恩を忘れないトルコ人、すぐ忘れる日本人

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栄町の風景。この辺の下町で多く見られる街並だ。

前回、箱館奉行と実行寺に助けられたフランス人のことを書いたが、その後にトルコ人のことを思い出した。
1985年3月のイラン在住日本人をイラン・イラク戦争の最中に危険を顧みずに救出したのが、トルコだったということをご存知の方はどれだけいるだろうか?正直言って私もテレビの特集番組を観るまでは知らなかった。その反省を込めて、物語のあらすじと実際にテレビで観たトルコ人について記す。

1985年3月17日、イラクのフセイン大統領は今から48時間以後のイラン上空を航行する飛行機は撃ち落すと宣言。当時イランにいた日本人は脱出のために空港に集まって来たが、肝心の救出機の手配が取れない。一報を聞いた日本国は緊急協議を行い、航空会社に打診するも航行上の安全が担保できないと出航を拒否した。つまり、日本は日本人を見捨てたのだ。
そんな絶望的な状況の中、日本人の商社マンが知人のトルコ人に相談。そのトルコ人はあちこちを当たり、その話が首相の耳にも入った。そして、関係者を緊急招集して協議を行い、すぐさま航空機とパイロットを手配し、イランへ向かわせた。あと何時間後に制限時間が迫っている中、何とか日本人を収めイランを脱出させることに成功したのだ。あと少しトルコの決断や航空機の手配が遅れていたら、イランの空港から飛び立てなかったか、上空で撃破されていたかもしれない、まさに危機一髪の状況での救出劇だった。

どうして、トルコ人が自国に見捨てられた日本人を命をかけて救ったのか?
それは、その時から95年前に遡った日本でのある出来事への「恩」からだった。

1890年天皇への表敬訪問に日本に来ていたオスマントルコの軍艦エルトゥールル号が所用を終え、横浜から帰国の途についた。ところが、接近した台風によって座礁し船舶は大破爆発し、船員は荒波に放り出された。流されたり自力で泳いだりして着いた所が、今の和歌山県串本町だった。殆どは遺体となっての漂着だったが、何割かはまだ息があったため、町民はそのトルコ人たちを自分たちの体温で温め、正月用に蓄えていた食糧を与えて命を繋がせた。もちろん衣服も与えた。その甲斐あって船員656名中69名の命が救われた。

この献身的な救助は帰国した船員によって全国に伝わった。そして、この話は学校の授業で子供たちに教えられ、語り継がれていたのだった。つまり、トルコ人は95年も前の恩を忘れずにいたのだ。
このことを実証した場面を私はテレビで生中継で観ることとなった。それは、2002年日韓サッカーワールドカップでの戦い方だった。下馬評ではトルコのプレイは荒く壮絶な戦いになるのではと言われた、決勝リーグの日本対トルコの試合。私もラフプレイで荒れる試合になるだろうと予測していた。ところが、試合が始まると拍子抜けするほど、トルコはフェアプレイに徹していた。劣勢だった日本のラフプレイの方が遥かに目立った試合だった。結果は1-0でトルコが勝ち、次に進んだ。トルコってこんなにおとなしかったかな?と、自分を疑った。しかし、次の試合からはいつものトルコだった。ファールを次々やり、イエローカードももらい、イメージ通りのトルコの試合だった。最後の韓国との3位決定戦も派手であった。
つまり、日本との試合だけがフェアプレイに徹したのだった。これは、トルコ人の日本に対する畏敬の念以外にない。「恩」をプレイで表したのだ。何と座礁から112年経っても日本人の救出劇が脈々と伝わっていたのだった。

それに比べ、私たちはたった25年前の大恩をどれだけの人間が覚えているだろうか?

函館にも多くの物語があるだろう。そのうちのどれだけの物語を私たちは知っているのだろうか?
今の私たちの生活に繋がっている物語がきっとあるはずである。もっと勉強しなければならないことがたくさんあると自分に言い聞かせてしまう。
by jhm-in-hakodate | 2010-03-12 23:44 | その他雑感 | Trackback | Comments(6)
Commented by てっちゃん at 2010-03-13 12:43 x
函館を離れて25年以上
函館で育った時間より、外にいる時間の方が長くなりました

ろくろく帰省もしてない私ですが
最近、函館についてもっと知りたいと思うようになって来ました

知ると言うことは楽しいですね
Commented at 2010-03-13 13:23 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by jhm-in-hakodate at 2010-03-13 22:58
てっちゃん様、おっしゃるとおりで、同じ写真を見ても、その風景の中に歴史の物語があるという目で見ると、全く違う写真に見えてくるものです。普段見慣れた当り前の風景の中にそれがあるわけですね。
Commented by jhm-in-hakodate at 2010-03-13 23:02
鍵コメント様、貴重なお話ありがとうございます。でも、載っているだけでもずっとましだと私などは考えております。
もっと街の歴史を知れたら、このブログでも随時ご紹介してまいりたいと思っております。
Commented by midy at 2010-03-13 23:25 x
東京がKey局のラジオでは、最近ずぅ〜っと「絆」がテーマ。ゲストのタレントや視聴者にそれぞれの「絆」について尋ねている。
チマッとした絆もあれば、でっかい絆もある。
トルコと日本の絆について考えてみると、かって栄光を誇ったトルコも当時は西ヨーロッパ諸国の台頭の中で置いて行かれ、国力も衰退気味で、疎外感があった時代。
そんな時代に自国民を多大な犠牲の中で救出してくれたと言う事実は大きな感動を持って受入れられたことは間違いないと思います。
線路に落ちた人を我が身を省みず救助のために線路に降りた人同様、串本の人たちにとっては国や主義を問わず「人命を救う」ためという無私の行為が生み出した絆なんでしょうね。
歴史というのは、こういうエピソードの積み重ねによる絆で紡がれて来ているのかも知れませんね。
幕末〜明治、函館激動の時代にも官民問わず大小のエピソードが糾える縄のように今の函館を形作っているのでしょうね。
jhmさんのエピソード発掘に期待してますので、見つけ次第UPしてくださいね。
Commented by jhm-in-hakodate at 2010-03-13 23:49
midy様、はい、わかりました、と言いたいところですが、力むと大抵いい結果は得られませんので、ぼちぼちとやっていきたいと思います。私のつたない記憶を思い出した程度のことであれば、すぐご紹介します。(笑)