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昨日、ハコダテ150+スタッフの飲み会があった。私はPLUSになってからのスタッフ参加で、一部の方以外は初めての顔合わせとなるため、当初から最後まで付き合うつもりで飲み会に臨んだ。

一次会・二次会と終わると、H氏が次は『杉の子』に行こうと誘った。柳小路にある今年で開店52年になる老舗舶来居酒屋だ。この52年という数字はすぐ出てくる。何故なら『杉の子』が誕生した年に私も生まれたからだ。そんなことは単なる偶然でしかない。しかし、『杉の子』の亡マスターや妻の千鶴子ママにとってはこれが大きな意味を持つ。この店を開いた年に一人息子が誕生しているのだ。そして、息子は私の小学から高校まで同じ学校に通った同級生でもある。

2階席にスタッフが座ると、彼の姉である元子ママがやって来た。私はママに弟の同級生である旨の挨拶をし、彼の近況を訊こうとした。彼女は私のことを覚えていなかったが、私はよく覚えている。
彼の家によく遊びに行った中学時代、東京の大学生だった彼女が帰省した時に何度も家の中で会っていたからだ。当時から美人のお姉さんで、私も含め他の同級生の憧れの的だった。

彼との関係を説明すると、ママは、偶然にも今彼が出張で来ており、実家に泊まっていると教えてくれた。良かったら連絡をつけてみましょうか、と優しく言ってくれ、その言葉に甘えた。
暫くして、彼と約30年ぶりに再会することとなった。
電話で少し話した後、彼は店にやって来た。私は1階のカウンターに移り、久々の彼とのツーショットを経験した。中学時代、二人で大門で遊んだ帰りに2~3度ほどこの店に寄り、彼の母、すなわち千鶴子ママからソーダ水をご馳走してもらった時もこのカウンターに座っていた。その時から約38年経つが、この店は殆ど変わっていない。変わったのは50を過ぎて若さがなくなったお互いの顔だった。

誰でもが旧友と会った時に話す昔話や「あの人は今」といった話題が続いた。ミュージシャンから作曲家となった水島康宏と同窓会を開いた時には、彼のヒット曲である「ごめんね」を皆で歌ったという話や、中3の文化祭でのフォーク演奏のテープ録音をCD化して大切に持っている者などの話を彼はしてくれた。
想い出話の多くは音楽のことだった。彼も私もミュージシャンになったわけではない。また、彼とは音楽を介しての付き合いだったわけでもない。同じ野球部に在籍していたし、一緒によく映画も観に行った。しかし、想い出として話に出てくるのは音楽の話が多かった。

そう、我々にとって、函館の記憶として残っているは「文化」なのだ。

水島が作曲家となったのも、辻仁成がミュージシャンとなり作家となったのも、私の知人が札幌で高い人気を博している建築デザイナーとなったのも、思春期に函館の文化を享受したからなのだ。

彼との話は尽きなく、途中で一緒に来たスタッフは帰り(最後まで席に戻らず申し訳ありませんでした)、カウンターで酔いつぶれていたTスタッフを横目に見ながら(体大丈夫でしたか?)、我々の会話は続いた。函館のこと、他の友人のこと等々。
彼との会話であることを思った。彼の父、前マスターの亡き後も家族がこの店を守っているのは、彼の誕生で子供が3人となった時の父としての決意の開店であったことと、函館の文化を守るためではないだろうか?そんなことを考えていると、いつしかT氏は帰り、店も閉店の時間となった。

彼の家と私の家は歩いて2分ほどの近さだったため、元子ママの車で3人で帰ることとなった。亡マスターを含め、彼の家族は皆優しい。私や他の同級生はみんなこの家族の関係に憧れていた。
そのためか、どうしても私にとっての『杉の子』は函館の歴史ある名店というより、素敵な家族が営んでいる温かい店という想いがはるかに強い。
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この建物の前面と裏面の道路には古建築物を再利用した洒落た店舗が並んでいる。同建物の左右にあるマンションが違ったものになっていれば、この一帯は明治・大正を舞台とした映画の撮影ができるくらいの街並が残っている。
この2棟のマンションがあるお陰で、明治・大正は垣間見る程度にまで、その印象は薄くなってしまった。

住人が少なくなると街は廃れてしまうため、その器が必要だ。だが、多数の住民を収容できるマンションはどうしても景観を壊してしまう。(マンションが欧米にある洒落たものであるのなら、まだましだが)
結局、西部地区には土地があっても、自由に建てることができる土地がないことが大きな原因だと思う。

民間の活力によって築かれた日本に誇る街並が、民間という壁によって再整備できないのが残念だ。もっとも、行政に頼っても単なる「おいしい公共事業」の対象となるばかりだろうから、やはり、「民間」の公共心に頼るしかないのである。
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青柳町電停近くから谷地頭方面を見る。函館山が目の前に迫り、いつも厳粛な心持になる。

函館にとって函館山は母なる山である。
なにしろ函館の街が始まったのはこの山の麓であったし、函館を「函館」と意識できる人間にとってはこの山を見て暮らすことは空気を吸うくらい当り前のことなのだ。また、その山の加護を受けるかのように作られた麓の街、すなわち西部地区もまた母なる地域である。

ちょっと大袈裟に書いたが、この地域を歩き続けると、そう表現したくなる気持ちになる。
私はよくカメラを肩に掛け西部地区を2~3時間散策する。(冬期は根性がないため車か短時間の散歩になるが)それだけ歩けば当然足腰に疲労が来るが、気分だけは一向に萎えない。持久力のある肉体を持ち家族サービスの遂行義務がなければ、1日中でも歩ける。時にはベンチで休み、時には喫茶店でお茶を飲み、時には博物館や文化施設に立ち寄りながら朝から夕方まで過ごせる自信がある。

こんな街はそんなにない

以前住んでいた新潟県上越市(特に天地人で有名になった旧高田市地区)の寺町や古い町並みが残る本町・仲町などの見ごたえのある所でもそんなに長く歩けなかった。長期出張した長崎でも静岡でもそんな気になれなかった。
何故だろうか?
正直、上手く言葉では表せない。言えるのは、この地域を歩くと時間がゆっくり流れ、その流れの大きさにじたばたする気が全くしなくなるということだ。心が穏やかになり、行き交う老人の歩く遅さが、人間の本来の歩くスピードであると自然に思えてくる。それに逆らって歩くことは冒瀆であり、生き急ぐ人間には母なる山の加護を受けれらなくなるぞ、と忠告されるようである。

やはり上手く表現できなかったが、嘘だと思うなら1日の予定を無くして、静かに気ままにこの地域を歩いてみるといい。何度かそれを繰り返すと私の言いたいことも少しはわかってもらえるかもしれない。