2010年 06月 04日 ( 1 )

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松前・法幢寺。

仏像の顔を見てあなたはどんな感覚になるだろうか?
ある人は慈愛に満ちた優しい顔に見えるだろう。ある人は薄笑いをしているようで気持ち悪いと見えるだろう。また、ある人は何を考えているかわからないようで嫌だと思うだろう。心が落ち着くという人もいるだろう。
実はこれが仏像の特徴なのだ。見る人によって全く感じ方が異なる。それが仏像だ。

仏教上ではどのように説明されているかはわからないが、これは勝手に自分で解釈した論理である。

なぜ見る人によって違うのか?それは仏像の表情が「無」を表すものだからだ。無、即ちゼロである。プラスでもなければマイナスでもない。例えばゼロを基準とすると、笑顔はゼロ以外の方向にベクトルが向かう。笑顔が好きな人は相対的に仏像の表情は暗いと感じる。逆に悩みなどを抱えて落ち込んでいる時、ベクトルはそちらの方向に向いているから相対的に仏像は慈悲深いと感じる。

つまり、人間の何らかの感情には必ず心理上のベクトルが作用しているため、どちらのベクトルに向かっても「無」はそのベクトルと相反的に映るのだ。だからその人の性格や心理的状態によって見え方が変わるという結論になる。

そうそう、大事な大前提を忘れていた。ご存知の通り、仏教の究極的真理は「無」であり、仏像はその教えをビジュアル化したものであると私は捉えている。
また、その「無」は相対性が無くなった状態のことだと思っている。つまり、プラスマイナスゼロである。

仏教はその相対性の無さでベクトルを持った思想に押され、世界中に広まることができなかったと思う。「無」とは誰かに押されたらそのままその力を受けて後ずさりするものだ。それが「無」の特性だ。押されて堪えるためには押された方向とは反対の方向に「有」の力を持たなければならない。その時点でもう「無」ではなくなる。

何かややっこしいことを述べてしまったが、結局言いたかったことは仏像が表現している「無」と相対性はとても関係があるのだ、ということです。また、機会を作ってこの関連性について述べたい。