<   2016年 09月 ( 24 )   > この月の画像一覧

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やりましたね。
ということで、ビールかけの様子を見ながら私も酒を飲みますので、はい、余計なことは言わず酔いましょう。





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世の中にはとても面白いことを考えている人がたくさんいる。それを仕事として実行させている人もいれば、芸術のに活かしている人もいる。文芸に活かしている人もいる。スポーツに活かしている人もいる。投資に活かしている人もいる。

恐らくその分野の話をしたら、私たちが聞いてもわからない専門的なことを話してくれるだろう。そういう専門分野は誰もが所有しているのではないかと思われる。

そのような専門的な話を聞くのは楽しい。何しろ自分が知らないことを、その人はよく知っているのだから。ところが、日常の会話においては、そのような「普通ではない話」はあまり聞くことができない。もし、その人が自分の専門分野のことを関係のない人に会うたびに話したら、そのうち鬱陶しく思われるだろう。また、そこまで専門的な話ではなくても、人それぞれ自分の考え方があると思うが、それを毎度毎度話されたら一般的な人は辟易してしまうだろう。

私たちは子供から大人という人種に変貌する時、それまで持っていた直接的な表現(言葉だけではなく)を封印し、「普通」というカテゴリーの言動をするようになる。そうすることによって社会生活を円滑に過ごせるような術を取得することとなる。自分が持っている特性はジャケットの内ポケットに大事に仕舞い込んで、「普通という世界に身を置く時はそれを意図的に見せないようにしている。そして、それが必要とされている。

世の中はそのようにしてある一種の均衡を保っている。誰もが積極的に能動的に人に嫌われたいと思わないからだ。でも、自分の存在を示したくなるのもまた人間だ。その存在表現は人それぞれだと思うが、表現をしようとする時、「普通」というカテゴリーを尊重する。そのわかりやすい集合体がSNSだ。特に実名登録しなければならないfacebookは「普通」に満ちている。

仕事上でも「普通」にふるまわなくてはならないのに、プライベートに関わる部分も「普通」にしていたら、私たちはほとんど「普通」しか知ることができない。そして、人に理解をしてもらうためには「普通」の言葉を話すしかならなくなる。結局僕たちは普通の言葉しか話せなくなってしまっているのだ。

きっと明日も、「少し寒くなりましたね」などの種類の言葉が地球上に無数に飛び交うだろう。そういうことでしか、きっと僕たちは生きて行けないのかもしれない。



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この、Bob Dylan の 「Ballad of a thin man」を、聴いて面白いと思ったのでしてら、きっと村上春樹の小説も面白いと思うでしょう。

I am not thereより。





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何かが変わる時、それは突然のように思えて、実はその予兆があったりする。
半世紀以上も生きていると、さすがに少しくらいは学習して、その予兆を察することができるようになる。予兆は静かにゆっくり少しだけ顔を現せてはまた消える。そのちょっと顔を出した時に何かを感じるかどうかが大切になる。
これくらいは相当年数人間をやっていると何となくわかるものだ。

しかし、顔を出したからといって、具体的にそれがどんな変化をもたらすかまではわからない。わかるのは、不吉な予感がするかそうではないだけだ。そして、今、私は「何かが変わる」予感がしている。と言っても、ここ1週間で変わるとかそのようなものではない。ゆっくりゆっくりと静かに、まるでほとんど人に気付かれないまま地殻変動するみたいに、自分の中で何かが変わってしまうような気がしている。
そして、自分が変わる前と変わった後をしばらくは行ったり来たりしなければならないのを知っている。そんなに何もかもが一度に変わってしまうことはあまりないのだ。もしそうではないとすれば、予兆(あるいは予告編とよんでもいい)を見逃したか、見ても無視したかのどちらかである。

そして、その変化の後に待ち構えているものなど何もわからない。自分にとって吉と出るのか凶と出るのかもわからない。いや、もっと正確に言えば、吉と出た後にその反動として出現してくる凶なのか、あるいはその逆なのか。それは実際に始まってみてから出なければわからないのだ。
ただ、今回の予兆はとても「穏やかに」ゆっくり時間をかけてということにはなりそうもないかもしれないる私にその場その場での一瞬の判断を要求されるような気がする。

さて、どんな変化なのだろうか。それによって私の今後も大きく変わって来るのかもしれない。





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ある方の名刺を探してたが、なかなか見つからなかった。プライベートタイムで知り合った方の名刺だったのだが、実は函館に戻って来てかの7年間、ごあいさつでいただいた名刺の数がかなり多く、数えてはいないが軽く700枚は超える数の名刺をいただいていると思う。その数は仕事上でいただいた数を上回るのではないかと思えるほどだ。それを分散して保管していたため、見つけるのが困難であったためだ。

概要を簡単に言うと以上のような文章になるのですが、いくらいただいた数が多いと言っても、要はきちんと整理していない私が悪かったのでした。人様からいただく名刺は、中には自腹ではないものもあるでしょうが、ちょっと頑張って自費で質の高い名刺を作られた方もいらっしゃるでしょう。もちろんかたけお金の額が問題なのではなく、その名刺で自分の活動なり仕事なりをアピールしたいという思いが詰まっていれば、それは大切な名刺にであります。

そのような名刺をまとめて整理せずに分散させていたということは、私自身が人を雑に対していたことになるのではないか、そんなことを考えてしまいました。ここ2年間くらい、まるで30代以前のような動きであちこち駆けずり回っていたのですが、そろそろ、身近なものを一度きちんと整理してその一つ一つを大事にしていかなければならいと思わされた次第です。それは、名刺という紙切れではなく、その中に印字されている人のことを丁寧に扱うということになるからだと思いました。

実際、ここ2年間、体の状態も大きく変わり、昔ほど無理がきかなくなっているのも事実で、日常的に薬を飲まなければならないという制限を受ける生活をしていながら、逆にあちこちに旅をしたり、体に負荷をかけていました。それでも走ろうとしていたのですが、そろそろゆっくり歩き、自分の周辺にあるとても大切なものを、ひとつひとつ大切に取り扱わなければならないだろう、という気持ちになった参りました。

つまり、自分の体と同時に自分と関わっている(いた)人を大切にとでもいうのでしょうか、少し落ち着いてたとえば写真づくりひとつにしても丁寧に丁寧にやって行かねば、モデルさんもっと大切にしなければ、そんな感じです、はい。
これは誰にでもきっとあるものでしょう。今私はそんな時期に入っているのかもしれません。

さあ、足元を見よう。私と知り合っていただいた方、ありがとうございました。





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昨日、平成28年の基準地価が発表された。函館は一部地点が横ばいで大半は下落という結果が出た。私はそれでいいと思っている。いや、もっと下がるべきだと思っているのです。
これは最近考えたことではなく、ずっと前から頭の中にあったのですが、確信できるとは言い切れなかった部分があるところもあったし、このことについてお話しすることに若干躊躇しなければならない理由もあったのですが、もう話してしまおうという気になって今回述べることにしました。

有名な話ですが、函館の地価は高い、それも北海道の地方都市としては「異常に高い」という状態です。それに伴って家賃も高い。札幌に匹敵するほどの高さだ。これがどんなことを意味するのか、たぶん函館だけしか住んだことのない人にはわからないかと思いますが、街全体へ多大なる影響を与えることとなるのです。

よく地価が下がれば所有者の財産価値も下がるので好ましくはない、という話を聞くのですが、これは土地所有者だけしか見ていない論理です。これから土地を購入する立場で見ると、地価が高いと土地と同時に購入(建築)する総費用が当然の如く高額になります。たとえそれが高額になっても、住宅ローンを支払うに充分な収入が高ければ問題ないのですが、残念なことに函館市民の平均収入はそれほどではないのです。
北海道内の他都市の一部をご紹介しますと、旭川・苫小牧双方とも市民の平均収入は高いのですが、一般住宅地の地価は函館よりも数段低いのです。坪当たりの金額にして5万円は違っています。つまり、函館市民は他都市より高い住宅ローンを組み、当然月々支払いをしながら暮らしているわけなのですが、例えば購入した土地が60坪として(建築費用は変わらないという前提)で坪当たり5万円違うと、総必要資金<で300万円違ってきます。これは金利1%35年何支払の内の当初5年間だけでも月々の支払いが8,468も異なって来ます。
この差は、3年固定・5年固定等が期間が終了すると、それ以上に確実に増額するのです。つまり、函館市民は少ない報酬に対しての住宅ローンの支払い割合が高くなってしまうということです。そうすれば一般市民は支払いを済ませたお金を余裕を持って使えなくなります。だから、安くて量があるというものに飛びついてしまいます。しかし、そのようなものを販売しているところは薄利多売がモットーですので、従業員の賃金を高くすることができない。そんな悪循環に陥ってしまっているのです。

街全体の「金の回り方」を考えると決していいことではありません。いつまでも貧しい収入の中で暮らさなければならないわけです
土地という個人財産のもののために一般市民氏の生活の水準が低くなってしまうのは本末転倒のような現象です。ですからね土地はどんどん下がるべきなのです。





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2週間ぶりに写真撮りました。
内容は、タイトルそのままです。

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今さら何を?と思われるかもしれませんが、現在「1Q84」を読んでおります。はい、もちろん文庫本ですが・・・・。
このブログを昔から読んでいただいている方はご存知だと思いますが、私は超ひねくれ者でして、発売前から既にベストセラーとなったこの本を単行本で買うのは当初からありませんでした。というよりも、そもそも「ノルウェイの森」がなぜあんなに売れたのかがとても不思議で、作品の内容としては「羊をめぐる冒険」の方が数段優れているのに「ノルウェイの森」ほどの話題にならないことに、一般読者の反応というものはちょっと疑ってかかった方がいいという私なりの結論が出たのと、人気が出る前は熱心に買うけれど、誰もが買うようになってからはブームが終わってから買うという天性のひねくれ根性で、「1Q84」は最初から後になって気が向いたら買おうと決めていたわけであります。初版の単行本を買ったのは「ノルウェイの森」が最後であったと記憶しています。

それが今回、新幹線の中で何かを読みたいと何気なく思った時に「1Q84」という本の名が頭に浮かび、仙台駅に隣接する(雨の中を長く歩かなくて済む)いくつかものビルを探して見つけ出し、元々防音壁(あるいは防雪壁)やトンネルばかりで車窓の風景を楽しめない中で、まして何も見えない夜に走る新幹線の退屈な時間に読み始めたわけであります。

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以前にも書いたことがありますが、村上春樹を最初に読んだのがデビュー作である「風の歌を聴け」ですが(もちろん単行本の初版)、「やっと日本にもこんなタイプの小説家が誕生した!」と大喜びした記憶があります。それまでの日本の小説は簡単なことを難しい漢字を使ったり、言い回しをしたりすることが崇高なものだという風潮があり、平易な文章で書かれたものは「大衆小説」というものに分類されて評価されていませんでしたが、簡単な言葉を使って難しい内容の表現をするという書き方を初めて行ったのが村上春樹であったのでした。それは、「ライ麦畑でつかまえて」で目的もなさそうにふらふら毎日を過ごしているホールデンコールフィールドが妹のフィーヴィーに「お兄ちゃんは何かなりたいものがないの?」と訊かれて、「(要約して言うと)子供たちが遊んでいるライ麦畑の見張り番になりたいんだ」と答えると、妹は「そんなものは実際のものじゃない。実際のものを言って!」と問い質されたのに対して、「実際のものだとも!」と言い切った、作者であるサリンジャーが言いたかったことに通じるものであります。

先日、本ブログでバル街について書いたことがありますが、あれはかなり遠回しに書きました。話せること、話せないことを含めて遠回しに書いたのです。その時の記事がFacebookの一部で話題となりましたが、あえて遠回しに書いたことに気付いた方はどれほどいたでしょうか?
私はこのブログ開始当初は様々なデータを示し、そこから読み取ることのできる事柄を違憲として述べることがとても多くありました。が、ある時から、データは知っていてもあえてそれを示さず、私の感覚的感想的な文章にすることにしました。でもそれが「実際のものだとも!」なのです。
このブログの中にはけっこうそれが多用されています。
そのようにして読むとこのブログは少しくらいは面白いことを書いている(つもり)ことに気が付くでしょう。

さて、本題の「1Q84」に戻りましょう。まてだ全部読んでいないので内容についてはノーコメントですが、文体については随分変わったな、という印象を持ちました。もちろか最後まで読んでいませんので内容についてあれこれ言えませんし言うつもりもありません。
たぶんこれからも、遠回しに書くことは多々あるかと思いますが、どうかその底にある今がある時もありますので、どうか色々なことを考えながら読んでいただければ幸いです。




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この度宮城県へ行った最大の目的は、東日本大震災被災地を自分の目で見てみることだった。自分は何を感じ、もし写真を撮れるなら何を撮るのだろうか?撮れるなら、という意味は、自分が見たものを写真という記録媒体におさめる気持ちになれるかどうかということだ。
実際に写真は何十枚か撮った。だが、旅から戻り自宅のPCで再生した時、自分がその時包まれていた空気感がまったく出ていなかった。単なる平面的に姿かたちが記録されている画像にしか過ぎなかった。

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そして考えてしまった。そもそも私は何を撮ろうとしたのか?そこに何かの意味を持たせようとしたのだろうか?そんな大それたことを自分はしようとしたのではないか?そんな自問自答が続いた。
とりあえず今お見せできるのは、気仙沼市大谷海岸の一部分(冒頭の写真)と南三陸町の港の風景(2枚目の写真)だけです。

一応今回の被災地を訪れる際に自分なりのルールを決めていた。報道写真を撮るわけではないから無理に誇張したものをとらないこと。あえて何かを探し回らないこと。たまたま目にしたものだけを撮ること。地元の方と話をあえてせず、淡々と見ることに徹すること。
だが、結果としてこれでいいのかという写真になってしまっていた。

宮城・岩手から帰って来てから、私は仕事上記録として撮らなければならない写真を除いたプライベートな写真は全く撮っていない。私は何を撮ればいいのか?何を撮るためにカメラを所持しているのか?そんな根本的な問題と向き合わなければならなくなってしまった。
いつも車の助手席にはカメラがある。だが、どんな風景を見ても、今は被写体とはならない。レンズを向ける気になれない。

もう少し時間をおき、撮った写真を眺めて、人様にお見せしてもいいと判断しましたら、何らかの形で公開したいと思いますが、今は、少しPCの中に眠らせておきたいと考えています。つくづくきれいなものを撮る方がずっと簡単だと思った。





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