松前家・蠣崎家の悲哀

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旧相馬邸正門。

このようなタイトルを読んでも、ピンとこない方も多いかもしれない。松前の名は知っていても、蠣崎というのは何だ?と疑問を持つ方がたくさんいるだろう。

細かく書くとかなりの長文になるので、簡単に説明する。室町時代以前に、道南に12の舘があった。江戸時代の何とか藩のミニチュア版みたいなものだ。その中のひとつが河野政通の宇須岸館、すなわち箱館であった。
当初、津軽安東家出身の安東氏が12館の中での親分のような立場にいたが、武田信廣がアイヌ人との戦いに勝利すると、上ノ国の蠣崎家の養子になって蠣崎家を継ぎ、道南は蠣崎家が掌握することになった。そして、2世光廣の時に上ノ国から現在の松前(当時の福山館)に拠点を移し、5世慶廣の時に徳川幕府より藩として認められ、姓を蠣崎から松前に変えた。だが、家臣であった蠣崎家の者にはそのまま蠣崎姓を名乗らせ、以来、家老は松前家・蠣崎家・安東家の中から選出されることになったとされている。

つまり、松前藩は、元を辿ると蠣崎家が治めていたと言っても間違いではないのだが、ちょうど画家として有名な蠣崎波響が家老の時、ロシア南下政策を採った際、松前藩には任せてはおけないととの理由で、松前家(蠣崎家)は陸奥国の梁川(福島県)に江戸幕府によって追いやられた。
地元に帰りたいと願った波響はせっせと絵を描き、外国人などにそれを売り、その金を幕府に献上して何とか松前に戻ることができたわけだ。
ちなみに、蠣崎波響の孫にあたるのが、ペリーと交渉したことで有名な松前勘解由である。

そんなわけで地元に戻れた松前家であったが、幕末の戊辰戦争によって一族は各地に散らばり、藩を治めていた威光は無くなってしまった。地元に残った者も、漁業や農業を営んで暮らすこととなった。もちろん廃藩置県で藩主の身分もなければ、士族解体によって階位までも失ってしまったのだった。
そのような時代の波に右往左往させられたのが、松前家(蠣崎家)であった。一般民となった両家の生活は貧しくなった。じっと耐えて生活をしなければならなくなったのであった。

蠣崎家出身の私の祖母も、片田舎の貧しい農民であった。


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by jhm-in-hakodate | 2011-07-23 00:13 | 函館の歴史 | Trackback | Comments(0)