家事を火事と聞き違えると・・・_a0158797_21432690.jpg
函館どつく前停留所の風景。

先日、妻が持っている「シンプルライフをめざす基本の家事」(婦人之友社刊)という本を、妻がいきなり私に向かって読み始めた。きっと、もっときちんと家事をしなければという意味で読んだつもりだったのだが、私にはその前にTVニュースで放火の事件報道を見ていたせいで、家事を火事と聞き違えてしまった。

すると、妻が読んだ文章がとても恐ろしくなってしまった。

読んだ部分のタイトルは、「家事とは何でしょう」なのだが、私には、「火事とは何でしょう」というタイトルであると思い込んでしまった。そして、読者アンケートの回答が紹介された。

「生活を楽しむこと、生きていることを実感できること」

「火事は科学的であり、合理的であり、物への愛から始まると思います。愛のない火事は労働に過ぎず、疲れたり退屈したりして、楽しくできないのではないでしょうか」

「人は一生見える火事をしながら工夫することや気づくことが多く、見えないところまでも成長させてもらるかと感じている」

「火事は楽しむことが大切です。私は友人の家、知人宅へうかがうのが大好きです(後略)」

「何のことも、わが家はよき実験室と考え、家族も巻き込みながら実験し、成果を楽しんでいます」

「小さな達成感が、あちらこちらにあります。昨日までの自分が、できなかったことが上手にできた時や、より合理的な火事に気がついたときなどは、自分で、自分をほめたくなります」

ちなみに、「火事とは何でしょう」の隣には、小見出しとして「ときにはめんどう、おっくう。でもそれがあることで癒されたり、成長させてもらったり・・・・。あなたと火事とは今、どんな関係ですか?」とあった。

もちろん、本当は火事ではなく、家事であるのだが、日本語ってやっぱり難しいものですね。(それは私だけのことか)


いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)
人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
 
函館写真_a0158797_2115936.jpg

最近、写真だけのブログを作りたいと思うようになってきた。特別撮影技術が優れているわけでもない私がそう思うのもおこがましいのだが、いつも写真を撮っていると、このブログのように、何か文章を加えてひとつの記事にしているものとは別の、単純に写真だけを楽しむものが欲しいと思って来た。

そう思うようになったのは、やはり人物写真が撮りたいという欲求を抑えることができなくなったのが大きな理由だ。上の写真は試験的に撮ってみたもので、人物写真の勉強はこれからだが(普通の写真ももちろんこれからだが)、何か文章を書くと、その内容と写真が影響しあうような気がしてならなく、それが風景写真であればまだいいのだが、人となると、その人への影響も与えてしまうのではないかという懸念も持ったため、写真だけの方がいい場合もある。

また、そうすることによって、被写体も変わるのではないかという、自分への期待もある。
そして、そのブログタイトルを「函館写真」というシンプルなものにしようと考えている。函館で撮った写真は函館らしい風景写真ではなくても、全て函館写真という自分の括りにしたい。上の写真も、モデルの方が函館在住の方であるので、函館写真という大雑把な括りだ。

そして、もし可能なら、プロ・アマ問わずに函館で写真撮影している方の写真も紹介していきたい。そんなことを考えているこの頃です。実は、上の写真、h氏のブログにあった写真の切り取り方を真似てみたのだが、色々な意味でまだまだである。h氏もどうですか?

まぁ、まずは本人がブログを立ち上げなければどうしようもないので、ここ1ヶ月のうちに何らかのアクションを起こしたいと考えています。具体的になったらまたご報告いたします。


いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)
人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ
 
会社は誰のためのもの?_a0158797_22182715.jpg
ハリストス教会の階段。

何年前だろうか?会社は誰のためのもの、という議論が盛んに行われたことがあった。有識者たちは、株主のためのもの、社員のためのもの、などの意見に分かれた。この時、私はある意見が出ていないことに気が付いた。
そんな折、新聞にある大学の教授の意見が掲載された。その方の考えは、「会社は社会のためのもの」というシンプルなものだった。私もそう思っていた。そうあるべきだと強く考えていた。

だが、現実はやはり違う。
本日、電力会社の株主総会が実施され、質疑応答の動向がニュースで報道された。焦点は脱原発であった。株主の一部が脱原発を訴え採択が実施されたが、反対多数で否決となった。
当然の結果だと思った。株主総会で脱原発が採択されるとは全く思っていなかった。ある投資コンサルティング機関(?)の者のコメントでは、原子力の代替発電方法が確立していない時点で、脱原発を謳ったら、その電力会社への経営不安が増幅され、必然的に株価が下落するからだ。

もし、私が電力会社の株を保有し、資産の配分上大きなウェイトを占めているものだったら、原発継続に賛成してしまうかもしれない。やはり、自分の資産価値を下げたくないからだ。
社会に対する影響よりも自分の財産を守りたい。それも無理もない話だ。このような心理はどんな場合においても働いてしまう。それが人間の業だ。

本ブログでは何度も何度もくどくど言っているが、資本主義は「自分さえ良ければ、人などどうでもいい」という考え方だ。だから、冒頭の事案で議論しても、「会社は社会のためのもの」という意見がなかなか出ないのだ。
しかし、それでもあえて言う。この社会で能動的に影響を与えている組織は、全て社会のために存在しなければならない。小さな単位が集合して社会を構成している。小さな単位でも、同じ方向へのベクトルを共有すると、大きな力となり、社会に大きな影響を与える。だから、会社は社会のためのものでなくてはならないのだ。

自己の利益という利害に挟まれて物事を考えると、公共性を失うことが多い。もちろん、未熟な私にはそんな誘惑に負けてしまうことが数多くあるため、偉そうなことも言えないのだが、どうせ貧乏なのだから、同じ貧乏なら世の中が安心できて、より平和な貧乏の方がいいと思ってしまうのであった。


いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)
人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ