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昨日の報道番組で、陸前高田市の造成された「新市街地」に津波によって店舗とその経営者である父親を失った方が新しい店舗で営業を始めたという内容のものを見た。その映像を見て、いても立ってもいられなくなった。

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そうだ、私は約1年1か月前にそこに行ったのだ。正確に言うと、その新市街地には行っていない。そもそも新市街地が私が見た風景のどこに位置していたのかもその時はわからなった。

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だから私には「新市街地」について語る資格などまったくないのだが、なぜかその時自分が撮った写真を改めて見たくなってしまった。そしてその写真は公開すべきではないと思っていた写真だった。<br>

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写真を撮るには何らかの理由がある。その風景がきれいだったから、とか、その一瞬を記録しておきたかったから、被写体をこう撮ったら編集・加工して自分が想定している写真に仕上がるからとか。ただ何となくでも立派な理由だ。

だが、私が撮った陸前高田の風景は、せっかくここまで来たのだから何かを撮っておきたいという不純な理由からだった。それは、見事に写真に反映されてしまった。この写真をご覧になった方は、きっと何も感じないでしょう。ただの土木工事風景だと思うかもしれません。それは当然だと思います。撮った人間の心が不純だったからだ。

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陸前高田に着いた時、私は愕然とした。何もないからだ。それは津波によってそのあたりの全てのものを奪い去られたから、というのは頭では理解できた。だが、感覚としては全く理解できいなかった。私は混乱した。こまで来ていったい何を自分の頭に記憶し、写真に記録したらいいのだろうか。まったくわからなかった。またその必要はあるのだろうか。被災地という名を持った街を訪れることだけに意義を持っていたのではないだろうか。色々考えた。その混乱がそのまま写真に出ていた。

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それはもちろん陸前高田という街のせいではなかった。撮る側の問題だった。何もないもの撮るという心のレベルに達していない人間の問題だった。だから被災地から帰って来てから陸前高田で撮った写真を公開したのは「奇跡の一本松」だけだった。それしか出せなかった。

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だからこれらの写真はずっと封印していた。今回やっと公開しようとしたのは、津波の恐ろしさを知らせるためでもなく、被災地の惨状を伝えるためでもなく、ニュースを見た時に感じた、自分はもとよりたぶん多くの人々が「何もない」ということを心から実感できていないだろうと思ったからだ。

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そもそも複数の被災地を1日で駆け巡ることが大きな間違いだった。そのことで自分を責めた。今度被災地に行く時は、車をどこかに停め、自分の足で街を回りそこの底流にある事実を把握しなければならないと痛切に反省した。

あっ、そう言えば南三陸町のさんさん商店街のお土産さんのご主人に約束していた。また来ます、と。今度は時間をかけ、自分が理解までとはいかなくても、心に何かをおさめることができるまでその場に時間の許す限りいつづけようと思った。

1年以上経ってやっとそのことが言えた。



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しばらく体調を整えることを優先してブログの更新は鈍くなりますと言って間もなくですが、どうしても述べさせていただきたいことができ、今日はちょっとだけ無理して投稿したいと思います。

みなさんニュース等で既にご存知であると思いますが、衆議院が解散する前後から政界に大きな動きがありました。
その内容については、私よりもみなさんの方が詳しいかもしれませんので説明は省きます。でも、実は3か月くらい前から解散総選挙が近いことはわかっていました。その理由を具体的に述べることはできませんが、ひとつだけお話ししますと、実にわかりやすい行動をした方がいらっしゃったからです。しかし、具体的にいつ、どのような大義名分で解散をするのかまではわかりませんでした。

ともかく自民党の中では着々とその時に向かっていたのだろうと思うのですが(もちろん推測しかできない)、まさか国会の休会中に今回の臨時国会で何の審議もせずに、首相の権限を利用して解散するとは夢にも思いませんでした。しかし、よく考えてみると、私ごときがそれを察していたのですから、その前から当然小池東京都知事も解散はあるとの前提で自らの政治塾を作り国会への進出(知事自らかどうかは別として)を画策していたと思います。
恐らく水面下での駆け引きを私ごときで想像できないほど緊迫していたのではないかと思います。安倍首相としては、森友・加計問題や度重なる自民党議員のスキャンダルから国民の関心を逸らそうと画策していたのかもしれません。でも、それが目的であるならば、昨今の北朝鮮問題は格好のエスケープのための題材となり、より戦略的にそれを強調すれば済んだはずです。実際に私たち国民はかつてないほどの危機を感じているのですから。まだまだ寝ていたい早朝のエリアメールは、効果としてはそれはもう絶大なものでしから(笑)ところがそれを思っていたほどせずに、「よくわからない解散」をしてしまいました。ひょっとしたら安倍首相は北朝鮮よりも小池知事の方に危機感を感じていたのでしょうか。つまり小池体制が整う前に選挙をやってしまえ、という単なる戦略だけのための解散だったのでしょうか?もしそれが本当だったとしたら、私たちの税金の600億円を超える額を、「都合」だけで使われてしまうことになります。

もう、これは政治ではありません。税金を使って演じる茶番劇です。そして、その茶番劇のドタバタに、より効果的に加わったのが小池知事であり民進党でした。解散対策として(あるいは既に計画していたものを急遽前倒しして)小池知事は新党を立ち上げました。自らの都知事当選に加えて都議会選での圧勝を受けて恐らく小池知事は「私は人や政界を動かせることができる」という「おごり」を持ってしまったかもしれません。ですから、国会にも自分の影響力を知事という立場でも充分効果的に発揮できるのとでも思ったのでしょう。ですが、実際小池「人気」はそのドラマの脚本の作り方によって、より国民の話題となり(あるいは話題となるように発言をして)想定に近い進行でことを進めているのだろうと思います。その「おごり」の段階に入りつつある小池氏に民進党は身を任せることを決断しました。
政策で合意できるかどうかもじっくり話し合わず、小池氏に立候補者の選択を事実上一任してしまったわけであります。これで茶番劇の登場者が全て揃ったわけであります。(これからも増えるかもしれませんが)

この茶番劇を見ることになってしまった私たちは、この劇の流れのままでは、多額の税金を使う選挙に投票という観覧料を支払ってしまうことになります。私たち国民を愚弄した策略家同士の戦いに結果的に料金まで払ってお付き合いしてしまうことになるのです。正直言ってくだらない映画を強制的に見せられて入場料を取られるようなものです。

ではなぜこうなってしまったのでしょうか?もちろん一つの要因だけではなく、私たちが知らないような永田町の事情もあるのでしょうが、根底には日本国が採用している政党政治というものの欠陥部分が具象化された結果ではないかと考えています。政党が支持を多く集めると、どんな無能な議員でも当選してしまう可能性があるからです。それは、どこの党にも共通する欠陥です。私たちが一生懸命考え、国の議会での代弁者として「代議士」を選ぶという民主的行為は、その政治家が所属する政党の方策によって歪められることも多数あるでしょうし、そもそもその政党に所属していたから政治的主張がほとんどなくても「国会議員」に就職できてしまうという、おかしなことが起きてしまうのが政党政治であります。

大きな党を作ってしまえばいいんだ、そして、大きな党に所属していればいいんだ、そういう動機が生じてしまうのが、この国の大きな欠陥であります。また、国民の直接投票による最高責任者(日本では首相・他国では大統領)を選ぶことができないということも大きな欠陥であります。今の法律では多数勢力を作ることが大切で、健全な国会議論は場合によっては「たわごと」にしかならないのです。
しばらく野党に勢いがないとみた自民党は「独裁的」に物事を推し進めました。しかし、突然「希望の党」という小池氏の独裁政党が誕生すると、自民党という独裁政党はあわててしまいました。しかし、冷静に見ると、独裁同士が争うという構図はとても非健全的なのではないかと考えてしまいます。
最も理想的な政治形態は、保守とリベラルの力が均衡し、それぞれのいいところが国策に反映されるというものがとても健全であるはずなのです。しかし、現実ではそうではありません。保守と保守改革というよく理解できない構図に政界はなろうとしていますし、話題もそんなことはお構いなしに、安倍が勝つか小池が勝つかに集中しています。まるで安っぽい2時間ドラマを見ているようです。健全な政治とはかけ離れてしまっています。

では私たちはどうしたらいいのでしょうか。もう、政党がどうこうではなく、立候補した者の能力を優先して投票するしかないのではないかと思います。
明治維新はなぜ見事に出たのか。これも一言では決して言えませんが、少なくとも優秀な政治家・思想家が多数存在していたから成し遂げられたのだと思います。黒船来日という当時では考えられないような出来事が起こり、国家の危機感を強く感じた者たちが必死に考え話し合い、その中から優秀な政治家を輩出できたから明治維新は、クーデターではなく、日本の歴史の分岐点として位置づけられているのです。その優秀な政治家たちは今でも大きく改正しない民法を作りました。民主主義というものを真剣に考えたから今でも通用するものがたくさんあるのです。

さて、今の日本にそれほどの政治家はどれほどいるでしょうか。風見鶏的な行動や、長いものにはまかれろ的な発想からは健全な議論ができるわけはありません。もちろんこれは今に始まったことではありませんが、特に北朝鮮と米国間の間に入ってしまっている日本の危機という状況ではそんなのんきなことなど言ってもいられません。特に今、私たちには「有能な国会議員」が必要なのです。もう政党などどうでもいいのです。しっかりした政策を立てて提案し議論し実現できる能力あるそんな議員が必要なのです。地方に仕事に持って来るという飴を提供すると見せかける傍ら、戦闘国家としての流れを続ける以外に手段を見つけることができない政府と、知事選に公認されなかった意地で対抗し、それが好感を得て「有頂天」なりつつある独裁者(あるいは策略家)によって弄ばれているのは私たち国民です。

国際情勢が不穏であるからこそ、私たちは国会に行ってこの国をより良くしようとする議員を、政党とは関係なく選ばなくてはならないのでしょうか。
それでこそ、日本は民主国家であると世界に対して言えるのだと思うのですが。



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先日の休日、北海道の高校野球夏の甲子園で2年連続日本一となった駒大苫小牧の試合をYOUTUBEで観た。
それは北海道民にとって奇跡的な出来事だった。

それまで北海道というのは、農業畜産業などの1時産業以外は全国にはるか遅れをとっていると思っていた。
しかし、プロサッカー―チームのコンサドーレ札幌が誕生し、北海道にプロのスポーツチームなんてできるわけがないと諦めることが当たり前となっていた市民にまず第1歩の希望を与えた。

そしてついに2004年、日本ハムファイターズが札幌を拠点を移転し、史上初の北海道のプロ野球球団が誕生した。それだけで凄かった。私にとって自分が死ぬまで何も変わらないだろうと諦めていた。プロ野球球団が北海道になんて構想することすらないだろうと思っていた。ところが2004年に奇跡が起きた。
北海道日本ハムファイターズの誕生のみならず、その年は駒大苫小牧が初めて夏の甲子園で(いや、春夏合わせて)初めての優勝を勝ち取った。

こられ全ては、いい大人になって時、自分が死ぬまでの間、決してお目にかかれるものではないと考えることすらしなかったことだった。だが、それが現実のものとなった。たぶん私だけではなく、多くの北海道民にとって「奇跡」を純然たる事実として直視することができた素晴らしい季節だった。
それどころか駒大苫小牧は夏の甲子園2連覇という当時57年ぶり、今の出場校数になってからは初の大偉業を成し遂げたのだった。

ちょうどこられの驚きを体験した頃からか、私の中に小さい仮説が芽生えてきた。それは、地方に住んでいても「全国」で活躍することは可能であるし、それが以前よりも実現困難な状況ではなくなってきている、という希望だった。だから、地方に住むことによって「時代遅れ」「競争環境が整っていない」などという言い訳をすることもなく、何かをやって行けるだろうということを、まるで手に取るように実感させてくれた時期がこの時であった。

その後私は函館に戻り、定住を前提として日常生活を送ることにした。だか、眼は常に全国や世界に向けていたかった。それも地方都市にいてもできる、そう確信していた。おかげさまでこのブログをご覧になっている方は、もちろん函館在住の方が中心だが、数は少なくても日本全国各地や一部の海外の方にもご覧になってもらっている。
では、函館はどうだろうか?明治時代の函館にはことごとく「奇跡」が誕生していた。その内容に関しては、過去のこのブログの探すことがとても困難な記事の中に一部記述されていると思う(筆者も探すことが大変なので、ご覧になっている方はもっと大変でしょう)その「奇跡」の遺産で今の函館の観光が成立っている。そしてそこで生まれる金で私たちは市内で金を回して生活することができている。
このブログでは何度も話しているが、それはあくまで過去の「奇跡」なのだ。

今、私たちが何らかのモチベーションを持ち、全国・世界に誇れるものを生み出すことができるだろうか?
それを産業道路や函館新道を走っていて感じることはない。なぜなら、それは整った環境の中で不便なく日々を暮らしている人にとっては必要のないものだからである。
何もない所から何かを新たに生み出す。それこそが「奇跡」を生み出すきっかけになる。既にある物を利用するだけでは「奇跡」は起きない。
でも「世界」に目を向けている人も函館に入る。そのような人たちは静かに静かに、でも着実にその方向に向って日々を過ごしている。決してFBなどでは騒いだりしない。
そう、静かに静かに、まるで地中でマグマがエネルギーを溜めこんでいくように、その人の中で蓄積されている。

さて、函館はどれほどそのエネルギーを内包しているのだろうか。


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今まではこの子のことを「海を見つめる少女」と呼んでいたが、今度から「街を見つめる少女」と呼び直そう。
「街を見つめる少女」は変わりゆく街をどのように見ているのだろうか?



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仙台に行ったことがある方の中には、ここを歩いた人も多いでしょう。

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単に両側にケヤキの木が植樹されているということだけではなく、歩道の一部にはこのような彫刻がさりげなく我々を迎えてくれる。

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この定禅寺緑地の両側には車道があり、車がいつも行き交っているが、この道を歩いているとそんなことも気にならなってしまう。

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そして、この通りには建築物としても注目に値する建築物がある。そのひとつが「せんだいメディアテーク」だ。

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結婚式場。

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こんな素敵なストリートで毎年9月になると、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル in 仙台」が開催される。
こんな美しい通りが音楽だらけになるなんて、なんて素敵なことだろう!!日本はもちろんのこと、海外からの出演者もあったり市民グループの演奏もあるようだ。

ある意味、札幌よりも仙台の方がずっとずっと楽しそうかもしれない。
(で、是非今年行ってみたいと思ったのですが、どう考えても仕事上無理なので、いつか日程調整をして必ず行きたいと思っている次第であります)



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最近のニュースを見ると、政権にとって都合の悪いことは何とかうやむやにして丸め込めようとする内閣の「どうせ自分たちの権力は揺るぎないのだから、強引に逃げ切ってしまえ」という姿勢が強く見えてきます。

何かの疑惑に対して、その事実としての「答え」が地面に着きそうになると、突然風が吹き宙に舞ってしまう。

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Bob Dylanは、彼の最初となる伝記の中で「風に吹かれて」の唄ができた経緯についてこう語っている。それはグリニッジビレッジで若者たちが政治や社会について討論をしていた様子を見て作ったという。
「みんな色々な意見を述べ討論しているのだけれど、いくら話し合っても結論が出ない。答が出そうになってもすぐまた答えは宙に舞ってしまうんだ」

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答の宙の舞い方は違いますが、私たちはいつまでも答えを地面にきちんと着地させることができないのでしょうか?
それは政権の問題ではなく、私たちが声を発するかどうかの問題であると考えます。

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さて、そんなわけで猫親子3匹との共同生活が始まったわけだが、強調したいのは「共同生活」を始めたという自分の認識だ。決して猫を飼ったという意識はなかった。そもそも経緯からして、少なくても私が望んだ同居ではなかった。どういう理由かわからないが、親猫が私の部屋を育児するための場所として選んだとしか考えられなかった。だから私としては能動的に「猫を飼った」という意識にはとうていなれなかった。
また、相変わらず基本的には干渉はしないという暗黙のルールは守られていたので、やはり「共同生活」という言葉が最も適切だと思う。

ところが、そんな悠長なことを言ってもいられない状況がすぐにやって来た。この奇妙な共同生活が始まって間もなく、私のアパート(というより、玄関が共同であるため貸間と言うべきだろう)に片足を引きずって歩く小猫が舞い込んで来たのだった。誰が最初に発見したのか、今となってははっきり覚えていないが、建物の別室に住んでいた若い女性と北大生と私の3人で話し合い、北大の獣医学部にその怪我の状態を診てもらうことにした。その結果は骨折ということだった。車に轢かれたか何かで骨折したのだろう。だが、特別な処置をすることもできないので見守るしかない。そんな感じの診断だった。
やれやれ、こんな状態でどこかに放してしまうのも酷なことだ。仕方ない、3匹も4匹も同じようなものだ。まとめて面倒見るしかない。そんな軽率な勢いで結局私がその小猫の面倒をみることになった。

その小猫は、共同生活中の子猫に比べるとはるかに大きかったが、成人(ではなく成猫)した猫よりははるかに小さかった。当時の私の推測では生後2~3か月くらいではないかと思っていた。だから、食事はもう普通に魚の缶詰か何かを食べるのだろうと思っていたが、実際に部屋の連れて戻ったら、やっと目の開いた子猫たちと一緒に親猫の母乳を啜ったのだった。驚いた。骨折している小猫がまだ離乳していなかったこともそうだったが、自分の子供でもないその小猫に何の抵抗もなく乳を吸わせている。
ある意味、人間というのは何で「家族」というシステムを作らなければならなくなったのか、その不便さに疑問を持った。小猫が乳を望めば誰の子であれ母となった猫はそれに応じる。何という平和なシステム何だろうか。
私は猫の世界が少し羨ましく思えた。

だが、少したって、子猫がやっと歩けるようになり、それどころか走れるようになり、骨折していた小猫が普通に動けるようになると、私の部屋は子供たちのかけっこ場となった。小さい3匹じゃれ合って遊び、親猫は黙って何も言わなかった。そうなると当然部屋の中に置いてある物を倒したり、引っ掻いたりと目茶苦茶な住環境を迫られることになってしまった。しかし、さすがにそれを認めていたらこっちもたまったものではない。私は小猫たちに悪さをするたびに体を拾い上げ、軽く頭を叩いて叱った。すると、叩くと同時に親猫は「まずいことになった、申し訳ない」とでも言いたそうに首を引いて目を瞑った。彼女なりに私に対して謝罪の意思表示をしたのだろう。

そのように育児をしなければならなくなった頃から、私たちの生活は共同ではなく、猫の飼育という要素が加わって来た。人間と同居する上では守ってもらわなければならないルールを教えなくてはならなくなったのだ。そんな日々を過ごしていると、ある時、子猫が面白い反応を示すことを知った。それはたまたま私が電気カミソリで髭を剃っていた時のことだった。小さな子猫2匹はカミソリの電動音に異常な反応を示した。反応と言っても興味津々というものではなく、明さまに敵意を持った反応だ。そこで試しに子猫2匹の前にその電気カミソリを動いている状態のまま床に置いてみたことがある。すると2匹は、前足を真直ぐ引いて、いかにも臨戦態勢に入り、「にゃ~」ではなく、「カーっ」という威嚇の戦闘態勢に入ったのだった。でも、他の小猫と親猫は知らんぷり。
これが経験の差なのだろうか。各自の反応を見ているとそれがよくわかった。

まぁ、そんなこんな色々な出来事があるにせよ、少しの間は4匹の猫との共同説生活は続いた。子猫が少し大きくなると、試しにキャット空中3回転ができるかどうか試してみた。すると子猫はたちは体が柔らかいせいか、見事に空中3回転を達成できた。親猫はその体重の重さから1回転半しかできなかった。やはり若さはいいものだ。
そんなバタバタしているが楽しい生活を私たちは楽しんでいた。

それがある時から事態は暗雲の中に行っていくことになる。それは次回で。(だんだん5話まで行きそうな気がしてきました)



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その猫に対して、私は特別な感情を持たなかった。正確には、猫が好きな人のような可愛がり方をしなかったということだ。しばらく顔を出さなかったとしてもそれほど気にはならなかったし、たまに「あいつどうしているのだろう」と思うくらいで、とりあえず来た時のために缶詰を用意しておいているものの、まぁ、猫には猫の都合というものがあるのだし、他にもっと可愛がってくれる人がいるのだったらそれはそれでいいのだから成り行きに任せよう、という感情しかなかった。

2週間くらい顔を見なかったこともよくあった。久し振りに顔を出した時は「よう、何やってたんだ?」と話しかけてみるのだが、猫はまるで「そんなのはこっち勝手でしょ」と言いたげに知らんぷりしていた。まぁ、いいか。気が済むまでそこにいたらいいさ。だいたい私たちはそんな関係で、お互いに干渉はしなかった。ところがある時、私の部屋の窓に訪れない期間がかなり長くなった時がある。たまに「そう言えば見ていないな」と思うことがあったが、たぶん「定住」できる家を見つけて、きっとそこは完全に家の中だけで飼われているのだろう。それはそれで良かったのかもしれない。そんな風に思っていた。

しかし、もちろん私にはこの時だけしか体験しなかったこと、恐らく多くの人々も体験しないであろう奇妙なことを私は体験した。

それは、もうその猫のことは頭の片隅の一部にしか存在が無くなって来た頃のことだ。いつものように窓を開けて、私は真昼間から布団の中に入ってボーとしていた。すると窓の敷居に猫が突然現れた。一瞬それは過去の何気ない登場の仕方のように思えたし、でもどこか違うような気がした。そして、しっかりと猫を見ると、何と口に真っ白い子猫をくわえていたのだった。えっ!子供を産んだのか?そうか、そうだったのか。だからしばらく顔を見せなかったんだな。と咄嗟に思ったと同時に、その時その猫がメスだったことを初めて知ったのだった。それくらい私は無頓着だった。

だいたい私は猫の種別にも関心がなかった。だから、その猫の毛の模様についても大雑把にほとんど灰色と白としか認識していなかった。ところが、その灰白の猫から全身真っ白な毛の子供が産まれた。どういうメカニズムなのだ、と不思議に思ったが、考えても答えが出るわけもなく、ともかく「あっ、そーなんだ」という妙な納得を無理矢理自分に言い聞かせていると、猫は子猫をくわえたまま、すっと床に降り私の許にとことこやって来た。
私は一瞬戸惑ったが、まぁとりあえず布団の中に入りなよ、と掛け布団を持ち上げて中に入れてやった、すると親猫は遠慮なく私の胸近くに座り子猫をやっと口から離し、ぺろぺろと子猫の体を舐め始めた。間近で白い子猫を見ると、まだ目が開いていなかった。産後何日目で目が開くのかなんて私は知らないが、ともかく生まれて間もないに違いない。そのくらいは何となくわかった。

しかし、そこで私はあることを思い出した。誰からか聞いた「猫は自分の子供を人間に見られたり、他の動物からの危機に遭遇すると自ら子供を食べてしまうことがある」という言葉だ。それが本当なのかどうかは私は見たことがないのでわからないが、ともかく警戒するのは本能的に当然だろうというくらいの意識はあった。ところが、この新親猫は警戒どころかまだ目も開いていない子猫を、わざわざ私の部屋に連れて来たのだった。
ありえない。猫に関して無知な私でもそのくらいはわかる。ともかくありえない。

だが、その白い子猫をじっと見ていると、無条件で可愛く思えた。まだ立つこともおぼつかず、よろよろと親猫に寄りすがろうとしている姿は可愛い以外のなにものでもなかった。驚きの次には何とも言えない心を暖めてくれるシーンに包まれていた。まぁ、良かったんじゃないか、と何の根拠もない歓びを私は感じた。
ところが少しすると、親猫は、さて行こうかと窓の方向を向き、そして子供を置いて窓から外に出て行った。おいおい、この子猫はどうするんだ。もしかして私に育ててくれということなのか。とんでもない。そんなことはできるわけがない。だいたい私は母乳が出ない。毛を舐めたりする習慣もない。
そもそも、人間が子猫を捨てという話はよく聞くが、親猫が子猫を人間に預けて育児放棄をするという話なんて全く聞いたことがない。

私は、残されたこの子猫をどうしたらいいのか戸惑って、とりあえず子猫が押し潰れないように掛け布団を持ち上げているだけだった。子猫はよろよろと動こうとするが、思うように動けず、ほとんどその場にとどまっているだけだった。困った、困った、と何もできずにしていると、親猫が再び窓から颯爽と、今度は全身真っ黒な猫をくわえて私の許に歩み寄ってきた。そして、先ほどと同じポジションに座り、同じように子猫を口から離し同じように全身をぺろぺろと舐め始めた。だが、ひとつだけ違うことがあった。それは黒猫はお世辞にも可愛いとは思えない風体をしていたことだ。特に可愛い白猫の後に連れて来ただけに、よけいに黒猫のぶっきらぼうな風体が芳しい印象を与えなかった。
あぁ、この親猫、私の好みを知っていて、まず可愛い方から連れて来て、既成事実ができたことを認識したことを確認してから、可愛くない別の子猫を連れて来たのだ。
これは親猫の周到に考えた策略だったのだろう。見事に私はその策略に嵌ってしまった。仕方ない、こいつらの寝床を作ってあげなければいけない。
そこで私は部屋にたまたまあった段ボール箱の一部を改造して、猫一家の家をこしらえた。段ボールの中には新聞紙や布きれなどを敷いて少しでも暖かく過ごせるようにしてやった。一家にとっては窮屈かもしれないが、寝る時はそこで寝てもらわないとこっちも困るから、私が眠たくなったら、強制的に3匹をそこに入れ、そこが君たちの家なのだ、と理解してもらうようにした。

さて、共同生活を始めるにしろ、食べ物がなければ生活は成り立たない。私はその日からスーパーに行ってお徳用の魚の缶詰を常に買うようになったる
ともかく、通常では考えられない猫親子と私の共同生活が、その日から始まってしまったのだった。

2回で完結しようと書き始めたのですが、どうやら4話以上になりそうです。次回に続く。




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たまにはきちんと何かを話そうと思う。
いや、これから話すことが「きちんとした」ことに分類されるのかどうかはわからない。それは読んだ方が判断することであろう。私が言う「きちんと」というものは、自分の考えをきちんと話そう、という意味だ。

だいぶ前に書いたかもしれないが、本人でさえその確かな記憶がないので、ある部分まではもし重複していたとしてもとにかく書いてみることにした。
それは私が20歳から22歳くらいまでの間のどこかで起きた話だ。時期などの細かい記憶はないけど、出来事は今でも鮮明に覚えている。

私は札幌北区のあるボロアパートの1階に住んでいた。当時はもちろん昭和だったが、その中でもとびっきりの昭和的なアパートだった。玄関・トイレが共同で、電話も玄関先に1台公衆電話があり、電話がかかって来ると音に気付いた住人の誰かが出て対応するという、今では信じられないようなシステムが当たり前の時代だった。
台所、というより「流し」はレバー式、と言っても今のキッチンにある混栓式のようなお湯と水が混じり合うといったレバーではなく、単に水を出すためにレバーを右から左に回すという代物で、冬になるといつも管が凍結していた。ところが幸いなことになぜか凍結しないトイレの水をやかんに汲んで、コンロでそれなりの高温のお湯にして、レバーからゆっくり下にお湯が流れるようにかけて辛抱強く金属管内で凍結した氷を少しずつ解かしていく原始的な手法を使わなければならなかった。
一度のトイレで組んだ水で解凍できたらまだましだが、何度も繰り替えさなければならない時は、水が出るまで1時間以上かってしまったこともある。

ともかくそんな昭和でも古代に属するアパートに流れる空気はゆっくりしていた。金もなく特別やりたいこともなかったその頃は、夏になると窓の半分を全開にして空気を入れ替え、本人は布団の中でだらだと横になっていることが多かった。音楽を聴きながら布団に入ってボーと天井を見ていることもあった。そんな時期、必ず夕方近くに窓の敷居にひょいと現れる猫がいた。あるいは窓の下で「にぁぁ~おん」と啼き、自分の存在を示すこともあった。最初、当然のことだが私にとってはstrangerであった。
どこかから辿り着いた猫なのだろう。きっとどこかに塒があって、ちょっとした散歩の途中に私の所に立ち寄っただけかもしれない。

だから、その猫が来た時は、「よう、ようこそ」「ちょっと一休みしていくかい?」のような声をかけていた。
猫は怯えもせずにじっと窓の敷居に座って室内の様子を眺めていた。私は、ある時まるで自分の家に訪問したお客さんにするように、「せっかくだからソーセージでも食べるか」とおやつを差し出した。すると猫はそれを美味しそうにしっかりと食べた。むしゃむしゃむしゃ。口からこぼれたら落ちた室内の床に下りて拾って食べ、また窓敷居の定位置に戻った。

そのようにしてかす猫は時々私の部屋をたびたび訪れるようになった。さすがに何度も遊びに来るようになったらシーチキンの缶詰くらいは私も用意することにした。貧乏だったが、私の部屋を訪れる数少ない「お客様」だったので、せめてご馳走くらいは、というきもちだった。
そして、猫と私の関係は、たまにはちょっとふざけて猫を抱いたり、キャット空中3回転の実験をしたりする以外は、ただそれぞれ自分の過ごしたい時間を過ごしていた。私が本を読んでいる時は、その猫には一切構わなかった。そんな状況に退屈したのか猫は帰って行くのだが、また懲りずにそのうちに訪れてくる。
シーチキンをあげる時は、窓の下の地面に缶詰を置いて食べさせた。
一応、窓敷居までが君に許される位置であり、それ以上は勝手に踏み込まれても困るし、猫もそれを察しているかのように自分「定位置」を変えることはなかった。

我々の関係は、ただ偶然知り合った人間と猫、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ところがある時から事情が一変した。ありえないことが私の身に起こったのだった。
(次回に続く)




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