ティーショップ夕日にある大型オルゴール。下のボックスには何枚もの「替えの盤」がある。
本日、東北新幹線が全線再開した。そして、プロ野球楽天が地元初試合を勝利で飾った。東北の方々には、震災以来初めて共に喜びを分かち合える日となった。
ニュースを見ているこちらまで嬉しさを隠せなくなってしまった。
この度の震災で、私たちは多くのことを知った。色々なものが東北地方で作られ、私たちの生活を支えてくれていたのだ。地味で「地方」という文字が似合う地域が、実は私たちにとってなくてはならない存在であったのだ。
ある東京在住の方との話でこんな言葉を聞いた。
「今回のことで、どれだけ東北の犠牲によって自分たちの暮らしが成り立っていたのかを知った。電力もそうであったし、たくさんの物も作られていた」
その通りだ。都会の論理が成り立つのは、地方があってのことだ。だが、経済社会は都会と世界を中心としたものとなっている。足元を見ない、空中での経済活動に終始している。
これが、大都市と地方のバランスを保ち包括できる経済論理を考えたら、恐らく今経済先進国と呼ばれている国々の中で、根本的な経済改革を起こすであろう。物事の重要性の認識のバランスが大きく変わるはずだ。
元来、人間にとって不必要なものは、仕事として存在することはできない。必要があるから仕事になるのだ。医者とゴミ収集、必要性という意味では同格だ。ところが私たちはそれに差別をつけている。
都会に住んでいると、そこが全ての基準となってしまうことがある。ところが、都会は大いなる消費
する「地方」にしか過ぎない側面を持つ。消費が中心の論理では、もうバランスが取れないことを私たちは学んだはずだ。
いつもお読みいただきありがとうございます。どうかクリックをお願いします。
にほんブログ村