Yes-No
函館港祭りに全く関係のない無粋な話題で失礼する。
昨日は花火を観たため祭らしい気分を味わったが、本日は全くの通常業務で、帰宅時に高砂通りが大門で通行止めとなっていたことと、迂回して駅前を通って朝市方面に抜けた時に少し見た神輿担ぎくらいのものだったため、どうも祭りの気分ではない。
だからというわけではないが、今日はYesとNoについて述べる。
私たちは生きていると、必ずYesかNoの意思表明をしなければならないことがよくある。また、ある意味では私たちは常にYesかNoの答を無意識のものを含め、連続的に出しながら生きていると言える。
例えば、今の私はPCのキーを打っている。その一つ一つの文字が正しいかどうかのYes,Noの判断を連続的に行っている。手を止めて少し休もうか、どうしようか?等々。
上記のことは些細なことだが、対外的に行わなければならないYes,Noはちょっと難しい。
なぜなら、同じYesでも100%のYesもあれば、50%のYesもあるし、5%のYesもある。また、条件つきのYesもあれば、その人に問われたから出て来たYesであり、違う人が問うたら同じ設問でも80%が20%となるYesもある。
もちろん反対のNoにもこれは当てはまる。
こんなことを述べたら面倒くさくて、Yesと本人が言っているのだからYesでいいんじゃないか。何をウジウジ言っているのだ、と仰る輩もいるだろう。
その通りだ。その方がすっきり爽やか、はっきりして気持ちがいい。
しかし、本当にそれが真実であればとっくの昔に我々人類は争いも憎しみも差別も何もない平和な世の中を作ることができたであろうと思う。
どんな場合にも100%のYesやNoがないから、世の中で色々なことが起こるのだ。20%しかないYesを持つ人間が、何かの理由でYesと応えなければならない時、置き去りにされた80%のNoは「抑圧」という形で本人の中に沈殿して貯蔵される。そして、その個人の沈殿が集合すると社会のフラストレーションとして歪んだ社会精神システムを構築してしまい、とんでもないことが起きる。
何か、くどくてまどろっこしい話となったが、残念ながらそれが人間である。それを理解するのを拒み、100%のYesを求めたり、100%のNoを求めると日々壁にぶつかる生き方をしなければならなくなる。それを立場上優位に立つ者が行えば強要となったり、脅迫となったりする。
ある意味そっちの方がややこしくなるし、争いは起きやすくなる。
すっきりはっきりしたものを求めると、その分村八分にされた「すっきりはっきりしないもの」は人の悪意に姿を変えて現れ、私たちに苦悩を与えてくれるものである。