いいもの、いい街

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いいもの、それは多くの人たちに認められたものであるということに疑問を挟む余地はない。
例えば、苦心の末創り上げた、カップに入った即席麺のカップヌードルは、ずっと昔から全国はもちろんのこと、世界中でも食べられている。
かつては札幌市内の、格安だがそれなりにインテリアに馴染む家具を販売していたニトリだが、北海道どころか全国各地に店舗を持つまでになっている。
ここではわかりやすいように高級品ではなく身近にありそうな物を取り上げたが、これらのものは「いいもの」だから世の中に認められ手販売規模が拡大されてきた。

そう、「いいもの」は私たちが意図的でも何でもなく「いいもの」として認め購入している。

では、いい街とは。
先日テレビを見ていたら、京都市街地に全国的には撤退してしまっている「公共ゴミ箱」が観光地の道端に設置されているという。それは大切な観光地をゴミで汚されないようにという京都市の施策であるそうだが、それでも落ちてしまっているゴミは近隣住民が定期的にゴミ拾いをして「ゴミひとつも落ちていない美しい街」として外国人観光客からも驚きの目で見られているようだ。
そこには古代から街並を守り続けていた京都市民の意思を感じざるを得ない。

それに比べて函館は、ひとりひとりが函館の「いいもの」を守るため、あるいは創るために努力しているだろうかという疑問が浮かんでくる。決してゴミのことを指して言っているわけではない。いゃ、西部地区に住んでいない人はわからないかもしれないが、定期的に書く町内会で道端のゴミ拾いを行っているのを何度も見ている。
どうだろうかという疑問はゴミのことではなく、自分たちの街の優れていて誇れるものを守り時代に従って変化させ、いつまでも京都はやっぱり京都あると我々にその姿を誇り高く見せているのに比べて、函館はどうなのだろうか、ということだ。

よくテレビに出る「今でしょう」の林修氏、ある番組で大変参考になる言葉を発してくれた。
「やりたいことをやって上手く行く人はいいが、それはごくわずかの数で、その人がやるべことは、人からこの人はこれが似合っていると言われたことだ」
林修氏も今のようにテレビで有名になる前、ある出版社から「こんなことについて書いてみませんか」と誘われて、本当はそれほど書きたい種類のものではなかったのだが、書いてみたらベストセラーになり、そのシリーズを何冊か出した後、今度こそ自分の書きたかった本を書いたら、彼の出版物で最低の売り上げ部数になったという。

話しはちょっと逸れたが、では函館の「いいもの」とは何だろうか?
それは地元市民が住みやすいと思う街を作り上げたところが、誰もが認める「いい街」なのだろうか?でも、それは林修氏が最も売れなかった出版物と同じようなものなのではないだろうか?
全国や世界から来る観光客が認める「いい函館」はそういうところではないはずだ。いいものを創り出せない街は、自然と衰退してしまう。衰退は大門・西部地区というが著しいと言われているが、私は何度も話しているように、「人を受け容れず、自分たちの目先の便利さに走ってしまっている市民」がその最も大きな原因となっていると考えている。一見便利そうで、周囲に新しい住宅が立ち並び、住みやすそうに見える街は、全国どこの衰退型地方都市にもある定番の風景なのだ。

「いい函館」は、守り・創り出すという相反する行為を同時になってやっとその姿を誇りを持って全国の人たちにお見せできるものではないかと考えている。





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by jhm-in-hakodate | 2019-07-01 00:57 | 函館の現状について | Trackback | Comments(0)
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