伝える言葉

伝える言葉_a0158797_044587.jpg

私たちは言葉を使っている。人に対して何かを伝えるためだ。
だが、もちろん言葉は完全ではない。言葉だけで全てを伝えることができたなら、世の中に写真やテレビや絵画や彫刻や映画など存在していなかったであろう。

そんな不完全な言葉を、特にビジネスの世界では、端的に述べる必要性が生じる場合がある。主に報告などの時だ。簡単な報告なら特段の問題はないが、何かの状況説明をする必要がある場合、短い言葉できちんと相手に伝えるのは非常に難しい。

しかし、報告を受ける側は端的に述べろと要求する。それは長話に付き合っている時間がないという相手側の都合によるものだ。だが、それがビジネスでの常識になっている。
ここでいつも思うのだが、それではその言葉を受け取った人は、短い言葉で全てを理解できるのだろうか。もしそれができたとしたなら、その人は人間の領域を超えた神のような存在であると思う。

太宰治がある短編小説(タイトルは忘れた)の中で、兄に金を無心した時の会話を書いていた。兄は、太宰に対して、「そんな金にならない小説を書いても仕方ないだろう。言いたいことがあるのなら、一言で言ってしまえ」と言い放った。太宰は心の中で「その通りだよ兄さん。一言で言えたならどんなにいいことか。でもそれができないから小説を書いているんだ」とつぶやいた。

と、まぁこんな内容の一節だったと思うが、全くその通りだと思った。太宰治は、読む人によってその小説の内容には好き嫌いが極端に出てしまう作家だが、私は、言葉の人を惹きつけようとする力は石川啄木に匹敵するほど、あるいはそれ以上の天才だと思っている。その太宰をして、一言では言えないというのだから、一般人が言えるわけがない。(文章ではなく、実際の会話がどうだったかは知らないが)

それでも世の中では短い言葉での会話を要求される場合がある。短い言葉で意思の疎通が可能になるのは、全ての人間の思考回路・感性が全く同一である場合だけである。それ以外、つまりほとんどの場合、温度差が生じている。

よく年寄りの話は長いというが、きっと年配者はその温度差で幾つもの失敗や後悔をたくさん経験してきたから、より理解してもらおうと長話になるのではないかと思う。
ちなみに私は比較的若い時から年寄りの話を聞くのが好きだった。長くてもそんなに苦ではなかった。なぜなら、長く話を聞くと、その人の歩んできた人生を知ることができるからだ。見た目どこにでもいるような人でも、その人ごとの物語がある。それはじっくり長話を聞いて初めて物語のあらすじが見えてくるものだ。


いつもお読みいただきありがとうございます。どうか二つのクリックお願いします。(笑)
人気ブログランキングへ にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 函館情報へ

函館愛ポストカード、ハコダテ150ショップで販売中 ⇒ こちら
函館写真、弥生町のみかづき工房で販売中 ⇒ こちら

*下のコメント欄を使って、皆様のご意見・考えを自由に述べていただきたくお願い申し上げます。読者様同士での議論も大歓迎です  
by jhm-in-hakodate | 2012-03-29 01:59 | その他雑感 | Trackback | Comments(0)