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新川町のせともの屋さん。毎日朝早くから店を開き、ご覧のように店外にもきちんと陳列している。

約6年くらい前、札幌の近郊のお客さんの所に仕事で訪問した時のことだ。
約束の時間に玄関のインターホンを鳴らした。ご老人であるお客さんは返事よりだいぶ遅れて玄関の扉を開けた。そして開けるなり「ごめんね、鍵かけていて。最近この辺物騒だから」と謝った。
当時札幌に住んでいた私にとって何も謝るようなことではない、普通のことだと不思議に思った。

室内に招かれ、椅子に座ったところで、ご老人は「何ヶ月前にたぶん札幌から来たのだと思うけど、空き巣集団が車で来て、留守宅から物を盗んで行ったらしい。この町にはそんなことする人はいないから、たぶん札幌の人で間違いないと思うけど、ここに住んでから初めて鍵閉めるようになった。本当に嫌だねぇ」と、鍵をかけていた理由を話した。

私は少し考え、ここでは家の鍵を開けておくのが礼儀なのだろうと推測した。それはおおよそ当たっていた。
この家には町の人がチャイムも鳴らさず玄関ドアを開けて入ってくるのが普通の当り前のことだったらしい。昔、母の実家(ど田舎)に行くと、近所の人たちが何の前触れもなく突然勝手に玄関を開けて家に入って来たのを何度も経験した。
恐らく今の函館でも、特に高齢者の家ではこのようにしている所があると思う。

鍵をかけるということは、人を拒絶することであるということなのか。
私はそのように思える。人を信頼していれば鍵などかける必要はない。近所の人との交流がご飯を食べるのと同じくらい当り前だったら、拒絶する理由もない。

しかし、現実にはそうはできない。鍵をかけなければ空き巣に入られ、被害に会う。鍵どころか警備会社のセキュリティ・システムを利用する者だっている。そんな人は、先ほどのご老人の町では失礼極まりない人間となるのだが、札幌などの都市部では危機管理能力がないだけ(そこまで大袈裟ではないが)と言われる。
つまり性善説が前者、性悪説が後者ということになる。
どちらがいいのかどうかは別として、世の中の大勢を占めるのは後者だ。盗まれる人が悪い、騙される人が悪い、ということだ。だから、私を含め皆、無意識のうちに心にも鍵をかけてしまっているのだ。
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大森浜。今年3月撮影。

函館はもう少しで5月になろうとしているのに一向に暖かくなりません。春よ来い、という気持ちが通り過ぎ早く夏になってほしいという気分になろうとしています。

そこで、気分だけでも夏になろうと、山下達郎の「Your Eyes」をご覧ください。写真の山の残雪を見なければ多少夏みたいな気分になるでしょう。(無理があるか)



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函館海産商同業組合。玄関周りや階段等細部までそのセンスが際立っている関根要太郎の傑作だ。バル街はこの辺りが中心地として行われた。

長年函館に居住していなかった私にとって、バル街に行くのは初めてとなった。以前から行こう行こうと思って、バル街だけではなく他のイベントにも都合等でなかなか行けなかった私にとって楽しみにしていた大イベントである。
その時のリポートはハコダテ150+の特集でお知らせすることになると思うので、ここではたぶんリポートでは書かないだろうと思う雑感を記したい。

バル街には会社で手を挙げた女性2名と一緒に行った。2名とも私と同じく初めてのバル歩きとなったが、雑談の中で、この企画が日本で初めて行われたものであることと、本州の他都市から視察が訪れるくらい注目されているということを知らなかった。
恐らく港祭りやクリスマスファンタジーのように他都市でも類似するものがあるもののひとつとして捉えていたようだ。

深谷氏の努力がまだ市民には浸透されていないようだが、実際に行ってみて秋にも是非行きたいとの感想を持ったようで、どうやらその楽しさを満喫できたようだ。もちろん私も。
このように少しずつでも市民に広まり、参加店舗の良さや西部地区の趣と函館市民の反応を肌で感じてもらえたら「街」という意識も少しずつ変わっていくのではないかと思う。この形式が全国的に拡がり、知名度がより高くなったら、逆に函館市民にもより知れ渡り失っていたプライドが回復されるのではないかと思う。

そして、自分たちはまだ何かをやることが出来るという自信につながるのではなかろうか。この企画は行政からの補助を得ずにまったく独自で運営されているという。もっと市民や観光客が増えたら、逆に行政を動かすことができる可能性だってある。
このような発想と行動力があるところが函館の素晴しい特徴である。だから、色々文句を付けながらもこの街が好きでたまらないのである。ただ住んで働いているだけの街にはない、市民であることの喜びを実感できる街なのだ。

西部地区には函館についてあーだこーだと言ううるさい人間が多くいる(私を含め)。だが、そのあーだこーだの中から函館が持つ良さを表現するための新しい発想が生まれて来るはずである。だから私もいつまでもあーだこーだと喋っていくつもりである。