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お色直し中の旧亀井邸。新年度予算が実行されたのでしょうか。もう一箇所でもリメイクが行われていました。

たまには経済の話を。
先々週から先週にかけてギリシャショックが世界経済を一撃した。経済というより、為替・株に顕著なダメージを与えた。ギリシャ国内は大変な混乱となっているようであるが、EUの早期対応によって結果的には大きな混乱は避けられたようだ。
しかし、相変わらず株は乱高下し、マネーゲームの餌食となった。株価は何か理由が付くと簡単に上がったり下がったりする。今回のギリシャは別としても、大した出来事でなくともちょっと下がると連鎖的に下落が加速する。「仕掛け時」と見る筋がいるのだろう。

マネーゲームはまさしくバーチャルの世界での出来事である。正確には、バーチャルと実体との間を行ったり来たりする。どこまでが実像かわからないうちに実際の損益が出る。だから株取引は想像力を駆使した心理戦となってしまうのである。

こんなことを述べても、実際に株や為替に投資をしていない者にとっては関係ないと思うだろう。自分とは別世界の出来事だと。ところが私たちが今行っている経済行為が、元々がバーチャルが前提となっているのを気付いている人は数多くはないだろう。

まず、私たちが普段使用している紙幣である。1万円札を持っていると1万円相当額と思われるものと交換することができる。これを私たちは1万円で物を買うと言う。ところが、1万円を製造するのにかかる費用は約20円と言われている。つまり、私たちは20円と1万円を交換していることになる。
それはおかしい。そこで、20円でできた札という紙に1万円という仮想の価値を与える。これでバーチャル経済が既に出来上がってしまったわけだ。

次にローンである。多くの国民は住宅を購入するのにローンを利用する。今では全く不思議な行為ではないが、昭和の中期までは住宅ローンを利用できる人は限られていた。また、借入できてもごく僅かだった。しかし、政府の政策により一般国民にも簡単にローンを利用できるようにし、住宅産業という裾野係数が高い分野を発展させた。これによって内需は高度経済成長とともに大きく拡大した。

ところが、このローンもバーチャルの世界である。例えば、3000万円の土地建物を購入しようとしている人がいたとしよう。仮にこの人が「実際に」3000万円持っていれば、それを担保に3000万円貸したとしても、少なくとも最低元本は回収できる。では、3000万円持っていない人はどうしたらいいのか。解決策は、利子は別として3000万円を返済できるだろうという仮想の基に、土地建物の担保価値がそれを補完できるだろうという仮想を重ねて金を貸すことだ。

そこには3000万円という実体はどこにもない。
まぁ、とにかく私たちは実体のない世界の中で、生活という実体を日々経験している。だから、結局のところ何が本当なのかよくわからないまま年を取り、よくわからないまま死んで行くことになる。
こんな実体とかけ離れた生き方をしている動物は人間だけである。そんなことを言っても仕方ないから、今日も夜まで仕事をし、結局五稜郭祭を見ることができなかった私であった。
本日仕事で香雪園の近くまで行きました。一休みがてら、少しだけ園内を散歩。
もちろん桜は咲いていましたが、まだ芽吹いていない樹もあり、緑と枯れた茶色のコラボが、北海道唯一の国指定名勝庭園内の園亭の「さび」を演出しておりました。
紅葉時期も素晴しい景観を見せてくれますが、枯れた雰囲気もまたある意味での日本の風景かと思います。
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函館駅ホーム。少年の頃はこのホームに立つと、これから始まる旅への期待でわくわくしていた。

何と古めかしいタイトルを選んだのだろうか。終着駅という言葉に、昔は旅情や哀愁を連想することができた。今は途中駅であろうが終着駅であろうが、目的地という括りの中におさまってしまう。

昔は本当に函館は終着駅であった。札幌が拡大する以前の時代の話だ。本州から見ると、津軽海峡を渡ることは相当な覚悟が必要であったのだろうと思う。
そして、函館を最期の地として選んだ者たちの祭が、明日・明後日と行われる。

人生は死に場所を見つける旅、と思い始めたのはつい2~3年前頃からだ。つまらないことにもがき、悩み、喜び、泣き、笑い、希望に胸震えたり、失望の暗闇に怯えたり、あたふたして日々の営みを繰り返し、その結論としての選択は死に場所をどこにするかということでしかないということに気付いた。

そんなことを思うと、残りの人生はやりたいことをやって死にたいと望むようになる。だから年寄りが我儘になるというのもわかるような気がする。
ひょっとしたら旧幕府軍も本州で既に覚悟を決めた上で、やり残したことを遂げる微かな夢を持ってこの函館に辿り着いたのではなかろうか?微かな命のモチベーションとして独立国の建設というとんでもないことをやろうとしたのではなかろうか?

そんな勝手な想像をしながら、明日の祭を見てみたいと思う。
祭は祀りである。