまう次第です。
また、「調和」という意味の捉え方に一般市民と温度差があり、霧が発生して先が見えなくなっているマンションの許可元にも気が滅入ってしまいます。

最後に都市景観形成地域のめざすものとして前出の冊子に記載されている文章を紹介します。
歴史性をいかした新たな創造と歴史的景観の保全が一体となった、調和のとれた活力ある町並みとして、より魅力的な誰でも住みたくなるような、うるおいのあるまちづくりをめざします
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伝統的建造物の指定を受けている日和坂の伊賀邸がどのように変わったか、ご紹介します。

まずは昨年撮影した1棟2戸の伊賀邸。
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次にご紹介するのは建替えた後の、つまり今の伊賀邸です。
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完全に分離した形となっており、日和坂側は店舗となっています。店の名前は「茶ろん 喜平」としてオープン準備を整えています。いつオープンするかはまだわかっていません。
また、その店内の一部が玄関からちょっと見えたので撮影しました。
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どうやら、2階席もあるようです。

ところで、伝統的建造物なのにこのように形状の異なった建替えはできるのでしょうか?
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薄暮の旧英国領事館。

さて、前回の続きを話そう。
株価が取引価格であることはご理解できたと思うが、これは常に変動する。この変動によって損をしたり利益を得たりする。では、変動はどうして起こるか?それは「気分」で起きる。正確に言うと、心理である。

こんなことを言うと馬鹿げていると思うかもしれない。しかし、実際にそれは起きている。例えば、昨年秋口に発表された消費者金融の「アイフル」のADR(裁判外紛争解決)がいい例だ。債務超過に陥ったアイフルはADRを発表し、裁判所の手続(民事再生や会社更生法)を採らず、債権者から返済の免除ないし減額を受けるという私的整理という手段に打って出た。この時、当然株価は下落した。
何故下落したのか?まだ、アイフルが倒産したという「事実」はない。また、ADRが成立する可能性が0という確証も全くない。それなのに株価はあっという間に下落した。それは、もしADRが成立せずに倒産となったら自分の所有している株の価値が無くなると恐れて、損をしてもいいからと早めに売り注文を出す者が殺到したからだ。ところが、前回の話の通り、株価は売る者と買う者がいないとその価額は出て来ない。つまり、そのような会社の状況下でも買った者がいたということだ。そこからマネーゲームが始まった。何日かは下落が続いたが、ある程度まで下がると今度は買い注文が売りを上回った。当然株価は上昇する。上昇に転じると、ひょっとして今買ったら利益が得ることができるのではという心理で買いが増える。これもある程度まで上昇すると、底値で買った者は充分な利益を確保できるため、売り注文を大量に出す。そしてまた株価は下落する。その繰り返しだ。
その間、アイフルにはADRが確実に成立・不成立するという情報は全くなかった。つまり、「実態」がないままに勝手に株価が上下していたのだ。

こんなことは株取引の世界ではよくあることだ。ある不動産関係の企業の株価は、リーマンショックの影響が続いていた昨年2月に1株600円位まで下落した株が9月には20,000円以上にまで跳ね上がったことがある。これも、その会社の業績が急に上向いたという事実は無く、ただの心理的マネーゲームから生じた現象だ。例えば、この会社の株を最も下落した時に150株9万円で購入して9月に売ったとすると300万円となり、291万円の利益を得ることができたことになる。たった9万円が300万円になるのだ。

こんな馬鹿げたことが実際に起こるのが株取引であり、自由資本主義のシステムなのだ。

しかし、私が最も訴えたいのはこのことではない。次回はこのシステムから生み出される私たちへの影響について話す。
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護国神社坂の建物。この建物が注目されないのが不思議なくらいユニークな外観を有しています。まぁ、個人宅ですのであまり騒がれても迷惑かもしれませんが。

とても堅い題材に思われそうだが、学術的な論理や投資術を述べるつもりは毛頭ないし、また、そんなことは全くできない。単に自分が経験した株取引から、株取引の発生した資本主義について感じたことを書くだけだ。
元々株取引には全然興味がなかったし、それ以前に金がなかった。ところが、株取引を行わなければならない必要性が生じたことをきっかけに表題のことについて考えるはめになってしまったのだ。
そもそも株のことを考えることになったのは、前職を退職したことから始まる。
前職の会社は東証に上場しており、それもあって社内持株会に積立をしていた。社員の義務的な動機で始めたものだったから最低の積立金を選択して続けていたが、退職時持株会の脱会に伴って持株の移管のために証券会社の口座を作らなければならなかった。指定されたのは野村證券だった。
会社の指示に従って口座を開設し、手続を完了させると株が私の口座に移管された。これで一応弱小投資家となったわけだ。

以上のことは、同じような経験をした者や株取引の知識のある者には非常に簡単な事柄である。しかし、私もそうであったように、関心のない人や知識・経験のない者にはなかなかわからないことが多い。それが株取引である。
そこで、知識のない人にもわかる株取引の仕組みとその取引が持つ意味について書いてみる。

まず、よく耳にする株価についてだが、株価は証券取引市場や証券会社が付けるわけではない。例えば私の持っている株を1株あたり1,000円で市場に売りに出したとする。そこにその価額で買い注文を入れた者(もちろん誰なのかはわからないが)がいれば取引成立となり、その価額がその時点での株価となる。ただし、優先されるのは注文を入れた時点での株価となるため、例えば先程の1,000円の買い注文を入れてもその時点での株価が800円だったとしたら、800円、801円と順に売り注文株数を消化して取引され、私が出した1,000円では取引成立とはならない。逆に株価が800円の時点で、700円で売りに出しても取引成立となるのは800円、799円の順になる。これは投資家に有利になるように施された仕組みだが、とにかく、ニュース等で電子掲示板に表示される株価はこのように決まるのだ。(注:注文方法は他にもあるが、説明が複雑になり、わかりにくくなるため省略する)

株取引の説明はこれだけである。これだけ理解できれば、賢明な読者は世の中で起きている様々な経済動向、すなわち好不景気がなぜ起きるか、そのつまらない仕組みを紐解くことができるであろう。

次回へ繋げる、その前書きとなる言葉を記す。

「私たちの生死は、一部の金持ちの手に握られている」
過日、季節を感じないという主旨のコメントを書いた。
それから何日後かに、泉谷しげるの『春夏秋冬』の歌詞を思い出した。

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「季節のない街に生まれ」

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「風のない丘に育ち」

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「夢のない家を出て」

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「愛のない人に会う」

今日ですべてが終わるさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてが始まるさ
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green grassがあった場所。市役所のすぐ近くだ。

『House of』にいると、時間はゆっくり流れた。窓の外を見ると、ちょうど窓枠が額縁の代わりになり、静かに動く風景画を見ているようだった。その風景からは詩が生まれ、歌が生まれ、絵が生まれた。
一度、自分が作詞作曲した歌を、アコースティックギターの弾き語りをテープに録音し、マスターに聞かせようと持って行ったことがある。偶然客が誰もいなかったため、その時を狙いスピーカーから流してもらった。改めて自分の歌を聴くとひどかった。完全に場壊しだった。しかし、マスターは何度もかけ、よせばいいのにお客さんが来てからもまたかけた。恥ずかしかった。
恐らく、歌そのものよりも曲を作ってそれを聴かせようとした私の行為を喜んだのだろう。その証拠に、東雲町にあった『green grass』で行った私のプライベートコンサートに店を抜けてわざわざ聴きに来てくれた。

『House of』にはボルシチがメニューにあった。生まれて初めて食べて、市内の他店には勿論無かった奥さん特製の逸品だ。この特製ボルシチを昼食にすることが時々あったが、たまに作りおきが無い時は出来上がるまでずっと待った。それくらい美味しかった。
この奥さんは日本人離れした美人で服装のセンスも素晴しかった。同年代の男だったら、何とか話すチャンスを作れないかと機会を探ってしまうだろう。また、持ち前の明るさから市内に色々な知人を持っていた。彼女の紹介でジーンズ専門店に私が作ったデニムバッグを売りに出してもらったことがある。これは最後まで売れなかったが、それを知った友人には新たに作るデニムバッグを格安料金で注文を受けることになった。

楽しい思いほど長くは続かないのが世の常だ。『House of』が閉店する時がやって来た。理由は、奥さんの妊娠だった。確かに私たちのようなコーヒー一杯で長時間居座っている客を相手にしていると、金にはならなかったのだろう。マスターは札幌に戻り、ジョン・レノンのような長髪を切り、サラリーマンとなった。

『House of』なきあと、『green grass』に行く頻度が高くなった。高校3年の冬だった。
その頃、イーグルスの「Hotel California」が世界的な大ヒットとなっていた。完璧な曲だった。歌もメロディーも演奏も文句の付けようが無かった。そしてこれで「ロック」は終わった。

その後札幌に移り住んだ私は夫婦の家に時々遊びに行った。店から離れたマスターは私にこう言った。
「〇〇君(私の事)たちは可哀想だね。熱中するものがないから」学生運動と私たちの世代の違いのことだった。
そして、奥さんは函館のことをこう言った。

「函館は、街は好きだけど、人は嫌いだ」

ショックだった。あの笑顔の陰でそんなことを思っていたのか。ところが、この言葉はやがて単に初めて聞いただけという事実となった。その後今まで、他都市の人から何度もこれと同じ意味の言葉を聞いている。その度いつも複雑な思いになる。その人が言う、嫌いな函館の人とはどのような人のことなのか?

2年ほどして帰省すると、『green grass』は店主が替わっていた。そしてスピーカーからはマイケル・ジャクソンの「スリラー」が流れていた。
もう何もかも終わったのだとつくづく思った。

ある意味、私の時間はその時から大きく動いていない。いくら遠ざかろうとしても惹きつけられる街「函館」で育った私が背負った「函館の人は嫌いだ」という何人からも聞いた言葉を払拭できずにいる限りは。
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堀川町のこの建物の中央にHouse of はあった。今も若干の名残がある。

昭和49年頃だったと思う。私が高校1年生で、喫茶店で遊ぶという習慣を覚えていった時、高校から近い場所にロック喫茶を見つけた。堀川町のキングストアを曲り的場町方面に進むと『House of』はあった。
若い夫婦が経営している10人も入ると通路を歩くのが窮屈になるほどの小さな店だったが、そこで拡がった友人の輪はとてつもなく大きかった。

この『House of』という店の名前は、開店を控えて名前を考えた時、〇〇の家という名にしようとあれこれ考えたが、結局開店に間に合わずそのまま「の家」だけにしたそうだ。正式名は『House of ~』なのだが、~はお客さんが勝手に考えてくれればいい、というコンセプトになったそうだ。

ところでこの喫茶店はごく一時期のごく限られた人しか知らないと思う。営業していた期間が昭和49年頃から昭和51年いっぱいくらいまでだったからだ。その時期は私の高校の在学時期と一致する。まさに私にとっては高校生活そのものだった。

その時代は、頭脳の中に宇宙がある時代だった。

私と同年齢でアマチュアロック演奏活動をやっていた者の半数以上はこの喫茶店に行ったことがあると思う。当時、函館にはロック喫茶と呼べる所は、ここと本町の『帰郷村』(ここにはよく八方亭のメンバーが来ていたそうだ)と東雲町の『green grass』くらいしかなかった。そして、なぜか私と同世代の者は『House of』に集まった。

『House of』のマスターはいわゆる団塊の世代であり、また、学園闘争に明け暮れていた人間のひとりだった。夫婦とも札幌出身で「様々な若さゆえの理由」で函館にやって来て店を構えたのだ。
音楽は多岐に亘っていた。ボブ・ディラン、ザ・バンド、ドアーズ、キング・クリムゾン、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・レノン、ウィッシュボーン・アッシュ、ジェフ・ベック、スティーリー・ダン、イーグルス、ジャクソン・ブラウン、ドゥービー・ブラザーズ、オールマン・ブラザーズ・バンド、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、その他ロック・ブルース・ジャズがマスターの気分で選ばれ、店内に流れていた。

これらはそのまま私の今でもお気に入りの音楽として残っている。それくらい多感な時期の私に影響を与えた店であった。
そんな店も閉店を迎えた。閉店後夫妻は札幌に戻ったが、私は交流を続けた。そして、札幌で奥さんから聞いたある言葉が、多感だった頃の私の記憶としてずっと残ることとなった。

次回に続く。
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この建物の素晴しいところの一つに、後ろの自宅?まできれいに手入れしてあることがあげられます。
明治時代後期の写真を見ると、この末広町はこのような美しい建物が多く並んでおり、とても日本とは思えません。
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これらも、よく残っていた!とおおいに讃えたいものです。
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最近、なかなか弥生小学校を撮る気持ちになれなかった。
今日、立ち止まってじっくり見ると、黙々と作業員が行っている行為が、あたかも大がかりな死体処理のように見えた。
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高校卒業までの大部分をこの小路近辺で過ごしました。
もちろん、当時はこんなに車もなく、道路も舗装されていませんでした。
でも、それ以外はそんなに大きく変わっていない風景です。

あなたの函館の思い出の場所はどうですか?
(昨年7月撮影)