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青柳町電停近くから谷地頭方面を見る。函館山が目の前に迫り、いつも厳粛な心持になる。

函館にとって函館山は母なる山である。
なにしろ函館の街が始まったのはこの山の麓であったし、函館を「函館」と意識できる人間にとってはこの山を見て暮らすことは空気を吸うくらい当り前のことなのだ。また、その山の加護を受けるかのように作られた麓の街、すなわち西部地区もまた母なる地域である。

ちょっと大袈裟に書いたが、この地域を歩き続けると、そう表現したくなる気持ちになる。
私はよくカメラを肩に掛け西部地区を2~3時間散策する。(冬期は根性がないため車か短時間の散歩になるが)それだけ歩けば当然足腰に疲労が来るが、気分だけは一向に萎えない。持久力のある肉体を持ち家族サービスの遂行義務がなければ、1日中でも歩ける。時にはベンチで休み、時には喫茶店でお茶を飲み、時には博物館や文化施設に立ち寄りながら朝から夕方まで過ごせる自信がある。

こんな街はそんなにない

以前住んでいた新潟県上越市(特に天地人で有名になった旧高田市地区)の寺町や古い町並みが残る本町・仲町などの見ごたえのある所でもそんなに長く歩けなかった。長期出張した長崎でも静岡でもそんな気になれなかった。
何故だろうか?
正直、上手く言葉では表せない。言えるのは、この地域を歩くと時間がゆっくり流れ、その流れの大きさにじたばたする気が全くしなくなるということだ。心が穏やかになり、行き交う老人の歩く遅さが、人間の本来の歩くスピードであると自然に思えてくる。それに逆らって歩くことは冒瀆であり、生き急ぐ人間には母なる山の加護を受けれらなくなるぞ、と忠告されるようである。

やはり上手く表現できなかったが、嘘だと思うなら1日の予定を無くして、静かに気ままにこの地域を歩いてみるといい。何度かそれを繰り返すと私の言いたいことも少しはわかってもらえるかもしれない。
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西部地区の建物ではありません。学園通の誰でも見たことがあるかもしれない建物ですが、上の写真と下の写真の建物がある一帯は、比較的新しいこの周辺地域でも珍しい古い建物群です。時任為基の時代のものかと一瞬思いましたが、そこまで古くはなさそうで、また、調べてみたいものが増えました。
ちなみに「はこだて人物誌」によると、時任三郎氏は為基氏の子孫に当たるそうです。
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どちらも戦後の北洋漁業の隆盛を彩った企業です。(もちろん小熊倉庫は明治時代からありますが)
写真右の窓の鉄柵の中に「〇は」というマークが着けられており、その名残を示しております。ちなみに「〇は」の屋号は、創業者の出身地(明石郡林村)から会社の屋号を林屋とし、その一文字目の「は」を略号としたことから付いたマークだそうです。
昭和30~40年代には函館港によく「〇は」のマークの母船が停泊していましたね。