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末広町、グリーンゲイブルズ。

4月になれば彼女はやって来て、楽しい恋が始まるのですが、7月になると彼女は去り、8月には死ぬだろうというはかない恋の、サイモン&ガーファンクルのとても短い歌です。

まるで、これから葉がつき、花が咲く草木花のようですね。





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松前・法源寺山門。国の重要文化財に指定されている。

非常に個人的な話であるため、他人の、ましてその本人が話す物語なぞ関心がないという方は、読んでもさして面白いものではないので、無駄な時間を費やしてしまうでしょう。暇つぶしにという方だけ読んでください。

それは、昨年のことだった。ある時、両親から墓の話を持ちかけられた。両親も高齢であるためその話が出るのは当然のことだと真面目に話を聞くと、函館に墓を作りたいとのことであった。私は少々驚いた。私は父の先祖代々の墓に入るものだとばかり思っていたため、予想外の展開に少し頭が混乱した。
両親は、墓参りには函館の方が便利であろうということが、一番の理由に挙げた。まぁ、確かにそれはある。父は渡島当別の出であったし、母は上ノ国の出であった。母の先祖の墓に入ることはないにしろ、子供(つまり私と妹)や孫が墓参りするには年齢とともに大変になるのではとの思いからだった。

そこで改めて両親の宗派を確認しようとした。その話をすると自然と先祖の話に移って行く。今までも機会があればさり気なく訊いていたが、この時は真剣に聞いてみた。そしてわかったのが母方の祖母が上ノ国の「カキザキ家本家」の出であったことだった。
この話は機会あるごとに聞いていた。しかし、真剣に聞いていなかった私は「上ノ国・原歌の柿崎さん」という家の本家の出であるとばかり思っていた。それ故「ふーん」という生返事しかしていなかった。田舎は何でも本家別家という呼び方をするため、そんなものだろうという程度のものだった。

ところが、きちんと話を聞くと、どうやら松前藩を起こした蠣崎家であるようである。それも、上ノ国町役場の方(恐らく教育委員会の方と思うが)が町史を調べた上での「お墨付き」のようだ。
その本家に私は行ったことはないが、母は実母の実家ということで何度も訪れており、また、上国寺にある蠣崎家先祖代々の墓に何度もお参りをしたそうだ。上国寺の墓の隣接する墓は全て松前藩士のものであったという。(現在は寺の墓地内で移設をしたため、昔と違う場所にある)

松前藩の歴史をご存知の方にはおわかりいただけると思うが、藩主の松前氏は蠣崎から姓を変えたものであり、松前に藩を築く前は原歌の勝山館の館主であった。今、本家は勝山館のすぐ近くに家を構えている。
松前藩は代々藩主は松前家から、家老は蠣崎家からというならわしになっていた。(松前家に該当者が見当たらない場合は蠣崎家から養子となって用いられた者もいるようだが)
つまり、代々家老を輩出した家である可能性がある、武家であったのだ。

これを知って、私は今まで疑問に思っていた多くのことが氷解していった。
まず、祖母である。祖母は農民だった。毎日朝早く畑に行き作物を確認する、どこにでもいる農民であった。しかし、なぜか農民らしくなかった。口数も少なく、どんなことがあっても常に毅然とした態度を取っていた。他で見る農家の女性とはちょっと違うと子供の頃から常に思っていた。
それが武家の出であるとすれば納得できる。
また、早く死んで微かな記憶しかない祖父も、農民でありながらよく筆を持って何かを書いていた。祖父も同じく農民らしくなかった。

次に私である。私が今まで移り住んだり出会った人々は、松前家にとっての敵ばかりだった。
二度も転勤で住んだ新潟県は、蠣崎家を蝦夷地支配者にさせた養子・武田信広、武田家の敵の上杉謙信の地であった。
失地回復のために最後は官軍として箱館戦争に参戦したが、本来であれば敵であったかもしれない天皇家の分家の方にも石狩でお会いした。
また、蝦夷地支配のきっかけとなった「コシャマインの戦い」「シャクシャインの戦い」の敵アイヌ人が今でも多く住む苫小牧に通例の期間を超えて赴任していた。
その他、あまりにも個人的なことでここでは書き表せれない出会いの数々がたくさん結び付いて行ったのだ。

私は昨年、初めて松前の法源寺に行った。松前家の法幢寺の隣の蠣崎家諸氏の墓がある寺だ。山門をくぐり少し歩くと右手に蠣崎波響の墓があった。
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波響は恐らく祖先が殺戮したアイヌ人への贖罪の意味を込めて「夷酋列像」に代表されるアイヌ人描写をしたのではないだろうか、と思った。
私も同じく贖罪をしなければならなかったのだろうか?墓に向かってそう問うたが、返事は無かった。まさか、そんな大袈裟な役目が私にあるわけがない。馬鹿な妄想はやめよう。

そして、心の中で「帰って来ました」と呟いた。

私のようなつまらない人生を送って来た者にも、このような物語があった。妄想だと思っていただいても一向にかまわない。自意識が強いと思われてもかまわない。
ただ、これだけは確かだ。

「物事はある時、一つの結論を導く方向に全てが向かっていくことがある」

人には知られざる物語が多くある。私は、今後ハコダテ150+にて、有名無名な人々の物語を取材しご紹介して行きたいと考えている。
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今日夕方の穴間海岸。若干晴間が見えたが、依然強風が吹き波が高かった。車と眼鏡が潮だらけになってしまった。

先日、会社で雑談をしていたら、話の流れで私が相馬哲平のことに触れた。話し相手の20代の社員はきょとんとした表情をみせた。相馬氏が何者なのか全く知らなかったのだ。すると周りで聞いていた社員たちから笑いがこぼれた。
30代の管理職社員は「今の若い人はそんな古い人のことは知らないよ。私もおばあちゃんから話を聞いたから知っているけど、親からは一言も聞いていない」と、まるで私が大正時代の人間かのように揶揄した。私をフォローする者は誰もいなかった。

私は危惧を覚えた。ある程度は予想できていたことだし、私の年齢からいって古い人間と言われても仕方ない部分は確かにある。
問題は「今の若い世代」に函館の歴史を何も伝えない一般家庭と教育機関である。私自身函館の歴史的事実を知り関心を持ち始めたのは30代後半からだった。やはり、10代の頃には何も教えられてはいなかった。だから、相馬氏を知らなかった20代社員や笑った周りの社員自体を批判するつもりはなかった。
危惧を覚えたのは、私の話が古いという認識を持つ風潮のことだ。

人間、多かれ少なかれ自分のルーツというものに関心を抱くものである。信じるかどうかは別として、あなたの前世はと言われたらなぜか聞き入ってしまう。それは、今ここに存在している自分というものを確かめたいという意識から生じるものである。社会という大きな世界の中で自分の足で歩こうとする時の心の支えとしようとするものである。
函館の歴史を知ろうとすることは、自分のルーツ、すなわち家系図を辿っていくのと同じ意識から自然に生じてもおかしくない現象であるはずだ。また、それを伝えて行くのが中高年世代の役目であるはずである。
ところが、函館の人(北海道全体に言えることだが)は、まるで生まれたらすぐに自分の力で立ち上がり、一人だけで生きて来れたかのように「歴史」というものを軽く扱う。数々の環境という外的要因にも影響を受けながら今の自分に至ったということを認識する風潮はない。だから次の世代にも伝えようとしない。

本州では、北海道人にはきっと理解できないであろうと思うほど地元に対する歴史の意識が強い。甲州では今でも武田信玄のことを悪く言ったら喧嘩になるという話を聞いたことがある。また、信州とか備前のような江戸時代の呼称を今でも大切に守っている。北海道を蝦夷と日常的に呼ぶ人間はいない。
確かに北海道は本州からの移民によってできた土地だ。(この表現は多少自分でも疑問を感じる。先住民族がいたからだ)そのせいか、あまり過去に囚われない自由な風潮があるという側面もある。しがらみが無いということだ。しかし、歴史を語り継がないということとは別のことである。悪い意味での「軽さ」である。

美瑛の丘を見、帯広近郊の牧場や畑を見て、綺麗だとか広大だとか感じることはあっても、その地を何十年にも亘って耕したすさまじい労苦を想像する人間はどれだけいるだろうか?明治時代にトラクターが既にあって、1~2年で作られた風景として見てはいないだろうか?
そんなことに危惧を感じた私は、笑った社員たちに向かって思わず少しむきになって話した。
「今まだ函館が30万人近い人口がいるのは、北洋漁業やドックが駄目になっても、相馬哲平の時代の人たちが建てたものを見に来る観光があるからだ。もしそれが無かったら、今頃函館は10万人台の都市になってしまっていたかもしれない。その観光で継続している仕事があるから市中に金が回って自分たちが今働くことができているのだ」と。

私のような考えの者は、もしかしたら函館において少数なのかもしれない。確かに私の母方の祖先は遠く室町時代かそれ以前から道南に居住していた家系だ。それも私の無意識のどこかにあるのかもしれない。
次回は非常に個人的なことで恐縮だが、私の祖先のことについて話します。