あんた、負けるんじゃないよ

あんた、負けるんじゃないよ_a0158797_23163056.jpg
テーブルとグラス。旧英国領事館にて。

個人的な話で大変恐縮である。私の伯父の話だ。

もう20年も前に亡くなった伯父がいた。伯父といっても戸籍上は他人であった。祖母が最初に結婚して産んだ子供だった。だが、すぐに祖母の夫が亡くなり、今ではあまり考えられないが、子供がいては再婚もできないだろうと祖母の親や親戚の勧めで伯父を養子に出すことに決めた。「勧め」は当時は命令だった。その後の祖母と伯父は重い十字架を背負うことになる。

再婚した祖母は多くの子供を産んだ。その中の一人が私の母だ。
伯父は他の家庭で育てられたが、大人になると母たち兄弟と普通の付き合いをすることになった。母は兄と呼んでいた。だが、やはり同じ家庭で育った兄弟ではなかった。こちらから伯父の家に行くと喜ばれたが、伯父はあまり祖母の家には顔を出さなかった。嫌っていたわけではない。遠慮していたのだと思う。

伯父が養子に行った家庭の両親は早くに亡くなった。そのため、伯父は若くして働かなければならなかった。何でもやった。仕事を選ばなかった。戦争にも行った。生還してまた必死に働いた。そしていつしか片田舎の駅前に商店を開くことができた。だが、それも時代の流れで過疎化が進み、商売を諦めなければならない時がやって来た。

伯父には子供が二人いた。いずれも女だった。伯父は本当は男がほしかったそうだ。私が遊びに行くとたいそう喜んでくれた。だから結婚した娘の夫も可愛がった。息子ができたわけだ。ところがこの「息子」のできが悪かった。仕事をすぐやめてしまうのだ。伯父は必死に面倒をみてやった。金を作るために60歳を過ぎてから屎尿処理の資格を取り、バキュームカーを購入して「息子」にも仕事を与えた。だが、可愛い「息子」はその事業に本腰を入れなかった。本当は事業を譲ろうと思っていた伯父は、歳をとっても仕事を続けなければならなかった。

そんなある時、伯父に食道ガンが発覚した。検査のために函館の病院で診てもらいそのまま入院した。検査の結果を聞いたのは伯父の妻、つまり伯母と私と私の母であった。
食道の殆どの摘出が必要との診断だった。伯母は悩んだ末、ガンとは本人に告知せずに胃のあたりを手術しなければならない胃の病気だと伯父に教えた。伯父は手術を了承した。

手術の日がやって来た。

その日も伯母と私と母が立ち会うことになった。手術室前に事前に病室で麻酔を行うため、我々は廊下で待っていた。麻酔を終え、病室の扉が開かれ、伯父を載せた台が目の前を通り過ぎようとした。その時、伯母が堪えていたものを吐き出すように大きな声で叫んだ。

「あんた、こんなことくらいに負けるんじゃないよ。これよりも辛いことがいっぱいあったんだから」

伯父の孤独な努力と苦労を知っている私は涙を流してしまった。そして、夫婦というのはいいものだ、と思った。苦労したのは伯父だけではなかった。伯母もそうだった。

手術は成功に終わり、いずれ退院した。自宅に戻った伯父のところに遊びに行った時、伯父は満面の笑みで私を迎えてくれた。仕事に打ち込んでいた時には決して見せなかった表情だった。だが、それから3年後、ガンが転移し伯父は帰らぬ人となった。

自分の夫が死んでも泣かなかった武家出身の気丈な祖母が、その時は泣いたという。祖母にとって悔いが残ることはわかっていても、どうしようもできない辛さをずっと胸に抱えていたはずだ。

そして、手術室に向かう伯父に向かって叫んだ伯母の言葉がなかったら、今頃私はまだ結婚していなかったかもしれない。
by jhm-in-hakodate | 2010-08-10 00:50 | その他雑感 | Trackback | Comments(0)