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グリル南部坂。

この記事を執筆している今、外は雷雨。断続的に雷が光り雨が降り続けている。
強い雨の音と光景を見て、12年前を思い出した。1998年8月26日から約1週間に亘り栃木県と福島県で降り続いた集中豪雨だ。
まさしくちょうどその時、私は当時の仕事の出張で郡山市を拠点として滞在していた。正確に言うと、豪雨が始まった前日に郡山に入り、仕事を開始した当日から豪雨が始まった。
その雨はひどかった。出張で使用した車が軽自動車だったせいもあるが、豪雨の中を走ると、雨が車の屋根を叩きつける音だけが周りにあり、エンジン音は全くと言ってもいいほど聞こえて来なかった。ワイパーを最速にしても前方の状態が認知できるのは一瞬だった。その一瞬で状況判断し、後は勘で運転するしかなかった。道路のあちこちに川ができ、まるでオフロードを走っているかのように思える箇所もあった。
また、白河市の国道の谷地の部分に溜まっていた雨水で、生まれて初めて車の半分近くの高さまで水に浸かって運転するという経験もした。

まさしく人生で初めて体験した「豪雨」だった。その豪雨が一日中続き僅かな小康状態を挟み1週間続いた。

夜には雷が轟いた。その音と光で寝付くことができず、ずっとホテルの窓から延々と続く雷光を見ていた。2時間見続け根負けして寝た。
被害は甚大だった。国道を走って郊外に抜けると、低地では車が流され木でやっと横倒しで止まっている箇所が幾つかあった。色々なものが正規の並び方になっていなかった。まるで、テーブルの上にある物を掴み上げ、手を離してバラバラに落ちたままの状態そのもののようだった。様々な物が「あるべき場所」になかった。

この豪雨で福島県内で11人、栃木県内で7人の死者・行方不明者が出た。本日の最も強い雨が1週間も続いたのだからそのような被害が出たとしても不思議ではない、現地にいた私にはそう思える。

私の悲劇的な「事件」を体験したのはこれだけではない。長崎県雲仙普賢岳の火砕流だ。
普賢岳が噴火したのは1990年11月で、私が訪れたのが1997年だから災害から7年後だったのだが、現地を見るとつい1年前に起きたかに思えるほど生々しかった。山麓の復旧された道路を走ると、突然一面に石や岩しかない風景が拡がった。本当にそれしかないのだ。7年も経ったのだから生命力逞しい草などが生えていてもいいものだが、それもなかった。

そこには生命が発する「気配」というものが全くなかったのだ。

そして目を凝らすと、瓦屋根の先端の一部分が見えた。つまり、家のその他の部分は全て火砕流に呑み込まれたということだ。地獄とはこのことを言うのだ、とその時思った。

転勤で新潟県三条市に赴いた時、市内はその事件の渦中にあった。
柏崎市内の男が当時19歳の女性を10年前から自宅に監禁していたという事件だ。記憶に残っている方も多いであろう。その女性の自宅が三条市だったことから、三条警察署にはTV中継車が何台も並んでいた。

好奇心から、柏崎市に行った時、犯行現場となった犯人の自宅を見に行った。そこは柏崎でも小洒落た閑静な住宅街の一角にあった。犯人宅のすぐ近くにはテニスコートもあり、何もなければ誰もが静かな生活を楽しむことができる環境にある住宅街だ。
犯人宅にはTvで見たように窓を塞いでいる箇所があった。そこが10年間も少女が誘拐監禁された部屋なのかと思うと胸が詰まった。信じられない悲劇が何日か前までそこで実際に起きていたのだ。

三条市での勤務では近隣の長岡市に仕事でよく行った。その隣の小千谷市にも幾度となく行った。そのために使った道が、あの2004年10月23日に発生した中越地震での崖崩れで寸断され、埋没されていた車のすぐ傍から2歳の男児が救出された現場となった道だ。母親と娘は惜しくも亡くなっていた。
当時私は札幌におり、TVで被害の様子を舐めるように見た。自分の知っている場所の被災が数多く映し出された。その度涙を堪えていた。あんなのどかで平和な地方が惨憺たる状態になっているのを見るのは辛い。そこにいる新潟県人の落胆振りが目に浮かんでくる。純朴な人が多い地方だからこそ、何でそこでそんな災害が、という無念さを噛み締めた。
地震の翌日、赴任当時の知人へ電話した。長岡市内の者だった。概ね長岡は大きな被害はなかったが、隣の小千谷市がひどかったそうだ。

記事を書いているうちに雨はすっかり止み、再び蒸し暑さが襲って来た。

ある時、私は悲劇を見なければならない役目があるのだろうか、と思ったことがある。
思い過ごしかもしれないが、もし、それが本当に私の役目なのならこれからもしっかり目に焼き付けておこうと思う。世の中には楽しさもたくさんあるが、その分だけ悲劇もある。世の中は常に相対的に存在するのだから、その双方を見ることは、この世に生きる人間の役目でもあるはずだ。
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三日月工房特製の椅子。店主が自分で木材を切り作製したそうだ。

私は元来ギャラリーと名の付くところは苦手だった。どうも気取って中を見なければならない気がしてならなかった。
だから、三日月工房が自宅のすぐ近所にオープンしても、ひとりよがりの意味で敷居が高かった。中に入ると気難しそうな店主がいて、人の値踏みをする、そんなイメージがギャラリーと名の付く店にあったのだ。だが、意を決して先日入店してみると、経営しているご夫婦の気さくなお人柄に、元来の私のずうずうしさがいともあっさり顔を出し、さも何度も来ている常連か何かのようにずけずけと話をしてしまった。

そんな無礼な客を若いご夫婦は優しく受け入れてくれた。
その後、丹野さんの作品の撮影に場所を提供してくれたり、本来生のまま販売するはずだったとうもろこしを茹でて食べさせてもらったりと、明らかなこちらの我儘を快く呑み込んでくれた。
本当にご夫妻には感謝している。

また、偶然だとは思うが、茹でとうもろこしを店内で食するという行為を、これは使えると思ったのか、すぐさまにツイートして告知をされた時は、私の思い上がりかもしれないが、結果的にとうもろこしの販売方法を変えることとなったのだったとしたら、とても素敵な面白い関係ができたのかなという気がした。

客とお店が刺激しあう。とてもいいことだと思う。
かと言って、私は店内で喋っているばかりではない。喫茶コーナーで本を読みながらゆっくりととたひと時を満喫している。少し暗めの店内はとても落ち着く。そこで本を読んでいると、高校時代に行ったジャズ喫茶を思い出す。心地良いひとときである。

ご夫婦には申し訳ないが、これからずうずうしい顔をしてくつろぐスペースとして利用させていただくことになるかもしれない。

今回の写真ははっきり言ってピンボケだが、そのおかげで結果的に三日月工房が持つ温かさを表現できたかもしれないと思っている。
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乃木町 Peche Mignon にて

二十間坂の女神さんの問題のファーストステージが終了したと思ったら、今度は特別史跡五稜郭内に先日オープンした箱館奉行所(復元)の絶好の通行・鑑賞場所に貸衣装付帯サービス付きの写真屋が陣取って営業しているという問題が発覚した。

その場所は奉行所に向かい、入場客が記念撮影をしようと思うと嫌でもカメラにおさまってしまうという場所にあった。だが、先日市の指導により2mほど後退し、「絶好の角度」からは若干外れることになった。

事の顛末を非常に簡潔に記すと上記の通りだ。
個人的な感想としては、先般の二十間坂よりは問題となる「相手」に対しては、それ程腹が立ってこない。なぜなら、この写真屋は殆ど個人か個人に近い業者であるため、市全体に与える影響が大きくないことと、問題となった設備が容易に移動可能であるため、「おい、ちゃんとやれよ」と話せば何とかなりそうな問題として捉えられたからだ。
業者からすると、公会堂などでも貸衣装をまとって記念撮影をしているのだから、ここでやってもいいだろうという考えだったのかもしれない。どうしてここだけ駄目なのか?と思うのも無理はない。また、その衣装も見るからに安価で、公会堂に比べるとはるかに見劣りするものだが、零細業者に一着何百万円もする立派な衣装を用意するのも無理がある。
だから個人的にはこの業者を強く批判しても仕方ないのではないか、というより大きな問題は市の方にあるのだからそちらに注意を向けるべきだというのが私の考えだ。

正直言ってこの奉行所、一刻も早く行って見たいとは思っていなかったし、実はまだ見学に行っていない。
昨年、工事途中での報道を見た時は強い関心があったのだが、完成して関係者の公開前内部見学をした感想を聞いてのに加え、この建物に是非行きたいというモチベーションをつけてくれる付加価値、例えば箱館奉行所が持っている歴史的役割をフューチャーするものなどがなく、ただ27億円もかけて作った立派な建物であるという以外に行く意味を見い出すことができなかった。
だから、まぁ気が向いたらという程度でしかの関心しか持てなかったのが事実である。だからと言って、見もしないのにあれこれ言うのは確かに間違っている。上述の写真屋の件も、報道されている写真や関係者からの話を基にしたものである。それ故、大きな声をあげて言うべきことではないと心得てはいるつもりである。

だが、これだけは確かに言える。
函館の歴史に関心がある私が、是非現地に行って歴史を確かめ、楽しみ、当時に思いを馳せ、タイムトリップしたかのような感傷に浸れるとは思えないような、事業主である市のトータルプロデュースの拙さが目立つ企画なのである。
そのひとつが今回露出されたということだ。公会堂で好評を博している、当時の衣装を纏っての記念撮影を建物内部の一角を使用して、極上とまではいかなくても、そこそこの衣装を市が用意すれば済んだ話だ。
もっとも、お茶や土産を取り扱っている休息所が奉行所から離れて設置されているため、写真屋を所内に入れると、これはこれでまた問題となるだろう。

結局、プロデューサーである市の企画力不足であることは歪めない。ただ立派な建物を建てることだけが有意義な目的であって、それを見た者へ強く函館の魅力を伝えようということは考えていなかった、と言われても仕方ないと思う。
これには、組織の縦割りが影響しているとの指摘もある。我々民間会社にはそんなものは通用しない。どこの部署の対応が悪くとも、不備があったら会社として謝罪・対応しなければならないのが常識だ。それを怠ると、世間からの評価が下がり、行く末は倒産ということになるのが常だ。
そのような感覚がなく、他部署のことだから関わらないでいるのが自分のため、という意識が東雲町全体にあるのなら、本来なら倒産して然るべき団体を我々の税金で何とか存続させているのも同然である。

以前戸切地陣屋跡を訪れた時、現地に「実際にあった詰所の場所」を示す境界線のようなものを見た。私はその中に入り、当時はこんなに狭い所で警備役が待機していたのか、と当時の様子を想像してみた。建物は復元されていなくても、「実際にあった場所で実際にあった小屋・詰所」の輪郭に触れることができたことにとても満足した。
果たして、奉行所の見学をした時、戸切地陣屋跡と同等の想いを持つことができるだろうか?いや、27億もかけたのだから、戸切地陣屋跡以上でなければならないはずだ。

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入舟漁港にて。

北海道や本州の内陸部からやって来た人は、海に三方を囲まれている函館を素晴しいという。そう言われるのも悪くない。日常の中で海を見ることのできない人には、ある意味憧れでもあるのだ。だから、旅行客や移住者の方々には、どうぞゆっくりと潮風に吹かれてくださいと案内する。

だが、この街に生まれ育った者にとって、海は通り道の背景であり、生活の場であり、仕事の場でもあり、遊んだりくつろいだりする場である。

本日ご紹介する海は、きっと函館市民にはそのどれかに当てはまる海であろう。

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中央埠頭。
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外人墓地近く。
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緑の島。
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リボンで作られたハンドメイドフラワー。丹崎真由子さん作。旧英国領事館にて。

ここ1ヶ月、いわゆるカルチャーショックを受けている。といっても、とてもいい意味でだ。
そのきっかけを作ってくれたのが、東京から長期滞在した阿形佳代さんであることは間違いない。

私もいつしか文化的なの創造物は、雑誌や美術館などで見るものばかりと自分の中での位置づけになってしまっていた。だが、日常的に「文化に接しているか?」と言われたら決してそうではなかったと思う。
まるで著名な作家や高尚なものを鑑賞することが文化に接しているかのように思い違いしていたと思う。

思えば10代の頃、芸術家は身近にたくさんいた。ミュージシャンは勿論のこと、銅線を曲げたアクセサリー作家、劇団に所属しながら詩を作っていた人、絵を描きながらロックボーカルをやっていた者。そのような人々に触発されながら、自分もギターを弾き、詩を書き、小説を書いていた。
文化は飯を食べるのと同じくらい日常的な身近にあった。

作品は手に取って見た時に一番その力を感じる。作品を作った者の傍に寄り、「ちょっと見せてください」と間近で見ると、作者と作品から何かを感じさせてくれるものだ。雑誌の写真でどんなに上手に美しく紹介されていても、実物には決して敵わない。
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阿形佳代さんの作品。

阿形佳代さんは東京では幾つもギャラリーでの展示の他、東急百貨店本店でも個展を開催されたほどの人であるが、私にとっては、彼女と話をしながら作った工芸品を手に取って見せてもらうのがとても楽しい。そして親しみを感じる。
同じように、丹崎真由子さんの作品の撮影会も、とても心がうきうきした。自らの作品を真剣な眼差しで並べている彼女を見ていると、それだけで何とも言えない力を感じてしまう。背景と作品がぴったりマッチした時、彼女は子供のように大喜びし、一緒に並べ方を考えた自分もまるでその空間が共同作品であったかのような、作った彼女には大変失礼な錯覚を覚えてしまった。

丹崎さんの作品が写真撮影されたのは始めてであったという。私はハンドメイドフラワーのみならず、もともと彼女の専門分野であるラッピングという、日常的には注目されずに当り前のように取り扱われているものを追求している彼女が気になり、声を掛けた。
ちょっと目を凝らして周りを見ると、このような素敵なものを作っている人はいるのだ。今後、そのような「素敵な感性を伝えてくれる」人に出会ったら、私ができる範囲でどんどん紹介していきたい。そして、それを見た方は作品を手に取り、肌で作者の感性を感じ取ってほしいと思っている。

阿形佳代さんは来年函館に移住してくるという。函館には文化が次々と生み出される土壌があるのだ。感性のある人は函館のそこに惹かれる。だから、建物のみならず文化全般も廃れさせてはいけない。埋もれている素晴しいものを作る人はまだたまだいるはずだ。
昨日は久々の完全休養日。そして、午後から創作活動をしている方々にお会いしました。
昼から、「アーティスト・アーティスト」で知った丹崎真由子さんと会い、旧英国領事館の喫茶室や屋外などを使い、その後は弥生町の三日月工房さんへ行き彼女のハンドメイドフラワーの撮影。明治時代の古くて素敵な室内に可憐な華が彩られ、普段とちょっと違った三日月工房さんの店内(一部特別に階段上なども使用させていただきました)に、私も丹崎さんも三日月工房さんも大興奮。
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作品の飾り付け中の丹崎さん。

そして、その作品の一部が三日月工房さんに展示販売されることになりました。
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丹崎真由子さんは、函館生まれの函館育ちですが、ご結婚のため森町に移住。慌ただしい函館の生活を離れ、静かに外から函館を眺めると、改めて函館の、特に西部地区の素晴しさがわかったと仰っていました。
その気持ちで作った作品が、同じく西部地区の良さを醸し出している三日月工房さんの店内の雰囲気とマッチしたのでしょうね。

今回の撮影の詳細は、後日このブログとハコダテ150+でご紹介したいと予定しています。

夜は、もうすぐ函館を離れる阿形佳代さんの滞在先にお邪魔し、東京から来られた友人家族と一緒に夕食をいただきました。色々話をするうちに、阿形さんが多くの著名な文学作家の作品に影響を与えたことを知りました。
これは、恐らくブログ等では決して明かさないと思います。(笑)
東京から来られた友人のご主人は元銀行マンだったそうですが、阿形さんはそれを全く知らなかったそうです。そういう肩書きなどで人間を見ないところが、彼女の素晴しさのひとつであります。

さて、ちょっと忙しい休日でしたが、充実と楽しさを満喫できた一日を過ごしリフレッシュできたような気がします。気温もちょっと下がり、今晩から普通のブログを再開しようと思います。コメントにもお返事させていただきます。
久々にGeorge Winstonを聴きました。彼の代表曲です。懐かしいですね。
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重みのある雨戸が見える玄関。船見町にて。

個人的なことで大変恐縮です。
昨日今日とブログ投稿画面を開いて見ていても、頭が空っぽになっております。日中はそれなりに仕事で活動しておりますが、帰宅後に疲れが一挙に出てきており、特に真摯にコメントを寄稿していただいた方へのお返事が滞ってしまっています。

私のブログの性質上、真面目に考えてコメントされる方が多く、そのご返答も常に真面目に行うことにしていますが、ここ一両日はそれができない、つまり、元々活発ではない頭脳がより動かなくなっており、その状態でお答えのコメントをするのは大変失礼にあたると思っております。

昨日ブログを更新しなくとも、普段と同じくらいの数の方々に訪問していただいており、大変感謝しております。これほどの方に見ていただいているのならなおのこと、真面目に記事とコメントを記述しなくてはならないため、きちんとした状態で発信できるよう疲労回復に努めますのでどうぞもう少しお待ちくださいますようお願い致します。
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二十間坂店舗前で待ち構える報道陣。

<函館市>
前回の記事で、市は女神像設置後珍しく迅速に動いたと述べた。これは役所仕事にしてはということであって、決して的確だったというわけではない。なぜなら、北村水産の店舗前に像が置かれ、市民が騒いだ時はまだ女神像は単なる「大きな置物」だった。その後2~3日以内に台座をコンクリートで固め、「固定物」にしてしまった。
この、固定物にする前に市が動いて作業をストップさせていたら、事態は違った方向に展開していたかもしれない。また、撤去まで2ヵ月半以上という時間を要しなかったかもしれない。だが、市はまるで固定物にして完全に景観条例違反になるのを待っていたかのように思える。
また、迅速に動いたと書いたが、違う情報ではこの建物の外観について北村水産側と市が何度もやり取りを繰り返したという。つまり、市はあそこはまずいのに結局認めてしまったという後ろめたさを最初から持っており、市民が騒ぎ出して「やっぱり、これはまずい」と慌てたのかもしれない。

そう思うと初動が速かったことも評価に値しないわけだが、これは想像の域を脱しないため、いちおう最初はよくやったと言っておこう。
それからの市の対応はズタズタだった。初動といっても、単に指導する必要があるとのコメントだけで、正式に指導したのは設置してから3週間以上経った6月29日であった。その間や回答期限までの間に事態を収拾する動き、つまり北村水産と反対する市民団体との協議の場を何とか作ろうという痕跡をみることはなかった。

その間、ツイッターやブログ等での市民の反対意志表示は絶えなかった。それに呼応しない市に次第に疑問が浮上し始めた。そして、指導の回答期限が過ぎた7月13日、自由の女神像撤去要請の電子署名が始まると大きく事態が動き出した。
同15日に突如北村水産側が撤去を宣言したのだ。結局北村水産を動かしたのは市ではなく、市民だったのだ。それも市民団体という形のものではなく、ネットという新たな集合形態によってできたグループとそれを後押しする「声」だったのだ。

撤去宣言によって市は安心した。まるでもう問題は解決したかのような楽観さであった。その表れが、電子署名発起人が8月13日に名簿提出した時の市都市建設部長のコメントだろう。「もう女神の撤去は間違いなく実行されますよ」確かに撤去はされた。だが何とも他人事のようなコメントだろうか。当事者意識というものを感じない。
それが市長にも伝わったのか、撤去前日となった8月18日、突如として市は女神像の保管場所を確保したとの発言した。それも3ヶ月だけ無料でその後有償となる市内某所の倉庫だった。そして、撤去当日市は像の運搬用トラックを用意した。(写真下)
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だが、これに対し北村社長は拒否を表明。自ら用意したクレーンで自店舗の屋上に移設した。
最後までイニシアチヴが取れなかった市、まるで他人事という言葉以外は見当たらない
百戦錬磨の北村社長と世間知らずの市とでは、遥かに北村社長の方が一枚も二枚も上手だったということだ。なんとも「おそまつ」であった。

<市民団体・経済界>
これに関しては正直言って、本当にどのくらいの気持ちで反対したのか全く掴めない。彼らの声が聞こえなかった。6月25日に一部市民団体が問題勉強会を実施したが、出席した人から話を聞いたら、単に不平不満をぶつけただけで生産性はなかったとの評価だった。

そのように幾つもの反対する団体があったにも拘らず、市民に協力を訴えたり自分たちの考えを広めようという動きは先の勉強会以外の行動を私は耳にしなかった。少なからずわかっていることは、北村水産が撤去するまでは頑として話し合いには応じないとのことだった。その根底にある考えも噂以外で伝わることはなかった。

そして経済界も沈黙した。誰一人意思表明をする者はなかった。自分たちが業を営む拠点とし、居住し、生活し、子育てをし、そして死んでいくだろう街を騒がした問題に対し、何の一言もなかったのだ。
この街で生きていくためには、何も言わず、何も行わず、何も考えないことが必要なのだろうか?
そんなことを考えさせられてしまう市民団体や経済界の動きだった。

<最後に>
本シリーズの冒頭でも述べたように、この問題の最初のショーが終わっただけである。恐らく北村水産は第二第三のショーを企てているだろう。そう思っておくことの方が賢明である。
しかし、それは駆け引きの問題である。もっと大切な問題は、新聞2社が使った「景観問題が決着した」訳ではないのだ。だいたい西部地区の景観とは?という投げかけもしなければ、意識調査もしなければ、自らの考えも示していないのに、「景観問題が決着した」と軽々と言えるのだろうか?

私たちはこれを機に、もう一度函館にとっての「景観」とはいったい何なのか考える必要があると思う。勿論大部分ということは難しいだろうが、何らかの市民の意識レベルでのコンセンサスが必要とされるであろう。
それがなければ、巧みな「駆け引き」や利益優先主義によって次から次へと問題が発生することとなるであろう。商活動は悪ではない。現状の経済システムでは金がなければならないからだ。歴史的な建物を維持するにも金が要る。
最も大事なのは、金と歴史という、時には融合が困難な要素をきれいに溶け合せ、ひとつの景観という形で表現をする義務が函館にはあるということだ。そのためには市民と経済界と行政が同じ方向を向いていかなければならない。
また、今回の出来事でインターネットの力を再認識したこととなる。この伝達手段を持ち、発信している我々も常にこの街を注視しなければならないと感じたものだった。
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北村水産が用意したクレーン車と吊り上げられる前の女神像。

<記者と報道>
このことについては、前回一部を既に述べた。だが、本日の各紙の記事を読み、改めて報道について述べたいと思う。
まず、紙面を読んだのは購読の関係で北海道新聞のみとなったが、新聞各社のWeb上の記事は北海道新聞を含め全部で5社の記事を読んだ。(さすがに日経のWebには出てこなかった)
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TVの取材模様。

まず、この撤去で「景観論争に一応の決着」という表現を用いたのが北海道新聞と函館新聞であった。びっくりした。最も地元を重視しなければならないはずの地方紙が、撤去によって一応という但し書き的な表現はしているものの論争が決着したという言葉を使用するどんな意図があるのだろうか?地元だからこそ決着したことにしてしまいたいのだろうか?他の全国紙にこのような表現をしたものはない。
転勤が多いはずの全国紙の記者の方が、地元に密着しているはずの地方紙の記者よりも本質を知っているように思える。またもや、「地元だから」できない報道なのだったのだろうか?
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TVのワイドショーのリポートだろうか。

もうひとつ気になった点がある。「市の要請によって撤去された」との表現だ。
今回の出来事が発覚したのは、ハコダテ150+やブロガー等の市民が騒ぎ出し、その後市が動き出した。役所としてはびっくりするくらい初動は速かったが、その後は全てにおいて後手に回った。このことは後述する。
その他市民団体も動き出した。どちらかというと大きな声をあげたのは市民の方だったはずだ。その現状把握がされていない新聞社が函館新聞だったことは、これも残念でならない。
他紙は一応市民団体からの要望書が相次いだとの表現をしていた。
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さらに残念だったのは、各関係者の話を採用し記事にしたのが恐ろしく少なかったことだ。特に反対した市民団体の話を掲載したのは朝日新聞だけだった。社長の談話のみを掲載したのが道新、函館、読売だった。毎日はどちらも掲載しなかった。
おまけに毎日新聞は社長談として「像は撤去したのだから、もう騒ぎは終わり」と疲れたように話した、と書いているが、前回の記事で記したように、社長は私の隣で勢いよくカメラマンに「落書きを撮れ」指図していたのだ。疲れたのは、今回のショーがたいした売上につながらなかったからだと、私は意地悪く思ってしまう。

全体を見回して、バランスが取れた記事を発表したのは朝日新聞であった。朝日新聞は中立性のある関係者の取材をしていたように思える。だが、逆に社長のコメントが取れていなかった。
函館新聞は事の顛末について少し詳しく述べてくれた。女神像の保管場所の件だ。私にも市が市内某所に保管場所を探したとの情報が入って来た。だが、北村水産側はこれを断った。このことも後述する。

また、北海道新聞のWebページには『さらば「自由の女神像」 函館・二十間坂 市の要望受け撤去』と、まるで名残惜しむようなタイトルで記事が掲載されていた。やはり、北海道新聞の本心はこれなのだろうか。本紙ではまだ抑えた表現が成されていたが、結局こんなものなのか。

ちなみに、、某紙の記者が本件の事情通に社長はどんな話をしていたのか、と尋ねていたのを見た。事情通は多少の情報提供はしたが、最後には直接訊いてくればいいでしょう、と諭していたのが印象的だった。
記者としての観察力というものを今回の件を通してみた場合、「おそまつくん」が大勢いたような気がした。

次回は、函館市と市民団体についてと総括をしたいと思う。