<   2011年 06月 ( 33 )   > この月の画像一覧

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函館どつく前停留所の風景。

先日、妻が持っている「シンプルライフをめざす基本の家事」(婦人之友社刊)という本を、妻がいきなり私に向かって読み始めた。きっと、もっときちんと家事をしなければという意味で読んだつもりだったのだが、私にはその前にTVニュースで放火の事件報道を見ていたせいで、家事を火事と聞き違えてしまった。

すると、妻が読んだ文章がとても恐ろしくなってしまった。

読んだ部分のタイトルは、「家事とは何でしょう」なのだが、私には、「火事とは何でしょう」というタイトルであると思い込んでしまった。そして、読者アンケートの回答が紹介された。

「生活を楽しむこと、生きていることを実感できること」

「火事は科学的であり、合理的であり、物への愛から始まると思います。愛のない火事は労働に過ぎず、疲れたり退屈したりして、楽しくできないのではないでしょうか」

「人は一生見える火事をしながら工夫することや気づくことが多く、見えないところまでも成長させてもらるかと感じている」

「火事は楽しむことが大切です。私は友人の家、知人宅へうかがうのが大好きです(後略)」

「何のことも、わが家はよき実験室と考え、家族も巻き込みながら実験し、成果を楽しんでいます」

「小さな達成感が、あちらこちらにあります。昨日までの自分が、できなかったことが上手にできた時や、より合理的な火事に気がついたときなどは、自分で、自分をほめたくなります」

ちなみに、「火事とは何でしょう」の隣には、小見出しとして「ときにはめんどう、おっくう。でもそれがあることで癒されたり、成長させてもらったり・・・・。あなたと火事とは今、どんな関係ですか?」とあった。

もちろん、本当は火事ではなく、家事であるのだが、日本語ってやっぱり難しいものですね。(それは私だけのことか)


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最近、写真だけのブログを作りたいと思うようになってきた。特別撮影技術が優れているわけでもない私がそう思うのもおこがましいのだが、いつも写真を撮っていると、このブログのように、何か文章を加えてひとつの記事にしているものとは別の、単純に写真だけを楽しむものが欲しいと思って来た。

そう思うようになったのは、やはり人物写真が撮りたいという欲求を抑えることができなくなったのが大きな理由だ。上の写真は試験的に撮ってみたもので、人物写真の勉強はこれからだが(普通の写真ももちろんこれからだが)、何か文章を書くと、その内容と写真が影響しあうような気がしてならなく、それが風景写真であればまだいいのだが、人となると、その人への影響も与えてしまうのではないかという懸念も持ったため、写真だけの方がいい場合もある。

また、そうすることによって、被写体も変わるのではないかという、自分への期待もある。
そして、そのブログタイトルを「函館写真」というシンプルなものにしようと考えている。函館で撮った写真は函館らしい風景写真ではなくても、全て函館写真という自分の括りにしたい。上の写真も、モデルの方が函館在住の方であるので、函館写真という大雑把な括りだ。

そして、もし可能なら、プロ・アマ問わずに函館で写真撮影している方の写真も紹介していきたい。そんなことを考えているこの頃です。実は、上の写真、h氏のブログにあった写真の切り取り方を真似てみたのだが、色々な意味でまだまだである。h氏もどうですか?

まぁ、まずは本人がブログを立ち上げなければどうしようもないので、ここ1ヶ月のうちに何らかのアクションを起こしたいと考えています。具体的になったらまたご報告いたします。


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ハリストス教会の階段。

何年前だろうか?会社は誰のためのもの、という議論が盛んに行われたことがあった。有識者たちは、株主のためのもの、社員のためのもの、などの意見に分かれた。この時、私はある意見が出ていないことに気が付いた。
そんな折、新聞にある大学の教授の意見が掲載された。その方の考えは、「会社は社会のためのもの」というシンプルなものだった。私もそう思っていた。そうあるべきだと強く考えていた。

だが、現実はやはり違う。
本日、電力会社の株主総会が実施され、質疑応答の動向がニュースで報道された。焦点は脱原発であった。株主の一部が脱原発を訴え採択が実施されたが、反対多数で否決となった。
当然の結果だと思った。株主総会で脱原発が採択されるとは全く思っていなかった。ある投資コンサルティング機関(?)の者のコメントでは、原子力の代替発電方法が確立していない時点で、脱原発を謳ったら、その電力会社への経営不安が増幅され、必然的に株価が下落するからだ。

もし、私が電力会社の株を保有し、資産の配分上大きなウェイトを占めているものだったら、原発継続に賛成してしまうかもしれない。やはり、自分の資産価値を下げたくないからだ。
社会に対する影響よりも自分の財産を守りたい。それも無理もない話だ。このような心理はどんな場合においても働いてしまう。それが人間の業だ。

本ブログでは何度も何度もくどくど言っているが、資本主義は「自分さえ良ければ、人などどうでもいい」という考え方だ。だから、冒頭の事案で議論しても、「会社は社会のためのもの」という意見がなかなか出ないのだ。
しかし、それでもあえて言う。この社会で能動的に影響を与えている組織は、全て社会のために存在しなければならない。小さな単位が集合して社会を構成している。小さな単位でも、同じ方向へのベクトルを共有すると、大きな力となり、社会に大きな影響を与える。だから、会社は社会のためのものでなくてはならないのだ。

自己の利益という利害に挟まれて物事を考えると、公共性を失うことが多い。もちろん、未熟な私にはそんな誘惑に負けてしまうことが数多くあるため、偉そうなことも言えないのだが、どうせ貧乏なのだから、同じ貧乏なら世の中が安心できて、より平和な貧乏の方がいいと思ってしまうのであった。


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最近撮ったガラスに映った風景。二十間坂のお店。

私はこのような窓ガラスに映った風景を撮ることが好きだ。なぜなら、窓枠が絵画の額縁の役目を果たし、風景の装飾品の一部となってくれるからだ。上の写真は、店舗の窓枠の木部がちょうどフォトフレームのようになり、個人的にはけっこう気に入っている。
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私が窓ガラスに映る風景を撮るようになったのは、偶然撮ったこの写真からだった。これを撮ったのは、外壁とドア枠の色のコンビネーションが好きであったからなのだが、後から見たら、ガラスに映った屋根の色合いが綺麗で幻想的に思えたのがきっかけであった。
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調子に乗った私は、映し出された風景に焦点を合わせて撮ってみた。
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ベイエリアではガラスの中のものと完全にオーバーラップさせてみた。
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この写真では、映っている女性はガラスの中に存在しているようになった。
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これは綺麗に撮れたと、自画自賛してしまう。
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おまけとして、カール・レイモン邸のドア。



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丘の上に建った あなたの屋敷に群がる 雑種犬
何でわたしがこんな目に遭わなきゃならないの?
困った顔をして 次には怒り出す
召使に 何とかして、私には責任なんてない
ジャックが落ちぶれたのは 画鋲の刺し方を間違えたせい
紫の絵がメロンに食べられて ただそれだけじゃない

でも いつしか屋敷の周りがジャングルになり
バクテリアの餌に あなたはなる
時間まで あなたを見捨て ただ壁の中に隠れるしかない
まだ気が付かないかい もう絹のドレスを
買ってくれる男が誰もいないことを、ミセス・モナ?


取引は成功させたのだから ありったけのボトルに
酒と金と神と名誉を詰め込んで すぐに持って来い
鳥居に座って あんたは言っていたね
碧の顔をした 男を蹴飛ばして すまし顔
フィルがやって来て笑う あいつらのせいにすればいい
大切なのは丘に立つこと 冷めたスープには用がない

でも あんたの座る椅子は死刑台に変わり
スイッチを押したい 男はたくさんいる
昨日までのシーツは破れ 憎悪の枕がそびえ立つ
もうベンツは必要ない 今あんたが持つべきは
どこまでも深く沈む碇なのだ、ミスター・ギガ


ボサノバで踊る ガラスやスプーンを あざけり
トレーダーとのティータイム 銀行員が傍にいる
理論と結論 時には激しい怒り
急ぐ必要はない 列車は待っていてくれる
愛する夫の余命まで 利息計算していたね そう
現実という幻想を 丘の上で ただ年を取っていく

でも あなたの顔のしわは人々に気付かれ
金を見せびらかしても 振り向かない
広場で裸にさせられ 泣いてももう既に遅い
後悔はしないことだ 上手く立ち回ったことを
あなたには何も残っていないのだ、ミセス・サラ



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元町・石井邸。道路から奥まった場所に、広い敷地を持つ邸宅。こんな所が函館の懐の深さである。
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元町・プレーリーハウス。
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湯の川の和洋折衷住宅。
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西部地区のある廃屋の中。


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立待岬。

今日のNHKニュースで、興味をひくニュースを見た。インドの生活事情のことだった。
インドでは近年の中国にも似た急激な経済成長で、富裕層が誕生し、その反面、ほんの僅かな食糧を家族で分けて食べるしかない貧困層も誕生しているようだ。

貧困層の人々は、ゴミ捨て場をあさり、まだ食べることのできる食べ物がないかどうか探している。それとは裏腹に、富裕層はパーティなどで贅沢三昧をして、平気で食べ物を残す。時には誰一人料理に手をつけないこともあるという。

このアンバランスな状態を見て、政府が動いた。食べ残しを規制し、貧困層にも食物を行き渡らせようという検討を始めたのだった。
ちょっと聞けば、そんなの非現実的だと思うかもしれない。どうやってそんなことができるのだ。配給制にでもするのか、と思うかもしれない。ところが、この規制は画期的なことなのだ。もし、言葉にするとしたら、フードシェアリングとでも言うのだろうか?

以前、コンビニエンスストア用の弁当を製造している工場の返品収納ボックスを幾度となく見たことがある。そこには、おびただしい数の返品された弁当類などの食べ物があった。当然いっぱいになったら事業ゴミとして収集される。人間にとって必要不可欠な食糧が、そこでは単なるゴミにしかなっていなかった。
この豊かな資本主義国家のほんの一部の余剰物を、今日の食糧にも困っている国の人々に分けてあげれないのだろうか?私はそんなことを考えた。だが、この国ではそんなことは非現実的な夢物語として退けられてしまうだろう。

だが、インドでは今その馬鹿げたことを政府レベルでやろうとしている。この取り組みは食べ物だけにはとどまらないだろう。フードシェアリングの次に来るのは、マネーシェアリングになるからだ。

アメリカ在住のインド人経済学者、ラビ・バトラは、現在の高収入を得ることのできる職業と、低所得にしかならない職業の、その所得差の開きを縮めるべきだという考えを著書で示している。そして、資本主義は崩壊すると予言している。私も似たような考えだ。人間は平等だという意味を突き詰めて考えていくと、そうなってくる。
だが、それでは共産主義なのではという意見もあるだろう。ところが、これは共産主義でも資本主義でもない考えに基づいている。それではどんなものなのか、と言われても、論理的に記すことはできない。一つだけ言えるのは、資本主義が崩壊した後に世界の主流となるだろうと、私が想像しているものに近いということだ。

この考えを詳細に話すとかなり長くなるため、今回はこれ以上記さないが、同じ方向での思想を持ったのはインド人であったということが重要だ。私は資本主義崩壊後の新たな思想のリーダーとなるのは、東洋の国ではないかとずっと考えいたが、どうやらそれはインドになりそうな予感がする。


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函館市・湯の川の「カフェまるせん」店内。5月撮影。

休日の本日、取材および写真撮影がそれぞれ午前・午後行った。午前の取材は、ある農業研修を受けている若者たちの作業風景とその趣旨についてのものだった。場所は亀尾であった。当初取材時間は1時間くらいになるのかな、と予測していたが、想像以上に目標を持った眼差しで作業を実施していた若者たちの姿に惹かれ、結局1時間半その場にいた。

その取材結果は後日ハコダテ150+の記事としますので、どうかご覧になってください。当初、いつもの取材のようにカメラはコンデジにしようと思っていたが、あまりに若者たちの姿勢が真摯で輝いていたため、フィルムカメラ撮影に切り替えた。記事に使用するのはせいぜい5~6枚なのだが、使われなかった写真も含めて、全て彼らの思い出の記録として差し上げようと、記事用とならないようなものまで撮影した。
そんな気持ちにさせてくれる若者たちだった。

その取材を終えると、昼食のため、湯の川にあるカフェまるせんに向かった。ここは以前「函館食遊帳」に掲載するため、取材させてもらったお店だ。何か、連日の昼食のブログになってしまいそうだが、方向転換というわけではなく、たまたま今まで何度も訪れていながら、本ブログではご紹介していなかったお店に2日続けて行っただけである。

このお店の名前は、何ヶ月か前から知っていたが、正直に言って料理の内容もわからないことと、湯の川に行く機会もあまりなかったため、利用したことがなかった。ところが、ある機会にこのお店の代表である、さとうあやこさんと知り合い、試しに昼食を採りに行ってみたら、これはいけるという味であったため、先程の取材をお願いした次第である。
最初に食べ、本日も食べたのが下の写真の「パンプレートランチ」である。
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この料理、パンなんて腹の足しにならないという、特に男性諸君、本当の大食漢であれば別だが、普通の腹の持主であれば、充分昼食となるものである。もちもちとした噛み応えのある温泉発酵パンとふんだんに盛られた野菜を食べると、けっこう腹も満たされる。その証拠に、今日も私の他に男性が3名来店していた。是非試食してみることをお勧めする。

ところで、上の写真、実は記事掲載の際に、さとうあやこさんから借用したものの一枚である。随分私の写真と違ってきれいに撮れていると思われたでしょう(笑)実は、あやこさんは知る人ぞ知る、個展を過去に何度も開催している写真家なのである。
最近は多忙のためか、なかなか写真撮影ができていないようだが、彼女の写真の大きな特徴は、普段見かけるどこにでもあるような"ガラクタ"(本人弁)を原形がわからなくなるほどのアップで撮り、ひとつの模様というイメージに仕上げている点にある。ご本人に言わせると、その頃の函館ではそんな写真を撮る人間がいなかったため、異端児扱いされたそうだが、結局その実力と感性は、ご本人のHPと函館CM放送局で編集された「函館の音楽と写真の共演」をご覧になっていただければわかると思う。

そのご本人には、取材以来お会いしていない。お店に行ってもお忙しいのだろう、最近はいらっしゃらないようだ。また写真の話などしたいと思っているが、1日のスケジュールを聞いたら、私の暇つぶしにお付き合いいただくのは失礼であると思い、連絡してまでの訪問はしていない(笑)

昼食を済ますと、次はある撮影のために、そのモデルとなっていただく方々を迎えに行き、西部地区方面で写真撮影をした。これは単なる趣味としての撮影ではなく、目的があってのものだったが、その内容をお知らせする時が来たら、本ブログでもお知らせしたいと思っている。
写真も、新たな分野の撮影をしたいとかねてから考えていたのだが、ひょっとしたらその機会も近々訪れるかもしれない。分野と言ったら大袈裟だが、まぁ、もう少し見るに堪えれる写真を撮れるようになったら、本ブログとは別の、写真onlyのブログを作るかもしれない。今はそんなことを模索中である。

そんな1日であった。


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天満つ。今年2月撮影。

今日の昼食も、十字街・銀座通りの「天満つ」で蕎麦を食べた。諸々の事情で昼食にお金をかけることができない現在、ここは大変重宝している。大抵、たぬきそばを注文するが、450円で満足できる量を食することができる。
そして、何より入りやすい。だが、これは人によって感じ方がちがうので、自分にとってという注釈が付く。先日この店が地元情報誌(だったと思うが、定かではない)に載っていたが、元々は天ぷら屋さんだったようだ。道理で天かすも美味しい。

天満つの昼はいつも混んでいる。それも様々な層のお客さんがいる。私のようなサラリーマンや、家族連れ、観光客のような人や、ご老人。そうそう、この店の特筆すべき点は、ご老人が独りで食べにくることだ。
その理由のひとつとして考えられるのが、すぐ近くに眼科病院がある、というのも考えられる。だが、単にそれだけではないようだ。やはり長年にわたって美味しさを提供してきたからだろう。

今日も女性のご老人がいた。それも私の両隣に座った。つまり両手に華、というやつだ。80代くらいのおばあちゃんに挟まれるのもまんざらでもない。広くないカウンターで両おばあちゃんの邪魔にならないように、身を縮めて食べた。

右側に座ったおばあちゃんが、何かの拍子で刻みねぎを飛ばしてしまった。私は見て見ぬ振りをした。恥ずかしいところをじっと見られるといやだろう。普通に食べていた。おばあちゃんは少し間をおいてから、ねぎを箸で摘み口に入れた。

どうしてなのだろうか、ご老人のやることのほとんどのことは許せる。どのように生きて来たのかはもちろんわからないが、ここまで生きたのだから、もう人間という次元を超えているのだろうという気になってくる。あとは満足いくまで生きていてほしい。そう、自分の親を見る目になっているのだ。

どんな高級店よりも、やっぱり人生の縮図のような、こんな大衆が集まる店が、私は好きだ。しょせん、自分は大衆の中の一人にしか過ぎない。そう思うと、ひとりで食べていても全然つまらなくないのであった。


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