<   2010年 06月 ( 30 )   > この月の画像一覧

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今日の弥生小学校。解体部分の窓が壊され、内部の木材が剥ぎ取られていた。

二十間坂の自由の女神像問題で、改めて函館市の都市景観条例や担当部署の対応に対して疑問や批判が噴き出した。女神像設置に関しては市担当部署も知るに及ばなかったということになっているので、言及はできないとしても、店舗そのもののデザインに対しても疑問を持つ市民や函館を愛する他地域の方が多数いた。

確かに、元町に似つかわしくない建物であるという点では全く異論はない。本当はデザインは海産物販売店らしく派手にしたいのだが、そういう地区に建てるのだから仕方なくそれっぽく造るしかなかった、というのが見え見えのデザインである。しかし、それでは目立たないだろうから女神像を設置した、というストーリーが簡単に想像されてしまう程の稚拙さであるし、無思慮ぶりを露呈されてしまった出来事であった。

だが、批判ばかりしても仕方ない。では今後と゜うしたらいいのかということを、このブログで提言してみたい。

まず、西部地区の都市景観形成地域内に存在する建物の改修または新築は、全てその計画段階から市役所及びホームページで施工予定内容を公開すべきである。そして、その計画が景観を損なうものかどうかを一定期間市民に問い、異議がなければ許可をするというシンプルなものだ。

理由はいとも簡単なものだ。

補助金が出る工事が、税金という形で出資している市民の同意を得られなければならないのは当然のことであり、また、その判断を市に委ねるにことは今回のことで改めて危険と判断されたからだ。

デザインは非常に主観的な要素が強い。それを一部の市の担当者が是非を判断するのは危険だ。そのような判断権限を与えられるということは、神になったのと同じことだからだ。だから、その責務は市民が負うべきである。なぜなら、市職員は「我々の判断」で採用された人物でもなければ、「我々の力」によって罷免できるものではないからだ。

我々が選出した市議会議員が、現実的には市職員にコントロールされているのだから、方法はこれしかないはずである。
本日は久々に過去画像を中心にお届けします。駅前から函館山麓まで広範囲ですが、特別きれいな風景でも有名なシーンでもない、うっかり見過ごしてしまいそうな普通の風景です。

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幸坂の巨木。この坂を登る時、時折立ち止まって見上げてしまう。
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豊川町の古民家。
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旭町の児童公園。これは昨日撮影したもの。
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東川町の松並木緑地帯。昨年春撮影。トラックが松の枝にぶつからないのかと、いつも心配になってしまう。
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弥生町の朝の風景。電信柱が邪魔だったため投稿していなかったが、この風景はとても好きです。
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美しい海面の入舟漁港。コケもこんなに綺麗に見えます。

たまには経済の話を。
恥ずかしいことだが、いつの間にか日本は世界一の借金大国となっていたようだ。首位の座はアメリカが居座ると思っていたので順位は気にしていなかったが、ついに我が日本が首位奪取したようだ。
また、相変わらず貯蓄残高も世界一のようだ。

本当に変な国である。

実際には貯蓄は主に個人・法人のもので、借金は国のものだから一緒にできないのだが、例えば、100万円の貯蓄を使いたくないから、生活費として100万円借金しているようなものだ。
そして、その借金を子供に払えと言っている。本当に馬鹿げている。だが、それが今の日本である。

貯蓄算残高が増大した理由は、よく不景気で先が読めないから防衛策として貯蓄しているとか、年金制度が信用に足りないためなどと言われている。どちらも的を得ていると思う。
だが、もうひとつ忘れてはならないのは、現在の会社が能力主義を採っているのも一因ではないかということだ。

理屈は簡単だ。仕事の成果によって収入が変わるのだから思い切った消費はできない。収入が減った時に対応するため貯蓄しておかなければ不安なのは自然な人間の心理だ。収入を消費に向ける額が減ると、当然各企業の収入も減る。そうなると国の税収入も減る。だから国債を大量に発行してまた借金を重ねる。この繰り返しだ。
赤字国債という手段を用いてしまったら、もう麻薬常習者になってしまったようなものだ。日本は麻薬を服用しながら必死に治療薬を集めているようなものだ。だが、治療薬は決して使おうとはしない。薬は大切だからしっかり保管しておかねばもったいないと貯め込んでいる。そして麻薬による症状は治療されずに時間とともに悪化していく。

つまり、日本は相当重症の精神疾患に罹っていると言う事ができる。異常な集団の常識はこれもまた異常であるのが常だ。戦時には人を殺したり殺されたりするが常識で何の疑いもなかったように、このような状態になっても高額貯蓄者は金を流通させようとはしない。しっかり貯め込んでいる。

函館と似ていないか?一般労働者の平均所得がこんなに低い中で、家賃は札幌並みと、函館には不労所得者を保護するシステムが出来上がっている。しかし、そのバランスは次第に崩れかかってきている。

本当に崩れた時に、函館はより活発な経済活動を迫られ、街づくりの見直しを必要とされるであろう。だが、それに失敗した時は衰退がより加速されるであろう。だから私たちは常に函館の事を考えていなければならない。自分たちが作る街として。

しかし、この国の借金の終わらせ方はどのような手段を用いるのだろうか?自分が生きているうちに是非見てみたいものだ。
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暮れなずむ大森浜。

昨日に引き続き音楽に関わる題材だ。
個人的な話になるが、私の10代の音楽の好みはかなり偏っていた。中学生時代に知ったBob Dylanから始まり、アメリカのブルース系ロックやブルースそのものと時折ジャズなどを愛好した。それでもまだ購入するレコードは一般のレコード店で売っている範囲の比較的ポピュラーなものだった。
ところが、高校を卒業するとマニアック度合いは加速し、札幌市内の輸入盤専門店の中でも1店にだけ、それも1枚しかなく、それを買わなければ廃盤となって二度とお目にかかれないようなレア物を漁るようになった。そのようなレコードを入手する快感のようなものを感じた反面、いつしかありきたりのものを買うことが自分の中で恥に感じるようになってしまった。

その結果、聴く音楽は深いところまで入って行ったが、ジャンル等を含め範囲は非常にせまくなってしまった。
次第に自分が苦しくなっていった。そして、自分が本当に何が聴きたいのかわからなくなってしまった。洋楽でも何を聴いてもつまらなくなった。もちろん、邦楽は見向きもしなかった。自分で自分を縛り付けてしまっていたのだ。

そんな時に就職した会社で演奏活動をしている人と知り合った。彼のレパートリーは広かった。聴きたいものはなんでも聴くというスタイルだった。最初、この人はポリシーがないのかと疑った。しかし、付き合っているうちに自分も彼の選曲が心地良く感じてきた。そして、自分もこだわりを捨ててポピュラーな洋楽から邦楽まで聴き始めた。恐らくそれまでだったら決して聴かなかったボズ・スギャックスやボビー・コールドウェルなども聴くようになった。しまいには、松田聖子まで聴いた。そしてわかったことは、松田聖子は作曲家に恵まれているということだった。視野が広がった。

I shall be released.   
自分自身に解放された時だった。

私の妻は元X-JAPANのHideの大ファンだった。まだ、X-JAPANがXというバンド名だった駆け出しの頃からのHideのファンだった。そのお陰で私も散々HideのCDを聴かされた。
正直言って、X-JAPANの頃のHideは好きではなかった。ハードさとビジュアルを重視したバンドという印象から逃れられなかった。ちょっと疲れている時は「うるさい」と感じたこともあった。ところが、X-JAPANが活動休止し、ソロアルバムを発表すると見方ががらりと変わった。

とても面白い。そのうち私の方が多くCDを聴くようになってしまった。特に彼の「Psyence」は日本のミュージック界の中でも傑作のひとつに数えられるものと言える。ビートルズで言えば「ホワイトアルバム」のような存在だ。
このアルバムに入っている曲のジャンルの幅がとてつもなく広い。様々な種類の音楽の要素を取り入れている。聴いていて楽しくなってくるのが自分でもわかる。そしてHide本人も楽しんでいるように思える。

そう、Hideは解放されてのびのびと自分のやりたい音楽を楽しんでいたのだ。よく、Hideはミュージシャン仲間に高い評価を得ていると言われる。理由はカバーされている音楽の広さとそれを実際に演奏で実現されていることだ。その素晴しいところがそのアルバムでは存分に表現されている。

束縛されているのは他者によるものとは限らない。自分自身から解放されることもまた自由の獲得である。

Hideに「Good Bye」という曲がある。この曲はX-JAPAN時代の演奏もあるが、アルバムのアレンジの方がはるかに優れている。ビートルズのアレンジを取れ入れている佳作の一つだ。
「軽やかに歩き出した」時の曲を聴いてみよう。


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時任町の八方亭。幹線道路から少し入ったところにあるが、昼時はそれなりの客数がある。ご覧の通りタクシーの運転手さんもよく見かける。

今から35年以上前の話で大変恐縮だが、函館に「八方亭」というアマチュアロックバンドがあった。数多くあるアマチュアバンドの中でも突出した存在感と実力を持つバンドだった。中学生の頃からその名前はなぜか知っていた。アマチュアロックコンサートの常連で、「客を呼べる」特別な存在であった。
演奏はハード系のブルースが多かったように記憶している。デュアン・オールマンが存命中のオールマン・ブラザーズ・バンドのコピーは素晴しかった。中学から高校にかけて市内のバンドの演奏は数多く聴いたが、八方亭はすば抜けていた。別物だった。

ギタリストは2名いた。柴矢さんキョウヤさん(漢字は忘れてしまった。申し訳ありません)だ。
私が高校の音楽系のクラブの部長をやっていた(やらされていた)3年生の時、文化祭に柴矢さんがやって来て、演奏を行いたいと申し出た。久し振りにメンバーと一緒にやりたいのだということだった。
柴矢さんは私が入学した年に卒業した、同じ高校の先輩だった。それまで演奏者と客という関係でしか対面したことのなかった私は、初めての会話に緊張した。
「このクラブは自分がつくったんだ」と私に話した。「クラブを作れば学校で堂々と練習できるし、少しだけど部費も学校からでるからね」
私は黙って聞いているしかできなかった。なぜなら、八方亭の中でも、特に柴矢さんは雲の上の人だったからだ。私は、演奏を即OKした。もう一度目の前で聴きたかったからだ。

演奏開始の時間の打ち合わせをして柴矢さんが帰り、私がギターで遊んでいると今度は経田さんが現れた。おもむろに私の傍に座り、自分のギターをアンプに繋ぎ、演奏を始めた。
突然のセッションが始まってしまった。先程の緊張に続き今度は違った緊張が走った。これまた雲の上の人とセッションをやるなど考えてもみなかったことだ。指が動かない。リズムを切ることだけで精一杯だった。経田さんがリズムを弾き、やりな、と合図をされたが何もできなかった。

観客以外の立場での接触はこの時だけだった。それでも、今でもその場面は鮮明に覚えている。当時、北海道で「凄い」バンドと言われていたのが、旭川の「安全地帯」と函館の「八方亭」だった。
この八方亭というバンド名は、高校のすぐ近くにある中華料理店の息子がメンバーの一人だったことから名付けられた。これは有名な話だ。
安全地帯は皆さんご存知のようにプロデビューを果たし、たくさんのヒット曲を世に出した。八方亭は高校卒業後に活動をしなくなり、その後各々の活動を始めた。柴矢さんはユニットバンド「ジューシーフルーツ」のギタリストとしてTVにもよく出演した。「ジョニーはご機嫌ななめ」がヒットしたからだ。次のシングル曲「なみだ涙のカフェテラス」は柴矢さんの作曲だった。そして、若い方もご存知だろうが、何年か前ヒットした「おさかな天国」は柴矢さんの作曲で奥さんが歌っていた。
経田さんもギタリストとして活動していたが、その後の話は聞かなくなった。

「八方亭」が函館に残したものは大きかった。函館のロックミュージックの土壌を作ったと言っても過言ではない。勿論、八方亭以前にも函館出身のミュージシャンは数多くいた。主なところでは、森山加代子、先日不祥事を起こした中村耕一、古くは西高出の北島三郎などだ。しかし、市内のプロを目指すアマチュアにこれほどのレベルの高さを与えてくれたのは、やはり八方亭であっただろう。

その後の函館出身のミュージシャンを知ればわかる。私の同級生の、高橋真子の「ごめんね」や竹内力の「欲望の街」の作曲者の水島康宏、1歳下で現在作家・映画監督の辻仁成、少し歳が離れてJUDY AND MARYのYUKI、そしてGRAYと続く。このようにメジャーデビューしなかった者にも、プロからのスカウトを受けた者の名を何名も聞いている。
余談だが、辻仁成氏のことはよく知らなかった。当時函館の練習用スタジオは限られていたので、大抵のミュージシャンのことは知っていた。確かに西高に上手い奴がいるということは聞いていた。そして、何かの機会に一度だけ演奏を聴いたことがある。それが辻氏だったということはデビュー後にやっと知った。

全道的にいっても函館の音楽のレベルは高い。それは音楽に限らない文化があったからだと思う。いつもは景観などについて述べているが、函館には「文化」という土壌から様々な芸術を産み出している。建物もその一部だし、音楽もその一部だ。
その土壌を壊すのも残すのも、今住んでいる私たち次第である。

今日、次の仕事先へ行く途中に八方亭で昼食をとった。店内は普通の大衆中華料理店だが、置いてあるコンサートの告知等のフリーペーパーが僅かに音楽の名残を見せていた。そう、皆歳をとったのだ。それぞれの人生がある。
若い世代に託すしかない。ただ、その環境づくりは何歳になっても誰にでもできることだ。
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末広町・佐藤邸の玄関。何という玄関ドアの素敵な色褪せ方だろうか。玄関が素敵であると建物全部良く見えてくるから不思議です。もちろん、全体的にもシンプルなデザインで私は好きであります。(伝統的建造物)
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日和坂の邸宅。私の自宅もそうだが、坂上にある建物は港が建物の北に位置するにも拘らず、窓を大きくとってある。寒さより眺望を選んだのでしょう。そのお陰で我が家もとても寒いのですが。
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函館市文学館(旧ジャックス本店、その前は第一銀行函館支店、景観形成指定建築物)の通用口附近。まるで寺院の庭園のような配置でアプローチや樹木がある。このドアと玄関灯もまたいいですね。
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高田印刷(旧金森回生堂)のショーウィンドウ。これを見ると誰でもほのぼのとしてしまう。こんな素敵な演出をしてくれるのも、西部地区の人の「粋」だ。

<おまけ>
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弥生町の「アンジェリック ヴォヤージュ」。ここの人気商品であるショコラ・ヴォヤージュは午後になると(あるいはそれ以前に)売り切れの貼り紙がしてある。徒歩4分の近所なのだが、そのせいだけではないが、まだ食べたことがない。
そして、この店から弥生小学校へと続く光景はもう見ることができなくなる。
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函館船具合資会社と古建築物。

本日ハコダテ150+の「スタッフ日記」にこの頃恒例となった散策録を投稿したが、ここではマニアチック過ぎて掲載しなかった(後編もあるので、掲載しないであろう)建物写真を紹介する。
まず最初に上の写真。何ともない建物写真に見えるが、関根要太郎研究室@はこだてによると、左の会社は近くにある高田印刷(旧金森回生堂、金森グループの一店舗)と同時期に建てられたのではないかというものらしい。(その記述はコメント欄にある。私とのコメントのやりとりの中)もし、そうだとしたらこの建物は大正時代のものだということになる。因みにここの2階には同級生が住んでおり、今度会えたら是非確認してみたいと思っている。
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はせストの裏側。ここは昔ある会社の倉庫だった記憶があるが、ご覧のように蔦が覆っている。そして連鎖するように裏側の建物(北方歴史資料館)も蔦で覆われている。
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函館ビアホール裏にある駐車場から撮影。蕎麦だいにんぐCOCOLOの看板と函館海産商同業協同組合(関根要太郎設計)の建物が見事にマッチしている。
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十字街の隆盛の面影を残す建物群。手前(切れている建物)から竹田洋品店、2棟続けて本郷計測機、大二物産(旧金森三星堂)と続く。旧金森三星堂は、150+の記事で金森三星屋商店となっている看板を紹介した。どのようないきさつでそうなったかを今後機会があったら調査したい。
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十字街の浜崎質店の屋根部分。あまりに見事な彫刻模様と屋根支えの造り方だ。

このマニア編、多分明日も続くと思う。
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入舟漁港の防波堤。明治時代に造られたものだ。小学生の頃このすぐ近くに住んでいたことがあったが、単なる古い堤防としか思っていなかった。

よく市民は自分が住んでいる函館という街の歴史を知らないと言われる。かの私のその一人である。30代後半から興味を持ち、少しずつ知ってはきたが多くの人物の物語やその人物と市歴の変遷との関連性などは、恐らく幼稚園児並みの知識しかないだろう。

どうしてこんなに国内的にも重要な歴史を持つ街のことを我々はちっとも知らないのか?

単純に考えると学校教育現場の歴史認識の低さと推測することができる。
学校教育といえばもちろん教育委員会である。今3工区解体工事が実施されている弥生小学校を解体決定とした「立役者」だ。また、文化財保護法による伝統的建造物群保存地区内の伝統的建造物を所管するのが同会であり、保護どころか、一部の者のために融通を利かして破壊を進めていると言われても仕方ない疑惑の行為が幾つか見受けられる。

教育委員会がそんな体たらくであるのだから、教育機関には期待できない。もし、子供に歴史を教えたとしても、子供から「何で西部地区の大切な建物がいっぱい壊されたの?」という素朴な質問に、それは自分たちがやったとはまさか答えられないだろうから、都合が悪いものには蓋をするに限る。

しかし、考えてみると、私の子供の頃にもあまり函館の歴史を学校で学んだという記憶はない。これは想像だが、その頃(昭和30年代から40年代)の函館は観光以外の産業で潤っており、歴史を軽んじていたのだと思う。調査していないのでこれも想像だが、恐らくその時期(高度経済成長と同時期)にはかなり多数の歴史的価値のある建物が壊されたのではないかと思う。
そしてバブル。歴史的価値なんかくそくらえ、金が全ての時代だ。金に換算されない歴史など意味のない時代だった。
こんな風に歴史よりその時に金になることの方が大切だという風潮が函館の「歴史」なのではなかろうか。だから子供に教えるなんて考えも付かなかったのではないか。

チャンスはあった。北洋漁業・造船が衰退し、観光に市の主産業を移行しなければならなかった時だ。この時に市民総ぐるみで歴史を勉強しようという意識が高まって子供の教育まで波及していたら、相馬哲平氏の名を知らないという若者はもっと少なくなっていただろう。日魯漁業、何それ?と言う者もいないだろう。
市は大きなチャンスを失ったのだ。

話は変わるが、私が相馬哲平氏の名を知ったのは、小学時代の同級生との会話からだった。たまたま相馬邸(当時)の近くを歩いていた時、「相馬哲平って、函館にいっぱい寄付して名誉市民になった偉い人なんだぞ」と同級生が教えてくれた。
この時の会話があったから、私の頭の中には相馬哲平氏が見事にインプットされた。もっとも、その頃は哲平氏が今も生きていると勘違いしていたのだから大したことはないが。

その同級生が自分で歴史を学んだとは思えない。恐らく親か祖父母からの伝授であろうと思う。
そうだ、大切なのはこれだ。親が教えなければならないのだ。行政に期待してはならない。もちろん文献等の資料類はしっかり収集してもらいたいが、まずは親が教えるしかない。そして子供が関心を抱いたら、図書館や博物館や文学館等に行って調べればいい。

と、名案が思い付いたのはいいが、ここで大きな問題が行く手を遮っている。
その親が函館の歴史を全く知らなかったらどうするのだ、という問題だ。もうこれは、私たち函館の社会を形成している者たちの責任として様々な活動や、職場での会話、という地道な活動に頼るしかない。
ちなみに私は小さな子供がいる後輩に、昼の函館山からの風景を子供に見せたらどうかと勧めた。そこから見える街の風景は、函館山の近くにある建物が古く、奥に行くにしたがって新しくなるということを知るだろう。そんな簡単なことからでもいい。何かを始めなければ何も始まらないのだから。
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常盤坂下・橋谷邸。この邸宅はこの角度の写真が一番映える。

昨日、市内のある場所で一日中仕事をしていたのだが、その周辺にクローバーの花が満開。
アレジー体質である私ではあるが、まさかクローバーの花粉にも反応するとは・・・。鼻水が、かんでもかんでも次々出て、ティッシュ一箱を空にしそうな勢いだった。おまけに体内では全身に炎症を起こしたような熱さとだるさ、筋肉の痛みが重なって、なるべく早めに帰宅してスーツに着いた花粉を掃除機で吸い取り、すぐさまシャワーを浴びて多少症状を抑えることができた。

だが、今朝起きてみると後遺症か、まだ全身がだるい。頭がボーとしている。(それはいつものことだが)そんな後遺症も昼頃には何とかおさまった時、今度は北斗市某所に所用で行くとそこにはまた鮮やかなクローバーの花が咲き乱れている。間もなく体は反応し、熱の上昇、つまり炎症が始まった。

対策として、そんなに暑くもないのに車のエアコンを着け、少しでも体温を下げるのとともに窓を開けないようにした。
この炎症は体を破壊する。ハードな仕事をしていないくても相当な疲労感がある。花粉症に縁のない方には、風をひいて熱と鼻水とくしゃみとだるさと全身の筋肉の痛みが同時に起きていると言えば、その状態を多少理解していただけると思う。
それにしても、可愛い姿をして何と攻撃的な植物であろうか、クローバーは。

そんなわけで、ボーとしている頭でできることは写真を貼り付けることぐらいであるため、最近ハコダテ150+にて毎週リポートしている西部地区散策で撮った写真で未公開だったものを掲載します。手抜きと言われてもその通りだから反論のしようがない。
だが、少しは楽しんでいただけると思う。
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大町の袋小路の長屋。
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弥生町の古民家。
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高龍寺の山門。
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大町の古民家。
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再び、東 豊司氏。彼はこのように買ってくれた絵の額裏に記念の文字を書いてくれる。
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はこだて工芸舎(旧岡本邸)

昨日に続き元町の邸宅を写真でご紹介したが、いつもコメントをいただくayrton氏が内部の写真を時折自分のブログで紹介している。はこだて工芸舎のディスプレイが功を奏してか、元々お洒落である建物がよりその良さを際立たせている。
因みに、この建物からは坂下側に昨日紹介したプレーリーハウスを見下ろすことができ、何とも贅沢な環境にあるのかとうらやましくなってくる。

話は変わるが、この歳になると(正確には早や40代からであるが)カラオケに行っても昔の歌ばかり歌う。どこにでもよくいるオヤジに完全になってしまっている。まだ40歳そこそこの頃は、当時の若者で流行っている曲にもチャレンジを試みるあがきをみせたが、今では諦めの境地に至っている。
だが、オヤジの意地として、今でもいいものを判別する感性だけはまだ残っているとつまらない自信を持っているつもりである。かといって何でも迎合するわけではない。これなら昔の方が良かったと自分で自信を持つことができる事柄であれば、若者に対しても堂々と偉そうに話すこともある。ところが、自信を持てないことにはちょっと困ってしまう。
例えばツィッターである。自分なりにちツィッターの長所短所を整理しているつもりだが、どこか頼りない。これについて何かを話すのをもう少し待って様子を見ようというスタンスにいる。だが、そうしている間にも時は確実に過ぎている。まだ現役の社会人であるからには、この迷いは困ったものである。

そこで過去にあったある話をご紹介しよう。トヨタの話だ。

1990年代、トヨタは勿論日本最大の自動車会社であった。が、ホンダのシェアが伸び、トヨタは減少していた。理由は明らかだった。デザインがつまらなかったのだ。確かに性能はいいだろう。トヨタだからそれはきっとそうに決まっている。誰も疑いはしない。だが、何かつまらなかった。その車を運転してみたいという「ワクワク感」が感じられなかった。
ちょうどそんな時、トヨタ社内にあるカーデザイナーがいた。彼は斬新なデザインを幾度も提案していたが一向に採用されなかった。クリエイティブな仕事をしている者にとってこれほど辛いことはない。
そこで彼はある車のデザインを造り、もしこれが採用されなかったら退職して知人のデザイン会社に転職しようと考えていた。その作品を見た役員たちは迷った。そのデザインがいいのかどうなのか全然判断がつかなかった。
最後は当時の社長であった奥田碩氏の「年寄りが考えてわからないことは若い人に任せよう」の一言で決着がついた。このようにして誕生したのがトヨタbBであった。

私もbBが発売された時のことはよく覚えている。「えっ!これがあのトヨタ?」と驚いたものだった。すでにヴィッツが発売され、僅かだがデザインの変革路線ができつつあったとはいえ、当時のトヨタのイメージを大きく塗り変えるサプライズだった。
このbBは若者に受け入れられ、トヨタのシェアは回復した。そしてつい最近のリコール問題が発生するまでの世界一の自動車メーカーへの快進撃が始まったのであった。

残念ながら二十間坂の自由の女神像にはこのようなサプライズはなかった。私にもそのくらいの判断力はあるつもりだ。だが、本当に迷ったら私も若い人に任せよう。