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元町の建物。バス通にある。シンプルな形をしているが、玄関周りがお洒落で思わず中を覗きたくなります。

今日出勤途中にバス通で、バス待ちの観光ガイドブックを開いて持っている若い男性と80歳近くと思われるおばあちゃんが笑顔で話していた。好天の朝にふさわしい微笑ましい光景だった。おばあちゃんが孫ほど違う若者と何を話していたかは、車で通り過ぎた時に見ただけなのでわからない。
多くの年配者の話を聞く時、何かを伝えておきたいのだという意図を感じることがある。若い時は正直言ってその話も退屈であった。昔話や説教がましい話に閉口していた。ところが、歳を重ねるにしたがって逆にそんな話が楽しくなってきた。今ではいろいろな年配者の話を聞くのが嬉しくて仕方ない。

どうして自分がそのように変化して行ったのか。それは長い人間という歴史の中で、自分の一生はその一部分にしか過ぎないとわかったからだ。当り前と言えば当り前の話だが、人間という役目を終える時期が近づいている人の話は深いところがある。その話の意味を理解できたら、どんな知識を得たよりも自分の肥しとなりえる。

人間40歳を過ぎたら社会を作る責任があると思う。親が子供に何かを残そうと必死になって物事を伝えるのと同じように、40歳以上の者は社会に必死になって何かを伝えなければならない。将来の社会を作るべき次の世代や次の次の世代のために。

若い時は親のような世代の人々が作った社会を「消費」するだけであった。生産する能力は低かった。だが、今度は「消費」される社会を作る役目がある。その役目を果たさず、ただ消費を続けていると、世の中のバランスが崩れていく。消費が生産を大きく上回るからだ。
無意識のうちに年配者は作り残す行動をとる。そして人間の役目を終える。自然な流れである。

そんなことを考えているうちに、また私もたいしたことができないまま1日ずつ寿命を縮めている。
だからこそこのブログを毎日書いているのかもしれない。
果たしてそんな格好のいい理由が本当に自分にあるのだろうか?
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窓からの青空と光と影。撮った後に窓から入っている光が途切れ途切れになっているのが不思議に思っているのですが、まだその原因を掴めていません。

本日会社からの帰宅のため高砂通を走り、駅前通の交差点で信号待ちをしていた時に、ロッテリアの閉店予告の貼り紙を見た。夜でもありかつ距離もあったため間違いないとは言えないが、5月31日をもって、と書いてあったと思う。日付は再確認しなければならないが、閉店は間違いないようだ。

このような店舗の閉店は単純に採算ベースにのる売上がなくなったというのが理由であると思う。チェーン店では地元のためという考えは薄いであろうし、残すための独自の方策も考えないだろう。だから、閉店それ自体は冷静に捉えたいが、問題はそれ程利用客が減少しているということだ。
ロッテリアそのものの人気に翳りが出たのか、この店舗だけなのかわからないが、その理由はどちらであっても確かにロッテリア附近、つまり駅前・大門を歩いている人は少ない。

これは今に始まったことではないし、誰でもずっと前から知っていることだ。ところが、またひとつ店舗が減るという現実を知るとやはり寂しい。ましてこの場所は、昔の女性にとって青春を謳歌した「ソーダーファンテン カメイ」の跡地だ。
余談だが、ソーダファウンテンは1700年代のアメリカで炭酸水に薬効があると信じられており、薬局に併設されていたという。そう言えば、ソーダーファンテン カメイはカメイ薬局の二階にあった。

函館には3つの繁華街があると言われて久しい。どれが決定的に中心地になるかという要素は全くない。一時は本町が中心かという勢いがあったが、美原地区の出現で単に分散されただけで今に至っている。
このようになった原因として考えられるのが、旧々函館市の土地権利関係の問題と鉄道利用客の減少と所有車台数の増加と都市計画のまずさだ。
鉄道と駅前の繁栄は密接な関係がある。通勤通学旅行の殆どを賄う時代においては必然的に駅前に人が集まった。空港前に繁華街ができるという話はあまり聞かない。また、地方の新幹線新駅近くがその街の中心地になったという話もあまりない。バスターミナル附近が中心地となったという話もこれまた聞いたことがない。
移動手段が多様化すれば、ただ鉄道駅前が衰退するだけで、その他のどこかが飛び抜けて繁栄するという要素にはなりえないのだ。これは地方都市どこにも当てはまる傾向だが、函館も見事にそれに該当する。もちろん、その背景となる最大の要因は車社会になってしまったことだ。

これだけ繁華街が分散されると、車を運転しない者には不便極まりない街にしか捉えられない。だから、便利な大都市へ移住する。人が減ると小さな商店は営業が困難になり閉店する。すると益々人は不便になるからまとめ買いができる郊外の商業施設に車で出かける。そしてまたまた徒歩客は不便になる、という悪循環だ。

そして、ますます駅前・大門は寂しくなっていく。
前回に引き続き旧相馬邸の内部の各所の写真をお届けします。
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渡り廊下。上質な無垢材でできている。
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厠と手洗所。影で見えませんが、手洗用流しは水が流れる所も全て木製です。
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暖炉。洋館応接室にあります。
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土蔵二階部分。
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風呂。もちろん檜だ。
旧相馬邸の内部は木材の質の高さは明らかに認められますが、全体の構成や装飾はいたって質素です。これも相馬哲平氏の哲学なのだろうと思います。
本日は邸内の一部をご覧いただきます。
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昨日に引き続き旧相馬邸を訪れた。1750年頃の江差を描いた屏風の撮影のためだ。そのついでに撮影してものと昨日撮影した旧相馬邸からの眺めをお届けします。
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二階から見る函館港。相馬氏は家にいながら商船の入港を確認できたのですね。
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同じく二階から公会堂を見る。自らが巨費を投じて建てた公会堂も窓から見える風景の一部だったのだろうか。
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二階から緑の島方面を見る。
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二階から見ると、旧英国領事館も見下ろせる。
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この方向からは今は無き函館区立(後に市立)病院も見えたであろう。

なお、窓を通して見える建物等が歪んだり変形して見えるのは、窓ガラスが昔の製法によるもので、表面が均等に仕上がっていないからです。これも見所のひとつです。
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本日初めて見ることができた旧相馬邸の庭園の一部。このリポートはハコダテ150+でご覧になれます。

本日、ちょっとした関係から6月より一般公開される元町・旧相馬邸の事前内覧することができた。これは、29日30日のオープン前招待公開に先立ち報道向け公開という形で特別に招待されたもので、旧相馬邸オーナーより「ハコダテ150+」が情報伝達媒体として期待されている証であると感じた。

さて、この建物を内覧して感じたのは、相馬哲平氏のものの考え方だった。建物を構成している木材やその加工と客間・応接間の豪華さと裏腹に、家族が利用したと思われる部屋は思いの外普通の金持ちのものであった。勿論、建具や天井・襖などは一般の住宅と質感が全く異なるが、豪奢な感じはしなかった。
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これが相馬哲平氏の考え方だったのだろう。つまり、社会的なことには金をためらいもなく費やすが、私的なことには質素を貫くべきだという考え方だ。この考え方は相馬哲平氏だけの特殊なものではない。故笹川良一もそうであったという逸話がある。

笹川良一氏の家は雨漏りが激しく、雨が降る度に奥様はバケツを持って家中を走り回ったという。また、笹川家では給湯器がなかった。奥様はしもやけができても冷水で台所作業をしなければならなかった。堪りかねた側近が良一氏に進言し、やっとガス瞬間湯沸し器が台所に付いた。これに喜んだ奥様は嬉しさの余りご近所に触れ回ったそうだ。既に一般家庭に瞬間湯沸し器が浸透された時代の話だ。

そのくらい笹川氏は金を己に使わず世の中に回した。消防車が全国の市町村に整備されたのは笹川氏の寄贈に依る部分が大きい。
相馬氏も函館という一社会に行った貢献度合いは高い。今の函館の観光のみならず文化性・情緒という意味においても相馬マネーがなければどのようになっていたか、想像に難くない。この当時函館トップが実践した行為は他の豪商たちにも影響を及ぼしたのではないか、と想像できる。名士となった証は、街にどれだけ金を還元できたかによって得ることができたのではなかろうか。

それが大正・昭和初期まで続いて、北洋漁業の基地であった函館の繁栄は市民全体が享受できたのではないだろうか。実際に金はなくとも希望という光はあったのではないか。
大きく変わったのは太平洋戦争後であったと想像できる。既に代を重ねた函館の「財閥」は、自分を守ることだけに力を費やすことになった。

金持ちが金持ちとしての立場を、庶民とのバランスを保って存在できたのは恐らく戦前までであったのだろう。その時代は今よりも「アメリカンドリーム」が身近にあった時代だ。誰でも努力とアイディアがあれば大きな財を残す可能性があった。ただし、現代とは違い「本物の力と人間性」が試された時代でもあったと思う。
相馬邸を初めて内覧し、そんなことを想像した。
前日に引き続き弥生小学校の解体時の写真をお届けします。
どうか、目に焼き付けておいてください。
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弥生小学校の解体と新校舎の建築開始の時期が近づきつつあります。
昨年解体開始してから一部は公表しましたが、まだPCに眠っているものが数多くあります。本日はその一部を何枚かご紹介します。
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本日は、前回お伝えした道の周辺で見つけた、写真として記録しておかないと近い将来にその姿を見失ってしまうかもしれない建物たちをご紹介します。はっきり言って他にもどこかにありそうな建物ですが、もし無くなったら、「街並が変わった」と感じてしまいそうな建物です。
街並は突出した建物だけではその趣を形成できません。色々な「趣」の混在によってできるものだと思います。
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元町の風景をあえてピントをぼかして撮影しました。
函館に住んでいない頃は、街の記憶がこのようにぼやけていました、と言えばこじつけでしょうか?表現というのは難しいですね。
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こちらも同じ元町。昔銭湯だった建物のよこに蛇行した小道があります。まるで小川のようですね。銭湯が営業していた頃は、川の流れに乗って近道したのでしょうか。

近道といえば、それを見つける名人は何と言っても子供ですね。私も小学生の頃、大人が通れない家と家との狭い隙間を通って近道していました。