立待岬に立って思う
先月座礁した船舶が岬の先に見えます。
確かに立待岬には荒波にも耐えることができる荒々しい岩が数々あります。が、小学生の頃は写真手前の岩棚(と呼ぶのかな?)まで歩いて行った記憶があります。
今では下の写真のように岬の天辺からただ眺めるだけの立待岬となっています。
確かにこの岬は下に降りない方が安全です。凹凸の激しい岩を渡り歩かなければならない海岸は危険がいっぱいです。場所によっては滑って足を踏み外して擦り傷で済めばまだ幸運な方だと言える所があります。
でも、一度もこのような海岸を歩いたことのない人は危険であることすらわからないのです。
10数年前からずっと思っているのですが、人間、痛みや危険を実際に体感していないから傷付く怖さと人を傷付ける恐ろしさを実感できていないのではないか、という気がしています。現実の恐怖を体感できずに、安全で清潔な室内でばかり生きていると、本当の現実が仮想の世界になって、仮想の世界が本人にとっての現実となってしまっているのではないでしょうか?
そして益々人間は自然に適応する能力を失っているのではないでしょうか。小さい頃、私たちは土遊びをして汚れた手のままおやつを食べたりしていました。そんな汚い遊びをしているうちに雑菌と友達になり多少のことでは病気にならない免疫を得たような気がします。
また、友達と喧嘩をして血が出たり体が傷付いたりすると、こんなに痛いことは人に対してやってはいけないと学習し、仮に喧嘩となっても手加減ができるようになったはずですし、それ以上のことをやったら相手が死んでしまうのではないかという想像力を持つことができました。
ところが、仮想が本人にとっての現実の世界である場合、痛みはわからず手加減も知らず、どこまでが安全でどこからが危険なのかの判断も付かないようになっているのではないでしょうか。
最近の子供の虐待死の背景の一因にそれがあるのではないかと思います。
人間は、その英知を以てより安全に生きていく術を多く持ち合わせることができました。ところが、それと同時に動物としての人間を放棄し、より自然から浮き出た特異な存在になっています。これももう止めることができないのでしょうかね。
学校が函館公園の近くだったので、夏はよく泳ぎに行った記憶があります。
泳いでいて、岩の角で足を切る・・・なんてしょっちゅうで、塩水がしみて痛いのなんの。
私たちの子供のころ、やっぱり多少の喧嘩はしました。
(私の場合、大人になってからもありましたが)
殴られたら痛いということも身をもって体験しましたし、仕事でカッターで手を切り、7針縫うなんてドジもふんで、刃物で切ったら(相当)痛いというのもわかりました(^^ゞ
そう言うことがわからない人が多くなってるのは確かですね。
でも、私たちのようにこの立待岬が海水浴場としてスリルとサスペンスを味わいながら、自然に安全と危険の境目を知ることができていれば、大人になってから無駄な暴力の不要さを認識できるのではないかと思います。
そう言えば、この記事を書いた後に気付いたのですが、最近の幼児虐待をしている世代は酒鬼薔薇聖斗の前後の年齢が多いような気がしますが、思い違いでしょうか。