松前藩家老と私
非常に個人的な話であるため、他人の、ましてその本人が話す物語なぞ関心がないという方は、読んでもさして面白いものではないので、無駄な時間を費やしてしまうでしょう。暇つぶしにという方だけ読んでください。
それは、昨年のことだった。ある時、両親から墓の話を持ちかけられた。両親も高齢であるためその話が出るのは当然のことだと真面目に話を聞くと、函館に墓を作りたいとのことであった。私は少々驚いた。私は父の先祖代々の墓に入るものだとばかり思っていたため、予想外の展開に少し頭が混乱した。
両親は、墓参りには函館の方が便利であろうということが、一番の理由に挙げた。まぁ、確かにそれはある。父は渡島当別の出であったし、母は上ノ国の出であった。母の先祖の墓に入ることはないにしろ、子供(つまり私と妹)や孫が墓参りするには年齢とともに大変になるのではとの思いからだった。
そこで改めて両親の宗派を確認しようとした。その話をすると自然と先祖の話に移って行く。今までも機会があればさり気なく訊いていたが、この時は真剣に聞いてみた。そしてわかったのが母方の祖母が上ノ国の「カキザキ家本家」の出であったことだった。
この話は機会あるごとに聞いていた。しかし、真剣に聞いていなかった私は「上ノ国・原歌の柿崎さん」という家の本家の出であるとばかり思っていた。それ故「ふーん」という生返事しかしていなかった。田舎は何でも本家別家という呼び方をするため、そんなものだろうという程度のものだった。
ところが、きちんと話を聞くと、どうやら松前藩を起こした蠣崎家であるようである。それも、上ノ国町役場の方(恐らく教育委員会の方と思うが)が町史を調べた上での「お墨付き」のようだ。
その本家に私は行ったことはないが、母は実母の実家ということで何度も訪れており、また、上国寺にある蠣崎家先祖代々の墓に何度もお参りをしたそうだ。上国寺の墓の隣接する墓は全て松前藩士のものであったという。(現在は寺の墓地内で移設をしたため、昔と違う場所にある)
松前藩の歴史をご存知の方にはおわかりいただけると思うが、藩主の松前氏は蠣崎から姓を変えたものであり、松前に藩を築く前は原歌の勝山館の館主であった。今、本家は勝山館のすぐ近くに家を構えている。
松前藩は代々藩主は松前家から、家老は蠣崎家からというならわしになっていた。(松前家に該当者が見当たらない場合は蠣崎家から養子となって用いられた者もいるようだが)
つまり、代々家老を輩出した家である可能性がある、武家であったのだ。
これを知って、私は今まで疑問に思っていた多くのことが氷解していった。
まず、祖母である。祖母は農民だった。毎日朝早く畑に行き作物を確認する、どこにでもいる農民であった。しかし、なぜか農民らしくなかった。口数も少なく、どんなことがあっても常に毅然とした態度を取っていた。他で見る農家の女性とはちょっと違うと子供の頃から常に思っていた。
それが武家の出であるとすれば納得できる。
また、早く死んで微かな記憶しかない祖父も、農民でありながらよく筆を持って何かを書いていた。祖父も同じく農民らしくなかった。
次に私である。私が今まで移り住んだり出会った人々は、松前家にとっての敵ばかりだった。
二度も転勤で住んだ新潟県は、蠣崎家を蝦夷地支配者にさせた養子・武田信広、武田家の敵の上杉謙信の地であった。
失地回復のために最後は官軍として箱館戦争に参戦したが、本来であれば敵であったかもしれない天皇家の分家の方にも石狩でお会いした。
また、蝦夷地支配のきっかけとなった「コシャマインの戦い」「シャクシャインの戦い」の敵アイヌ人が今でも多く住む苫小牧に通例の期間を超えて赴任していた。
その他、あまりにも個人的なことでここでは書き表せれない出会いの数々がたくさん結び付いて行ったのだ。
私は昨年、初めて松前の法源寺に行った。松前家の法幢寺の隣の蠣崎家諸氏の墓がある寺だ。山門をくぐり少し歩くと右手に蠣崎波響の墓があった。
波響は恐らく祖先が殺戮したアイヌ人への贖罪の意味を込めて「夷酋列像」に代表されるアイヌ人描写をしたのではないだろうか、と思った。
私も同じく贖罪をしなければならなかったのだろうか?墓に向かってそう問うたが、返事は無かった。まさか、そんな大袈裟な役目が私にあるわけがない。馬鹿な妄想はやめよう。
そして、心の中で「帰って来ました」と呟いた。
私のようなつまらない人生を送って来た者にも、このような物語があった。妄想だと思っていただいても一向にかまわない。自意識が強いと思われてもかまわない。
ただ、これだけは確かだ。
「物事はある時、一つの結論を導く方向に全てが向かっていくことがある」
人には知られざる物語が多くある。私は、今後ハコダテ150+にて、有名無名な人々の物語を取材しご紹介して行きたいと考えている。
北海道はいいですよ。それも特に函館は、独自の世界があります。
ですが、先人が残した功績を忘れたりするのは「平和ボケ」以外の何物でもないと考えます。過去の出来事があって現在に至る、時代は偉人を作る。平和な時代には偉人は必要とされないと考えます。
確か、市内か近郊やに住んでたと記憶してます。
江差で訓導をしていらしたのは蠣崎伴茂(主馬流分家、広伴女園娘婿)の長子、敏さんではないですか?
す。松前勘解由の子孫の方からメールが来ていました。私の祖父と兄弟の子孫の方です、私の祖父のことは、地元の学校の校長をしていたこと、祖父の名前は聞いていません、というのは生まれてすぐに、江差町茂尻28番地の養父母に預けられましたのでわかりません。私の祖父は14人兄弟のなかの一人と思われますが。
私の先祖のことは、ほとんどわかりませんが、養父母が、あなたの先祖は、松前藩の筆頭家老だと聞いて育ちました、私が生まれたころは、地元の学校の校長先生をしていたこと、小柄な人だったということぐらいですね。
ご返事ありがとうございます。明治になってからは松前藩も大変苦難の道のりをたどりましたね。録を召し上げられてからは生活苦一般庶民より生活苦がつづいたと聞いております。あなた様のご先祖も大変苦労なされたのでしょうと推察いております。5月の初めごろ蠣崎波響のお墓にお参りをさせていただきました。松前城のお墓はどれも荒れているのが残念です。
調べ物をしていた際にここにたどりつき何かのご縁を感じご挨拶させていただきました。
木古内の佐女川神社の建立や新羅之記録を編纂した松前(河野)景廣の直裔です。
参考になるかわかりませんが、私なりにまとめてみました。
ご興味がありましたら、覗いてみてください(笑)
http://karyu-yawara.ftw.jp/gaiyo.html
松前の縁で繋がる事は嬉しい限りです。
白老町 松前
地道ですが、機会があれば蠣崎家に関わる場所などに出没しています。今年は蠣崎家の発祥(?)の地である下北のの蛎崎まで訪れてみました。近いうちに、実質一時期幽閉されていた梁川にも行ってみたいと思っています。
もし函館に来られることがありましたら、是非お声をかけてください。