函館の独自性の喪失と名士の不在

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魚見坂の風景。

私はもちろんのこと、このブログをよくご覧なっていただいている方々は、古い建物の保存を願っているだろうと思う。その理由について、私は主に観光資源と町の経済的影響や文化性等について述べてきた。
ところが、自分でも言葉にできるほどはっきりとした形として自覚できなかった理由がもうひとつあった。それを一言で言うと、「函館をつまらない街にしないでくれ」ということだ。

函館はいつまでも特別な街であり続けてほしい

だから、その独自性を持つ建物や街並が市民によって壊されていくのに危惧を持った。

旧市街地で見かける和洋折衷住宅が、こんなに街全体に建っているのは全国でも函館だけだそうだ。つまり、函館独自の建築様式と言っても過言ではない。その独特の雰囲気を持つ建物の集合によってできた街は、一度離れると魔力とも言える吸引力で呼び戻そうとする。

しかし、その吸引力は建物がひとつ無くなるごとに少しずつ弱くなってくる。慌てる市はライトアップや道路の整備などで補おうとするが、いかにも作為的な感じを与えてしまう場合も多い。簡単に言うと、いかにも観光地というセッティングをしてしまっているということだ。

私とお付き合いがある建築士は、「家は街を作る」と言っている。どんなに道路を整備しても、家が周辺の雰囲気を壊してしまうと街全体が整わないということだ。だからと言って、その辺にいる市民を掴まえて、「どうして古い建物を大切にしないのだ」と迫っても仕方の無いことだ。

函館の西部地区の街並形成に大きく寄与したのは、明治から大正にかけての財を成した人々であったことは否定できない。大きな蓄財を使い土地を買い取り、借地として市民に家を建てさせた。これは、今となっては西部地区衰退の原因の要素のひとつとなっているが、庶民に財力のなかった昔は、大きな出費は建築費だけとなり、かえって住宅建築を促進したのかもしれない。また、彼らは寄付行為も積極的に行った。それは庶民にとっては感謝こそすれ、反対する理由は見当たらないことであった。そうして、金持ちと庶民のバランスが取れていたと想像できる。

私はその人たちを「名士」と呼ぶ。「名士」たちは自らの仕事によって得た金を活かした。問題は、その後である。大きな財を蓄えたら、その子孫はその財だけで生きていけるようになった。つまり、土地を持っているだけで、大きな努力をせずとも生きていける保証を持ったのだ。それを、不労所得者という。
不労所得ほど美味しいものはない。いい例が世間でよくある遺産相続問題や宝くじ当選者の事件だ。人は醜くなってもかまわず不労所得を得ようとする。そして、得たら何が何でも守ろうとする。

そこには生産性は無い。生産性の無いものが街を支配していることとなる。せっかく作られた独自性は、創始者の意志とは反対の、街を滅ぼす方向へとベクトルが変わる。どうしようもできない庶民は西部地区を離れる。ちょっと懐が寂しくなった不労所得者は投資で資産を増やそうとする。
金持ちしか相手にしない野村證券が函館にあるのは、その大金持ちがまだ函館に多く存在しているという証明でもある。

私たちが行わなければならないことは、まず、もう昔の金持ちと庶民とのバランス関係がないことを認識することである。不労所得者は函館を守れないのだから、私たちが守るしかないのだということをもっと意識することである。
既に旧市街地を離れた者やその子孫は別世界の出来事のように感じるかもしれないが、西部地区では日常的な問題であるのです。
by jhm-in-hakodate | 2010-04-06 00:12 | 函館の現状について | Trackback | Comments(2)
Commented by ayrton_7 at 2010-04-06 16:39
『大きな財を蓄えたら、その子孫はその財だけで生きていけるようになった。つまり、土地を持っているだけで、大きな努力をせずとも生きていける保証を持ったのだ。それを、不労所得者という。
人は醜くなってもかまわず不労所得を得ようとする。そして、得たら何が何でも守ろうとする。そこには生産性は無い。生産性の無いものが街を支配していることとなる。せっかく作られた独自性は、創始者の意志とは反対の、街を滅ぼす方向へとベクトルが変わる。』素晴らしい分析です。
Commented by jhm-in-hakodate at 2010-04-07 00:01
ayrton様、とにかく私たちは具体的行動でひとつひとつ守り、変えていかなければならないと考えております。