切ない街、函館(1)

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実を言うと、若い頃私は函館が嫌いだった。
いつも空気が重苦しく、具体的に何かはわからないが、人の動きをがんじがらめにして止めようとしている気がしていた。そういう空気が街中に溢れていた。
だから、私は自由になりたくて大都市に脱出することにした(と言っても大学進学であったため、脱出させてもらったという方が適切だ)。進学先の札幌では120万人(当時)の中の単なる若者のひとりでしかなかった。それが心地良かった。その自由な環境の中で恋をし、バイトをし、一人で喫茶店で何時間もねばり小説を書いたり、詩を書いたりしていた。
それまで味わったことのない想像力を札幌は与えてくれた。函館にいた時よりも東京をもっと身近に感じさせてくれた。言葉も函館弁から標準語に近く話すようになった。函館に帰省しても、その重っ苦しい空気にすぐ嫌気が差し、都会であり、自由があり、恋人がいる札幌にすぐ帰りたくなった。

だから私はずっと函館を振り返らなかった。ただ実家がそこにある。自分にとってはそれだけの存在だった。その頃の札幌は、都市機能は大都市なみだが、人は田舎者の集まりでお互いその寂しさを埋めるように暖かく接してくれる人が多かった。こんな素晴らしい街はない、といつも思っていた。よく転勤で札幌に赴任し、次の転勤が命令が出たら退職し、そのまま札幌に住み続ける人がいるという話を聞いたが、その人の気持ちがよく分かった。

ところが、あることがきっかけで一度函館(実家)に居を移したことがあった。そして、函館で仕事をしたのだが、勤めた会社は全道に支店があったため、私は札幌転勤をを命じられた。もちろん命令には従い札幌で働いた。ところが個人的な事情があり、その会社を退職して函館に戻った。その後色々な事情によって就いた仕事がまた転勤がある会社で、今度は札幌だけではなく、全国に出張したり転勤したりすることになった。

そのようにして、函館に入ったり出たりしていくうちに、自分の「居所」はどこなのだろうかと真剣に考え始めるようになった。ある時、赴任先のある街で地元採用された社員と話していたら、とても羨ましくなった。彼はあくまで自分が住んでいる町を基準に考えていた。もちろん彼には彼の自浄があったのかもしれないが、ともかく「自分の家がある」という前提で話をしていた。そこは彼の基盤となるものがそこにあるというニュアンスを私に与えてくれるものだった。だから私より年下ながら(見た目もそんなに強そうに見えなかったが)どこか逞しく見えた。それに比べて私には仮の居住地しかない。次の転勤命令が出るまでの一時的な市民という存在。いったい私はどこに居所を見出したらいいのだろうか?心の拠り所を見つけたらいいのだろうか?収入?地位?もちろん家族は付いて回るものなのでそれは大前提として考えてみた。

そして、転勤先の新潟県燕市で働いていた時、この街に住みたいと突然思った。それ以前にも新潟県に転勤した時もその時も、私は新潟県民の県民性にとても惹かれていた。新潟県民はとても優しかった。もちろん例外も新潟県に拘らずどこにでもあるだろうが、大方の新潟県民は物腰が柔らかくのんびりとした雰囲気を持っていた。そういう風貌とは裏腹に、あの「こしひかり」を産み出し、ノーベル賞の晩餐会で使用される金属食器を創り出すほどの技術力があった。街中で見かける人にそのようなものを創り出すようなスーパースターのような光を放っている方は見かけなかった。どこにでもいそうなおじさんたちが日本や世界に誇る優れたものを作っていたのだった。
そられが全て魅力的だった。地味な努力を積み重ねて、いつしかトップに立っている。そんな県民性が好きだった。

新潟県民になりたい。そう妻に告白すると、妻はしばらく考えて私にこう質問した。「いいけど、新潟に骨を埋める覚悟はあるの?」

私は絶句した。正直言ってそこまでは考えていなかった。その時の今の気持ちしか私にはなかった。
ちょうどその頃、私は原因不明の体の痛みを感じ、県立病院に通い精密検査を何度かにわたって受けていた。そのような大規模総合病院は待ち時間が長い。とてつもなく長い。そんな待ち時間の間には見たいか見たくないかに拘らず見てしまう光景がある。それは緊急搬送された老人たちだ。老人たちは身動き一つせず運ばれて行く。息をしているのかどうかもわからない。私の目の前を通り過ぎた後、処置や手術などによって回復できるのか、そのまま息が途絶えてしまうのか、それはわからないし、職員に訊くべきことでもないし、訊いても職員は答えてくれないだろう。
だが、いずれにしてもその老人たちはこの街に骨を埋めるのだろう。そう考えると、私の死に場所はどこがいいのだろう、と考えるようになった。その光景を何度か見ているうちに、自分の「居場所」ではなく、「死に場所」を考えるようになった。しばらくの間何度も考えた。新潟県で死ぬのもそんなに悪くない。だが、やはり死ぬなら北海道がいい。北海道で生まれて多くの時間を北海道で過ごした自分の死に場所はやはり北海道しかない。そう思った時、成すべき営業成績目標を達成させてから上司に北海道に帰してほしいと願い出た。その後しばらくして、その上司から「札幌に新規支店を出すから行ってほしい」という転勤話を持ちかけられた。私はもろ手を上げてその転勤命令を受諾した。

やっと北海道に帰って来た。私はもう二度と北海道から離れないと心に決めていた。もしまた道外への転勤命令が出たら退職しようと心に決めていた。しかし、住民としての基盤はそう簡単にはできない。生活の安定も考えなければならない。次の転勤話ができるまでに札幌での生活基盤ができるだろうか?そんな不安を抱えながら仕事をしていた時、その支店のある事務所の目と鼻のあった、以前に努めていた会社の本社から出て来た昔の上司とばったりあった。もちろん私は覚えていたが、元上司もちゃんと覚えていてくれ、何度か偶然出会っているうちに飲みに行こうかという誘いを受けた。そして何年かぶりに二人で飲んで話をしていたある時点で、元上司は「うちに戻らないか?」と問いかけてくれた。その会社は道外にも支店支社があるけれど、可能性としては道内の転勤の方が高い会社だった。そして自分もそろそろいい歳になったために、社風を知っているところの方が安心だった。私は二つ返事で再入社のお願いをした。

すべからず私はその会社に再就職し本社勤務となった。以前社員だったとしても当然また入社手続きをしなければならなかった。その手続きの中には、どこの会社にでもあると思うが身元保証人になってもらう人が必要だった。そんなことは実の親にしか頼めないのだが色々な事情があり、5~6年間親とは会っていないどころか連絡もしていなかった。しかし入社するためには親に保証人になってもらう必要がある。
私は意を決して実家のある函館に向かった。久し振りに見た函館はやはり重苦しかった。それは、昔と何ら変わらない嫌いな函館であった。

つづく





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by jhm-in-hakodate | 2020-01-16 23:35 | 函館の歴史 | Trackback | Comments(0)