ガラスの言葉/1970年代(3)_a0158797_1955454.jpg
南部坂の「ごはんカフェ sugar」にて。



吉田拓郎のこの曲、「ガラスの言葉」が入っているアルバム、「元気です」は1972年に発表された初期の拓郎の名盤であろう。「春だったね」や「せんこう花火」、「りんご」など不思議な歌詞の歌がいくつか収められている傑作だ。
「ガラスの言葉」を聴くと、函館公園の図書館の3階を想い出す。静まり返った館内に、気が付くと静かに伸びていた陽と影。そんなイメージだったし、私の高校時代はその光と影を見続けていた。

窓ガラス越しに風景を見ると、ちょうど窓枠が絵画の額の役目をして、風景がひとつの絵となった。その絵からは、歌が生まれ、詩が生まれ、小説が生まれた。私はその絵をじっと見ていた。

このアルバムに、もうひとつ名曲がある。「祭りのあと」という曲である。この曲は、拓郎のファンでなくても心に染みる曲だと賞賛した。そう、ちょうど学園闘争が終焉を迎え、運動を行っていた者たちがどこに向かって自分たちが進んでいけばいいのか、虚しさの中で彷徨っていた頃の曲だ。



70年代は、詩的な時代でもあった。


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ミスリム/1970年代(2)_a0158797_221722100.jpg
この写真も、写真展で展示しています。ただしL判の小さいものですが。

函館の行啓通を本町交差点から下っていくと、赤川通りと五稜郭タワーへ続く高砂通りに分岐するあたりに、高校時代、「チボリ」という喫茶店があった。この店で、私は嫌というほど荒井由実(当時)を聴かされた。行けばユーミンがかかっていることを知っていながら何度も行ったから、決して嫌ではなかったのだろうと思う。
当時、荒井由実のアルバムは、まだ「ひこうき雲」(1973年発表)と「ミスリム」(1974年発表)の2枚しか発表していない頃だったため、この両方を交互に何度も繰り返して流していたことになる。

2枚のアルバムの中でも「ミスリム」は私に大きなカルチャーショックを与えた。それまでどちらかと言うと泥臭い音楽ばかり聴いていた私にとって、洗練された都会の音楽であった。
函館という地方都市では考えられない、思いも付かない音楽だった。東京の山の手あたりで、木陰のオープンカフェで聴くような音楽だった。

バックミュージシャンも凄かった。ギターに鈴木茂、ベースが細野晴臣、キーボードに松任谷正隆、ドラムが林立夫、バックコーラスがSugar Babe、即ち山下達郎や大貫妙子という、超豪華なメンバーであった。
当時、ユーミンの歌はともかく、演奏だけでも聴きたいという者までいたほどだ。

そんなミュージシャンの演奏で作られた「ミスリム」の中の1曲。「12月の雨」。



明日もまた雨であろうから、朝少し遅く起きてから、もう一度聴いていただきたい。

荒井由実といえば、1975年(だと記憶しているが)に初めて函館でコンサートを行っている。ところが、ソロコンサートではなかった。今では考えられないカップリングなのだが、ダウンタウンブギヴギバンドとのジョイントコンサートだったのだ。東芝EMIの企画であったためだと思うが、当時両者とも売れ始めてきた若手ミュージシャンだったが、まだ地方でソロコンサートまでという段階だったのだろうか?ともかく私はその贅沢なコンサートで、会場設営手伝いという名目で中に入り、無料で観た。開場前、ユーミンが会場視察のため市民会館大ホールの中に入った時、私のすぐ横を通って行った。ポニーテールとホットパンツという、いかにも彼女らしい格好だった。

もちろん何も手伝いもせずに無料で観たわけではなかった。私の役目は、客席最前列とステージの間に陣取り、ステージに上がったり詰め寄ったりする観客を抑えるものだった。だが、函館のお客さんは物静かなため、そのような心配をすることもなく、ずっと両者の音楽を楽しむことができた。

最初の出演はユーミンだった。アルバムと同じような都会的でポップな音楽を次々と繰り広げていた。ところが、そこは函館だ。
当時キャロルが解散して、そのファンが新たなバンドを待望していた時にタイムリーに「港のヨーコヨコハマヨコスカ」が大ヒットしたダウンタウンブギヴギバンド目当ての、髪をリーゼントで固めた高校生たちが会場の多数を占めていた。
彼らにはユーミンの音楽は退屈に思えたのだろう。曲の合間にユーミンをからかい始めたのだった。最初、ユーミンは無視するようにしていたが、何度も繰り返される中、遂に彼らに向かって強い口調でこう言い放った。「おだまり!」
一瞬で会場は静かになった。私も唖然とした。と同時に、「この人は大物になる」と思った。そしてその通りになった。



ミスリムのトップを飾る曲、「生まれた街で」。バックの演奏も素晴しい。

昨日の暑さから一転して、ほぼ1日中の雨で、少し風邪気味になってしまいました。どうぞ、みなさまもお体には気をつけてください。


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プカプカ/1970年代_a0158797_2275567.jpg

ザ・ディランⅡ(セカンド)というデュオがあった。西岡恭蔵と大塚まさじのコンビだった。
この曲は、名曲と呼ぶ以外思い付かない。何人ものシンガーがカバーした。私も、70年代当時東雲町にあったGreengrassのミニコンサートで歌った。お客さんは喜んで聴いてくれた。

「プカプカ」(1971年発表)


70年代、今では伝説の居酒屋と呼ばれている、札幌の「エルフィンランド」という店によく行った。ある日、いつものようにカウンター席に座ると、店員の大槻まさしさんが、私に目配せをして左側を指した。そこで左側を見やると、一席挟んで隣に大塚まさじさんが座っていた。せっかくの話せるチャンスであったのだが、若かった私は緊張して何も話せなかった。いまだったら図々しくべらべらと本人と話すのだろうけど(笑)
夢のようだった。大槻さんに後から聞いたら、大塚まさじさんはよく札幌に遊びに来ているようだった。

エルフィンランドを経営していた中島洋さんは自主映画制作などを経て、現在「シアターキノ」を経営している。店員の大槻まさしさんは、一時道内向けの深夜TV番組で音楽や映画の情報を伝えていた。今、彼は何をしているのだろうか?
その頃、村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞をもらい、映画化もされていた。私がエルフィンランドで酔っ払い、地下街の通路に座り込んでいたところを、たまたま妹と友人が通りかかった。妹は、友人と映画館で「限りなく透明に近いブルー」を観た直後だった。友人と「何か薄汚くて嫌な感じの映画だったね。あっ、あそこにそんな感じの人がいる」と話した「そんな感じの人」が私であった。



中学生の頃、深夜放送を聴いていると、突然この曲が流れて来た。吉田拓郎の番組だった。当時から独特の雰囲気を持っていた。あの声でこの歌を歌われると、歌詞が全て納得できた。1972年発表の「ぼくの好きな先生」だ。

ザ・ディランⅡの西岡恭蔵も忌野清志郎も死んだ。どうして名曲を作る人は、早く死ぬのだろうか?70年代は日本もアメリカも混沌としていた。だが、人に影響を与える文化の力は強かった。そんな強烈な文化は今では発生しないだろうし、また、生み出すほどの能力もない自分がもどかしい。


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