入舟町の都会・入舟町の田舎

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函館市民でも入舟町という町があることを知らない人もいるでしょう。名前は知っていてもどこからどこまでかというのも知らない人も数多くいるでしょう。だいたい西部地区は駅前・大門地区から函館山方面だと思っている人もたくさんおります。よく言われていることですが、函館のことを函館市民が一番知らないというのは、あながち誇張とも言えないと思っています。
ちなみに西部地区育ちの西部地区在住者の所見では(おそらく西部地区在住者はみんなそう思っていると思いますが)、十字街付近から函館山麓周辺を西部地区と呼ぶのが通例であると言えます。

と、偉そうなことを申し上げましたが、その西部地区の一角である入舟町に都会と田舎があること(正確にはあったこと)を知りませんでした。これは主に高齢者の間で話されているようです。決して私の私見でも何でもなく、実際に入舟町民の間で交わされている話であるということです。

さて、その入舟町の都会と田舎とはどこのことを指すのでしょうか?正直言ってここからがその境界だということは言えませんが、話されている雰囲気の内容から、入船漁港(正式呼称:函館漁港)からどつく前電停付近までが「入舟町の都会」で通称山背泊あたりが田舎だそうです。
おそらく、明治時代から昭和のある時まで、入船漁港は魚介類の水揚げで大いににぎわっていたのでしょう。そこから当時の函館の中心地であった十字街方面に向かう一番近い街として商業が盛んであったと容易に推測できるわけです。道路もそれなりに整備されていたのも一つの要因かもしれません。ところが、山背泊は知っている方は知っていると思いますが、車がやっと1台走れる程度の狭い道路で、その先は穴澗となっているため、広がりようがなかったのではないかと思います。

そんな理由で、入舟町にも都会と田舎があったのだと言われているのではないかと思います。函館の歴史をある程度知っている方であると、なるほどと頷けると思います。
確かに「入舟町の都会」には、昔商店や問屋であったのではないかという形態の建物が現在もたくさん残っています。

このように、函館は少しだけ顕微鏡的に見るととても面白い街なのですが、それを伝えるべき函館市民がそのことを知らないのが実情です。例えば江戸時代から現在まで消えずに残っている町名が、弁天町と大町だけなのですが、そもそも江戸時代の函館は入舟町・船見町あたりからせいぜい現在の豊川町あたりまでしかなかったのです(かなり大雑把に言っての話です)元々函館山麓には川と呼べる川がなかったため、ほとんど住民が井戸を掘って水を得ていたようですが、開国による人口増加で日本で2番目に上水道の整備がおこなわれたもののそんなに簡単にあちこちまで網羅できずにいたところ、石塚氏が谷地頭に自宅を構えるために井戸を掘ったところ、温泉が出て、それを市に寄付し、ずっと長い間市営温泉として(現在は民間委託していますが)市民のくつろぎの場となっています。

函館の歴史をちょっと調べると、とても面白いことがざくざくと掘り出されます。そんな函館はいくつもの面白い物語が作れそうな街なのですが、顕微鏡を持っている市民がそうそういるわけでないのがとても残念です。と、人のことを言っても仕方ないので、私もちょっと古びた顕微鏡で、また函館を見てみたい、そんなことも考えたりしています。




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by jhm-in-hakodate | 2019-07-03 22:16 | 函館の歴史 | Trackback | Comments(0)
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