写真の街、函館(3)/函館ルネッサンス
次回に続くとしながら、しばらく続けていなかった(3)をやっと投稿する。これには理由があった。現在函館市地域交流まちづくりセンターで開催中(6/17~6/26)の「素彩堂 紺野写真館展」を見てから書こうと決めていたからだ。昨日、それを見、正解だったと思った。
紺野写真館は、明治14年に福島県から移住していた紺野治重氏が開設し、以後3代に亘って続いた函館写真界草創期からの老舗写真館だった。
2代目松次郎氏は大町にある小林寫眞館の創設者である小林健蔵氏とも交流があったようで、恐らく当時の函館の写真師たちは互いに切磋琢磨しながら、写真の街函館を築き上げていたのだろうと思った。そして、特に感銘を受けたのは、歴代の当主が記録としての写真撮影に力を注いでいたことだ。
写真には色々な意味がある。思い出として撮ることもあるだろう。自己の表現として撮ることもあるだろう。カメラというメカに憑りつかれて撮ることもあるだろう。
どのような動機があって写真を撮っても、姿形を全面的に加工して全くわからなくしない限り、写真は記録となる。ポートレートを撮っても、イベント風景を撮っても、海や山を撮っても全てその時代の記録となるのだ。
だから、本人が意識するしないに拘らず、写真を撮るということは、記録を残していることになる。それは写真の宿命であり役目でもあるのだ。特に文字や絵以外に記録するものがなかった明治時代においては、忠実に見えたものを記録できる写真という魔法を使い記録することは、写真師だけに与えられた大きな責任だったかもしれない。
私も写真を撮る理由の一部に記録するというものを感じている。だから「函館古建築物地図」を開始した。このシリーズは単なる記録である。それ以外の何物でもない。だが、もし誰かがそれを行っていたら私はやらなかっただろう。たまたま誰もやっていなかったから始めた。函館の建物が好きで、街が好きで写真を始めた者にとっての責務だと思ったからだ。記録として残すべきものは、夜景や教会や煉瓦倉庫などだけではないはずだ。また、函館の魅力はそれらだけではないはずだ。
さて、函館ではこの他、5/25~6/5まで同じ函館市地域交流まちづくりセンターで「箱館写真の時代 幕末と明治初期に撮られた箱館写真」という企画も開催されていた。
タイトルの通り、幕末から明治初期の函館はもちろんのこと、日本にとっても貴重な写真が展示されていた。
そして、5/31~6/9までは函館駅2Fで「港まちの記憶―古地図・古写真などに見る函館港の歴史」が開催されていた。
古地図ばかり写真におさめたが、他に連絡船の写真や田本研造の写真などもあった。田本研造の公表されている写真はだいたい見ている。もちろんそれらは貴重品であるため手にとって見ることはできない。しかし、私にもそのチャンスが訪れたことがある。それが冒頭の写真だ。
訳あって全体をお見せできないが、これを持った時は手が震えた。本物の田本だ。そして、この写真もまた、当時の函館の政治的状況を示す証拠が写っていた。
田本研造も結果的にとても貴重な記録を多く残していたことになる。
これは同じ田本写真の所有者のものだが、この写真館の刻印は大正時代のものとみられる。
そして、道立函館美術館では現在「夜明けまえ-知られざる日本写真開拓史《北海道・東北編》」が開催されている。(5/18~7/14) また、市立函館博物館では6/14~9/1まで「新島襄と幕末の箱館」が開催されている。
偶然とはいえ、今年の夏は古き函館に関するイベントが目白押しとなっている。
函館は現代日本に至る起点となった歴史的背景をかなり多く含有する街である。夜景と海産物だけの街ではないのだ。この魅力を、まず地元に住んでいる市民が理解し、行動に移すべきだと思う。何を行動したらいいか、本当に魅力を理解したのならおのずと答えは出てくるはずである。
そして、それは函館の未来に続くものであるはずだ。
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