ネット上の人格

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亀田川河口。

時折、ネット上(メールを含む)での発言と、顔を合わせた時の言動が異なる人がいたり、また、存在するという話を耳にする。多少は誰にでもあることで、ある程度はその乖離は暗黙のうちに容認されているが、乖離が大きい場合、人はまるで違う人格だと思う。そして、そのどちらかが不快なものであったら人はその人を嫌う。

ネット媒体によっては、発言者同士が汚い言葉で罵り合ったりしているものもある。このようなものはなかなかメジャーにはならないのだが、それでも必ず存在している。ネット媒体研究家ではないので、どれだけの数の「罵り合いネット媒体」があるかわからないが、検索をしているうちに、そのようなものにヒットすることがある。
そして、そんなに長くではないが、一応閲覧してみると、まぁ汚い言葉がたくさん並んでいて、それはそれで見事であると感心する。そして、同時に思うのは、これもまた世の中の一つの事実なのだ、ということだ。

そのような媒体は、もちろん匿名かHNでの投稿となっている。だから汚い言葉での罵り合いができるのだろうが、その人たちは普段どんな態度で社会生活を送っているのだろうかと思ってしまう。これは想像だが、恐らく半数以上の人は、一見普通の人として仕事をし、生活をしているのだろう。
だが、その人にとっての直接的な利害関係・人間関係を生じさせない、見知らぬ者同士のネット上でのやりとりでは、「一見普通にしていなければならない自分」から解き放たれた自分が自分を支配する。

ちょっとややこしい表現をしたが、簡単に言うと、人が見ていれば何もしないが、誰も見ていないとわかったら、平気で道にゴミを捨てる。そんな感じだ。当然人はそんな行為をする者を批難する。だが、どんなに批難しようが、実際は道端にはゴミが落ちているのだ。
ゴミを捨てる者からすると、批難する人のことを「何カッコつけて真面目くさって偉そうなことを言いやがって」と見るかもしれない。これもまた現実だ。

世の中はその両方から成り立っている。この仕組みの詳細を述べると長くなるので、それは省くが、少なくとも私たちは、残念ながら「人に見られているからやらない」という文化を作ってしまったのは事実だ。違う表現をすると、法律で罰せられるからやらない、という動機付けをさせてしまう文化を作ってしまったともいえる。
だが、だからといって法律がなくてもいいとは思えない。やはり必要だ。

では、どうしたら道端にゴミを捨てなくなるか?そのためには、人それぞれのアイデンティティの確立と、どのような言動をしても、なぜそのような言動をするようになったかを思慮し人格を認め合う文化をつくらなければならないと思う。
きれいごとの理想論に思われるだろうが、いつの時代でも、何かを変えるための考え方は、最初はきれいごとの理想論なのだ。


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by jhm-in-hakodate | 2012-04-10 00:20 | その他雑感 | Trackback | Comments(2)
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Commented by yuri at 2012-04-10 19:29 x
はじめまして。
ハコダテ150プラスからたどり着きました。
最近では、自分の犯罪行為を証明する動画をネットにアップして逮捕されるということが度々ありますね。
ネットの世界にいると感覚が現実とは違ってしまうのでしょうか・・・。
私もきれいごとと理想論は必要だと思います。
Commented by jhm-in-hakodate at 2012-04-11 12:05
そのような異常な行動も全て現実の出来事だと思います。私たちは、そこに至ってしまうのが人間であると、排除せずに直視しなければならないと考えます。