<   2011年 02月 ( 29 )   > この月の画像一覧

a0158797_018432.jpg
枯木と函館山

子供の頃から何度聴いても飽きない曲がある。そしてその曲は、時代がどんなに変わってもいつもカッコイイ。私にとっての「カッコイイ曲」というのは、無意識のうちに感じていたダンディズムを刺激してくれるものばかりだ。なぜか小さな子供の頃からそのダンディズムには憧れるものがあった。そして、いい歳になった今でも、そのダンディズムには憧れる。

私にとっての刺激される曲というのは、「ルパン3世のテーマ」と「スターダスト・メモリー」と「夜が来る」だ。最後の曲名、何の曲かわからないという方もいるかもしれないが、下のYou Tubeのボタンをクリックしていただくと、流れてくるメロディーですぐわかるだろう。



そう、サントリーオールドのCMソングだ。
この曲ができてから何十年経つのかはわからない。だが、私が物心付いた時には、もう既にテレビで流れていたから45年以上前に作られたのは間違いない。

とにかくカッコイイ。そして、サントリーのCMは、コピーも心に残る。
若い方はご存じないかもしれないが、サントリーの広告部には後に作家として芥川賞を受賞した開高健と直木賞を受賞した山口瞳が在籍していた。曲がいい、コピーがいいとなれば、心と記憶に残らないわけがない。

「人間みな兄弟」
「人間らしくやりたいな」
「すこし愛して、ながく愛して」
「ウィスキーがお好きでしょう」
「恋は遠い日の花火ではない」
「何も足さない、何も引かない」

思い出しただけでこれだけの名コピーが甦ってきた。

どこかで酒を飲む時、これらのコピーを思い出せるような店が函館にはどれだけあるだろうか?

ちなみに、サントリーの前身は「寿屋」という会社だった。どこかのバーで「寿屋の洋酒を」なんて言って注文したらカッコイイのだが、ここまでくると人間の中身が伴っていないとなかなか言いづらいものがある。
それが言える男になりたいと、この歳になっても思うものだ。

*お詫び / 昨日もたくさんのコメントをいただきありがとうございます。いつもは記事を書いた後にこちらのコメントを書くのですが、現在深夜で「プレミアムモルツ」を飲みながら書いているため、真摯なお答えができません。明日、必ずコメントさせていただきたいと思いますので、どうかご了承ください。


いつもお読みいただきありがとうございます。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_21384038.jpg

やっぱり戻って来たのですね、女神様。
あなたがずっと屋上にいらっしゃるとは思っていなかったですもの。必ずまた私達の目の前に現れると思っていましたわ。
だって、秋にお目かけしてた時に、あなた、もうブルーシートを外していらっしゃったですもの。きっとこの日が来ると信じて疑わなかったものです。

私、思わずツイッターでつぶやいてみたのですが、世間って鈍感ね。誰も反応しなかったわ。あなたは密かに下に降りようとしていたのでしょうが、私は騙されないわよ。ふっふっ。

でも、まさか昨日をその日に選んだとは。皆様が給料をもらって少し浮かれている時を選ぶなんて、さすがですね。そこまで予想はできなかったわ。知らせを聞いて、今晩早速お会いしに行きました。
a0158797_21502264.jpg

まぁ、何てむごいお姿なのでしょう。女神様がこんなお姿のまま、横たわっているなんて夢にも思いもしなかった。ついつい私、頭の上から写真を撮ってしまったの。

えっ、きれいに撮れていない?ごめんなさい、久し振りの再会だったから興奮しちゃったのかしら。でも、こうやって拝見すると、女神様ってウルトラマンみたいね。シュワッチ!
あら、私としたことがはしたない。失礼。
a0158797_21563161.jpg

反対側に回ったら、女神様、何とお寂しいお姿!下から覗くなんて下品だとはわかっていたのですが、こんな時でなければ、もう一生見れないかと思って、清水寺から飛び降りるつもりで撮影しましたの。

女神様って、やっぱり芯があるのね。道理で強いと思っていました。
でも、これからどうなさるのですか?また、この場所で私達を魅了するのでしょうか?
でも、ちょっと気になったのが、女神様。私があなたを撮影していた時に、何人かの観光客がいらっしゃったのですが、誰もあなたを見ていなくてよ。

どうなさるのですか、女神様?
また私達を悩ませてくれるのでしょうか。それとも・・・・。
またあなたのことが毎日気になる日々が始まるのでしょうか?


いつもお読みいただきありがとうございます。是非クリックお願いいたします。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_23505079.jpg
十字街・銀座通りにある蕎麦店「天満つ」のベンチ。

「函館の写真」ってどんな写真?と訊かれて、あなたは何を写した写真を思い浮かべるだろうか?

基坂や大三坂や八幡坂や二十間坂などの有名どころの坂や、三つの教会、公会堂や旧ロシア領事館・旧英国領事館、明治館・金森レンガ倉庫群、旧丸井今井(現まちセン)、路面電車、などなど色々あるだろう。
もちろんそれも函館の一部だ。
また、寂れた無名の古民家などもけっこう人気がある。港町ならではの海の風景もいい。これらはもう函館の写真の定番である。観光客はそれら全部ではないだろうが、必ずどれかを撮る可能性は非常に高い。もちろん、私もそれらを日常的に撮っている。

だが、撮影する者としての面白い心理が実はある。例えば、今日は綺麗な写真を撮りたいと思うと、自然と元町やベイエリアなどの「有名どころ」に足が向いてしまうのだ。それは結局、元からある素材に頼ってしまっている自分がいるということだ。
だが、それでも元来ひねくれ者の私は、まともには撮らない。地元民でなければわからない角度、何度もその場所に行かなければ見つけることのできない角度で写真を撮ろうとする。これも自分が撮りたい写真のひとつである。

先日、元町公園でぶらぶらと何か撮ろうとしていたら、何組かの観光客が公会堂の前で記念撮影をしていたのを見た。皆なぜか公会堂の正面玄関を背に、同じような位置に立っていた。これは仕方ない。私がもし函館に初めて来た観光客であったら、同じように撮影していたと思う。短い時間にどこがいいポイントかなんてそうそうわかるものではない。
だから、同じものを撮っても、何度もウロウロしている人間の方がちょっと変わった表情の風景を撮ることができるのだ。これはこれでこれからもまた見つけて行きたい。

だが、理想は古く寂れた建物などを「有名どころ」と同じくらい綺麗に撮りたい、というものだ。これは本当に難しい。多分この道何十年の方でも難しいのではと想像する。なぜなら、美しい函館の風景写真は、どれも同じような場所で撮られているからだ。例えば、弁天町の狭い小路の寂れた長屋を美しく撮った写真はまだ見たことがない。やはり素材として困難なのだろう。
だが、それを美しく撮ることができたなら、私は大きな満足感をえることができると思う。もちろん、まだ駆け出しの人間には、神様はそうそう簡単には撮らせてくれはしないと思うが、こっちもそう簡単には諦めはしない。あと何万枚もの失敗を重ねてもいいから撮ってみたいと思う。

そしてもうひとつは、冒頭の写真のような、何気ないありふれた風景だ。これもまた函館の写真である。人々が作った、普通の文化の集積もまた函館の写真となりうる。けっこうこれは大事だ。街の写真は文化の写真でもあるからだ。

結局のところ、何でも撮りたいということだ。節操がないだけだ。

この頃、函館の風景はデジカメではなく、フィルムで撮った方が似合っているような気がしてならない。函館は都会的ではない、ある意味では柔らかい街なのだから、アナログが合っているような気になっている。これは、一眼レフがフィルム式しか所有していない者のひがみなのだろうか。


いつもお読みいただきありがとうございます。そして、いつもながらクリックをお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_0574825.jpg




a0158797_0583913.jpg



いつもお読みいただきありがとうございます。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_23202338.jpg
弁天町の蔵の扉。

最近に本ブログをご覧になった方は、どうしていきなり(7)なのかと思うかもしれないが、実はこのブログを開始した昨年1月に(6)までをシリーズで掲載していたからだ。
その時はそれで一区切りしたのだったが、今回起きたニュージーランドの地震で、弥生小学校在学時代に経験した十勝沖地震を思い出したため、こじつけのような第7編目のような形でその時の模様を話そうと思う。

地震が発生したのは、1968年5月16日午前9時48分であった。震源地、襟裳岬東南東沖120km 、震源の深さ0km、M7.9、函館の震度5(当時)という内容だ。

この時のことは40年以上経った今でもよく覚えている。ちょうど体育の授業が終わり、教室に戻り、着用していた紅白の帽子を脱ぎ、黒板横の帽子掛けに掛けたその時、教室入口の扉が「バン」と鳴った。誰もが何の音だと思った。すかさずある生徒が、「誰よ、戸を蹴っ飛ばしたのは」と叫んだ。その次の瞬間、下から突き上げるような激しい縦揺れが始まった。

「キャー!」という女生徒の叫び声の中、横揺れも混じり、体が時計の針の様にぐるぐる振り回された。もちろん立ってはいられない。どこにしがみついたかは覚えていないが、何かに掴まり、恐怖の中必死に耐えたのは覚えている。
揺れは次第に収まっていったが、いったいこの世の中で何が起きたのか、全くわからない放心状態になっていた。そのうち、女生徒の誰かが恐怖からか泣き始めた。教室全体を眺めると、机の下にいる者、壁にへばりついて動けなくなった者など、普通では見られない動作を皆していた。

少ししてから担任教師が駆けつけ、私達は指示に従って校庭に移動させられた。建物の崩壊があって負傷してはならぬとの措置であった。当初、避難だけかと思ったが、そのうち校長先生がやって来て、緊急の全校集会と化し、その日は授業を打ち切って集団下校することとなった。
今思うと、校舎の安全確認と保護者への配慮でそうしたのではないかと思う。普段では授業が早く終わるとウキウキして何をして遊ぶか考えるのだが、さすがにその時はそんな気にならなかったのは覚えている。なぜなら、その後も大きな余震が続き、また、その地震によって初めて知った津波というものがやってくるかもしれないとの話を母から聞いたからだった。実際、その夜、たぶん船見町だと思うが、親戚の家に我々家族は避難した。その親戚の家に行ったのが初めだったことと、その日に何度も経験した恐怖のため、普通なら既に眠っているはずの時間にも寝れずに起きていた。

そのうち、たぶん津波警報が解除されたのだろう、私達は夜遅く帰宅することとなった。帰宅後、自分の布団に入り、目を閉じるとこの次はどんな恐怖が襲ってくるのかと不安になった。この世が終わるのではないかと、子供心に想像してしまった。

この地震の経験から、多少の地震では全く驚かなくなった。地震が発生しても、十勝沖地震の揺れと比較して、避難すべきかどうかを判断するようになった。震度3くらいであれば平気で寝ていられるようになった。だが、それはたまたま自分に被害がなく、今こうして生きていれるからである。その時もそうだが、今回のニュージーランドや阪神大震災、中越沖地震などで多くの死傷者を出している。
天災だから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、そう言えるのも自分に被害が及んでいないからである。被害にあった方やそのご家族には、深く哀悼の意を表したい。



いつもお読みいただきありがとうございます。いつもクリックありがとうございます。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_239163.jpg
凪の函館港と西部地区の街並。誰かが模型を作って、雛壇に並べたのではないかと思うほど、ありえないくらい建物のファンタジーを持った街並だ。

冬の海はどこか物寂しい。じっと耐えて春を待っているという様は、枯れた木々よりもそれを感じる。
a0158797_23234164.jpg
カモメと立待岬。

冬の海は生きていく厳しさを教える。足元をしっかり見ていないと風や波に掬われる。
a0158797_23272948.jpg
大森浜の雪と足跡。

冬の海は人を近づけない。夏の間ずっと遊ばせてあげた分、この間だけは静かにしていろ、と言っているようだ。
a0158797_23364826.jpg
冬のサーファー。住吉浜にて。

父なる冬の海は挑んでくる。どれだけ男として成長したのか、試してやろうか、と構えている。

そして、私は母なる山の麓に帰っていく。


いつもお読みいただきありがとうございます。これからもクリックでの応援お願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_2335763.jpg
懐かしさを感じさせる商店のショウウィンドゥ。

タイトルの町はもちろん松川町である。
幕末に函館に渡来し、主に土建業で活躍した人物だ。五稜郭公園の土塁の築造は多難だったようだ。一度積み上げた石垣が、一冬越すと崩れ落ちることが何度もあったそうだ。
この工事に使用する物資を輸送するために造った道が、本ブログで「旧幕府軍の道」と呼んだ、現在の海岸町1番から始まり、途中で高砂通りを経て五稜郭へと続く真直ぐな道路だ(参照、旧幕府軍の道(1)旧幕府軍の道(2))。
この道は、松川弁之助が私財を投じて造り上げたそうだ。当時は「松川街道」と呼ばれていたようだ。

また、松川は海岸埋立工事にも尽力し、現在の豊川町・大手町の海岸の埋め立てたのであった。つまり、現在ベイエリアと呼ばれている海岸の半分は彼の埋立工事の成果として残されているわけである。

松川弁之助は、今の新潟県三条市の出身である。彼の函館での活躍で、後に丸井今井の今井藤七氏や堤商会・日魯漁業の堤清六氏が函館に移住するきっかけになったと言われている。
a0158797_23405354.jpg
松川町は、新しい建物を探すのが難しい。特に幹線道路から住宅地に入るとそれが顕著となる。
この町も変わる「理由」がなかった町なのだろうか。古い老舗と思われる建物が当り前のように、景色の中に溶け込んでいる。

市営住宅も、まるで昭和30年代の映画を観ているような気持ちにさせるものだ。そして、この松川町と同じように古さを残しているのが、隣の万代町である。いずれ、万代町の建物等もご紹介したい。
a0158797_2352774.jpg



いつもお読みいただきありがとうございます。毎度ですが、クリックをお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_23132349.jpg
この地域を歩いていると、歩くのもおぼつかないご老人と何度もすれ違った。

本日、ハコダテ150+のスタッフ日記に、映画「海炭市叙景」のトキさん映画の中で住んでいた町を歩いたリポートを投稿した。ここでは、そのリポートの肝心な部分を少しだけ掘り下げて記してみたい。
a0158797_23233071.jpg
この町には広大な空地がある。決してアクセスが不便な場所ではない。国道5号線付近という少し古めかしさを感じさせる地帯ではあるが、ここまで廃屋が点在するだけで、寂しさ以外の何も感じさせない町になるべき位置にはない。

この地帯の建物は、皆ただ死を待っているだけだ。再生はされない。それには理由がある。この一帯の建物は借地の上に建っているからだ。借地は通常、建物を建てるための賃借権で関係が成り立っている。
つまり、建物が土地上に無くなると、賃借関係は終了し、その権利は消滅するのが通例となっているだ。また、建替えをしようとすると、借地となる対象物が変更になるために、更新料ないし新たな権利金という形でまとまった金が必要となるか、建替えを拒否される。ある意味で地主は、借地人の生活を左右できるだけの権利を有していることとなる。

たまたま、玄関先にいたご年配の女性と話をすることができた。女性は長年この地域に住んでずっと町の移り変わりを見てきたという。
そして、ある廃屋を指差し、「あの家なんか、突然いなくなったままそれっきり誰も帰ってこなかった。地代だってずっと払っていないみたいだし」と語った。「でもね、この家も自分の代で終わりだよ。娘がいるけど、娘は、お母さん、私は借地は絶対嫌だからね、と言って、土地買って家を建ててしまったからね」
つまり、その家も、主を失うと、また廃屋の仲間入りをすることになるということだ。
a0158797_02123.jpg
函館の歴史において、ある時期までは、借地は市民にとって有効にその機能を果たしていたと想像される。昔は今のように一般市民がローンを組んで土地建物を購入することはできなかった。売買は現金でなければ成立しないことがほとんどであった。そのため、せめて土地は借地を利用してそこに建築するという手段を取るのが精一杯であったと思われる。それでも、とりあえずは「自分の家」に住むことができたのだ。また、不要となった土地や、金が必要となった土地所有者は、財産のある大地主に自分の土地を買ってもらっていた。土地を購入できる者は限られていたからだ。
そこで大地主の所有地は拡大し、借地の賃料だけでも生活が充分できるようになったと思われる。その時代は互いのニーズに充分適っていたのだったろう。

だが現代は違う。土地を所有するのは当り前になり、銀行もその資金を融資してくれる。借地は、今となっては敬遠されるものとなってしまっている。
a0158797_0163836.jpg
函館旧市街地から郊外に家を建てて移り住む者の中には、借地に住んでいた者も多く存在する。これが空洞化の原因のひとつになっている。

函館市長選・市議選が近付き、立候補予定者の方々の考えを知る機会が増えている。どの者も、西部地区や駅前・大門地区活性化・再構築を「公約」のひとつに挙げる。だが、それは函館の“アンタッチャブル”に手を付けなければ解決しない部分が大きい。

いつまで私達は、虚しい空地を眺め続けなけければならないのだろうか?


いつもお読みいただきありがとうございます。函館への想いを感じたらクリックしてください。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_2325364.jpg

a0158797_23333597.jpg



a0158797_23343152.jpg

a0158797_2335059.jpg



いつもお読みいただきありがとうございます。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村
a0158797_23153789.jpg
東雲町にあった奥行きのある建物。

この建物を発見したのは、昨年の3月のことだった。たまたま東雲町のNTT函館支店の横道を車で通った時に見つけた。もちろん知っている人からすると、別に何でもない建物と思うかもしれないが、その古さの中に品の良さを感じさせる建物だった。建築時期は大正か昭和初期と想像された。

車を降り、玄関を覗いてみた。カーテンなどの内部を見ることを遮るものがなかったため、大きなガラスから広めの土間の先にあるホールと階段のあたりが、所有者が愛情を持って使っていたと思えるような色褪せ方をしていた。見える限りにおいての内部も質素な気品があった。
a0158797_2343696.jpg
この周辺は、昔旅館が多かったのだろうと思う。写真の右手前が「箱根旅館」向こうには「旅館 越前屋」の名前が見える。先の建物も旅館であったのかもしれないし、そうではなかったかもしれない。だが、いずれにしても、函館市役所や問屋などが徒歩圏にある、当時での一等地に佇んでいた小洒落た建物であったには違いない。

青函連絡船に乗り、はるばる本州からやって来たり、札幌から出張で長旅をして来た者たちが、この建物の前に立つと少しホッとしたのではないかと想像できる。

だが、今日、久々にその通りを見てみたら、完全に更地になっていた。それも、手前側2件とも無くなっていたのだ。この「箱根旅館」の裏側も旅館であったが、そこも更地となっていた。そして、全て駐車場に変わっていた。うかつだった。この近くの高砂通りは毎日通っていたのだ。解体されたことを全く知らなかった。函館の昔の面影を伝えるものがまた無くなった。

この周囲の建物解体は、先般解体開始された元町の元伝統的建造物よりもショックを受けた。
a0158797_004551.jpg
この写真は2009年に撮影したものだが、もう既にこの時から所有者の意図は感じていたためか、今回の解体にも驚かなかった。

それよりも、人知れずに静かに去っていく、数多くの名も無い建物の喪失の方が心が痛む。

趣きある街並は、名も無い味わい深い個々の建物の連続によって、初めて成り立つのだから。


いつもお読みいただきありがとうございます。
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
にほんブログ村