歴史の中の弁天町

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あまり知られていないことですが、江戸時代から現在まで、函館において(旧亀田村は除く。江戸時代は市街地が全く離れていた。現代で言うと函館市と大沼ぐらい離れた感覚ではないかと想像する)その町名が残っているのは弁天町と大町だけなのです。

どうしてそうなったのかという経緯はわかりませんが、弁天町は江戸から明治に変わっても函館の中心部の役目を持ち、人口が密集する函館でも重要な「街」であった。
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しかし、市電が整備され、市街地が人口増加と共に広がって行くと、賑やかだった弁天町も次第に隙間風を感じるようになった。
私が高校生時代だった昭和50年代初め、太宰治の「斜陽」のような空気が弁天町に漂い始めた。

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函館ドックの仕事終わりに労働者たちがビールを飲んで食べていたホルモン焼き店がいつも間にか閉店していた。市電ドック前にあった食堂が閉鎖され、ドックの従業員は大幅削減され、その時、弁天町から離れて行った家族も多数いたのかもしれない。私は自分が住んでいた弁天町に沈みゆくものにできる影を感じ、直感的に函館を離れたいと考えるようになった。そこで高校を卒業すると札幌に行った。

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ところが、函館に戻り近くをくまなく歩いてみると、良く言えば下町、現実は人口減少が著しい「7過去の街」になっていた。
だが、これは函館の縮図である。歴史ほんの一時期栄えた街は、時間と共に寂しい街へと変身しなければならなくなってしまうように、函館の都市構成が変貌した。
以前に何度か話したが、いつまで経っても、東京の銀座は銀座であり、渋谷は渋谷であり、新宿は新宿であり、青山は青山だ。だから東京はいつまでも東京なのだ。

その市街地の中で、賑やかになる地域が時代と共に変わっているのは、函館がいつまでも函館であるとは限らないという推測を導く。
だから今弁天町、などとは言わないが、、この街が変わるかどうかは、今後の函館の数田を象徴することになるのではないかと思っています。



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by jhm-in-hakodate | 2018-06-16 00:27 | 函館の歴史 | Trackback | Comments(0)