夫婦別姓などなどについて、もう少し深く考えてみよう

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今日の最高裁の判決で、夫婦同姓は違憲ではない、という判断が下されました。
正確には、違憲ではないが合憲だと判断したわけではないので、また玉虫色の領域ができたわけですが、この件に関し、いつか私も自分の意見を述べようと思っていました。

たまたま本日そういう判決が出たものですから、少しだけ考えを述べさせていただきます。

まず、夫婦別姓の議論が浮上してきた背景には、女性の社会進出があります。その女性が活躍する社会の中において、結婚によって姓が変わるということに仕事上の不都合が生じるということが最初のきっかけで、夫婦別姓は男女不平等にあたるのではないかという議論が浮上してきたと記憶しています。
実際、私の周りにも、結婚していても、仕事上は旧姓のままで名乗っている方を何人も見かけます。

では、そもそも姓を名乗るということはどういうことなのでしょうか?
色々な考え方ががあるでしょうが、私はひとつの家族という集団の総称だと考えています。例えば、自分が働いている会社の仕事はとても好きなのですが、会社名がどうも気に入らない。そこで一社員が社名変更の動議をお越し、見事に変更できることもあるでしょうが、大抵は仕方なくそのままで、パッとしない社名の会社に属して日々の仕事を頑張っていることも数多くあるのでまないでしょうか。
人の名字に置き換えてみると、姓は会社名のようなもの、名は社員の名称というような気がします。

つまり、何らかのまとまりが必要であるのは、社会の構成上どうしても必要である部分があるのではないかと思うということです。ですが、だからと言って即現状の夫婦同姓制度がいいという訳ではありません。そもそも、どちらかの姓を名乗るということには、「家系を守る」という一面もあるのは否定できないでしょう。大昔からの家督制度の名残だと思いますが、家系を守るために、結婚したら男の姓に女性は変えてしまう。それが常識となっているから、女性は弊害を感じる。まぁ、こんな構図だと思うのですが、私は、結婚したら、男の姓でもなく女の姓でもなく、夫婦が考えた全く新しい姓を名乗ってもいいのではないのではないかと考えています。

それこそが、「新しい家族の誕生」でしょうし、「親からの独立」になるのではないのでしょうか。夫婦別姓問題が話し始められた時に、このような意見がどこからも聞こえてこないのはとても不思議でした。なぜなら、別姓の夫婦に子供ができて、たとう場第一子が妻の名字で、第二子が夫の名字を選択したとしたら、今段階では想像もできない弊害が生じるのではないか、という懸念もあります。また、離婚した時の、引き取られる子供の姓はそのままでいいのかという問題も生じます。

何となく、夫婦別姓の方が進歩的な考えであると早合点せずに、もう少し深く考えてみてもいいのではないかと思う次第です。
そもそも、「男女平等」というものはどこまでのことを指すのか、私にはその判断ができません。1970年代、アメリカを中心に起きた「男女平等」のムーブメントの資金提供をしていた団体にはロックフェラー一族も含まれるのですが、なぜそのムーブメントを応援していたか?それは、女性が第一線で仕事をすると、納税者が増えるからなんです。税収入が増えると、国家的な事業を行っているロックフェラー家にもたくさんの金が入ってきます。

ムーブメントの広がりと言うのは、結局そのようなものです。日本においても、女性が多く働くようになって、社会的なスタンスは向上してきていますが、その副産物として、少子化があります。また、企業も、共稼ぎを前提として男性の給料を抑えてもいいだろうという風潮ができていることです。
それは函館のような地方都市に住んでいますと、顕著に実態として感じてしまうのです。その原因として、バブル崩壊・リーマンショックによって男性の給与は抑えられ、賃金が低くても仕事がないよりまだましだ、と低収入に甘んじて、家庭の収入を確保するために女性が(北海道は特に)低い給料で女性が働きに出た、という背景もあります。低い人件費の人材が確保されましたら、男性の賃金は高くなければならない必要は無くなったわけです。

ちょっと最初の話から逸脱しそうになりましたが、元々「家系を守る」という概念が強くて、「実質的に」男性の姓に女性は合わせるということが習慣化していたために長年にわたって続けられてきた制度なのですから、それ自体を取り払って、両家から独立した新しい家族とシンボルとして、佐藤さんと斉藤さんが結婚して鈴木さんを名乗ってもいいのではないかと思うわけです。
そちらの方が大人の「男女平等」の社会ではないのかと思うのですが、いかがでしょうか?
それかいっそのこと、名字そのものを廃止してもいいのかもしれません。どうせマイナンバーで識別されるのですから(笑)

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さて、だいぶ長くなってしまいましたので、もうひとつだけ、深く考えてみた方がいいのではないかと思うのは、今回の日米安保保障条約に関する憲法解釈の件ですが、どうも論点が戦争参加、あるいは、自衛隊が軍隊になるのではという点に支店が行きがちですが、そもそも、日本が有事の際に、応援をするアメリカの戦闘行為というのは、常に正義なのでしょうか?
どういうことかと申しますと、アメリカへの支援を同盟国として実践する前提としては、「どんなことがあろうがアメリカの戦闘に加担したことになるわけであります。

ですが、今の日本の状態ですと、例えば、アメリカとロシアが戦ったとして(もちろん仮の話です)、どう考えても客観的にアメリカが間違った行為を成したとしても、私たち日本はロシアに対して攻撃をしなければならないのです。
つまり、日本には、独自の善悪の判断をする機会を与えられていないということになるわけです。それが本当に独立国でしょうか?今回の安保問題で、自分たちだけは守られる権利があって、相手が困っている時に助けられないのはいかがなものか、という意見を話す人がたくさんいましたが、それは仲間が常に正義の行為を成していなければ成り立たない理屈です。

もし、アメリカが泥棒だったら、私たちも泥棒の一味となるわけです。もしアメリカが単なる人殺しの集団国家だとしたら、私たちも狂った殺人集団にならなければならないのです。

どうして、このような議論が起きて来なかったのか、私には不思議でたまりません。もっともっと深い視点で考え世論にする必要があるのでは、といつも考えているしだいです。


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by jhm-in-hakodate | 2015-12-17 00:53 | 社会・経済について | Trackback | Comments(0)