2010年 11月 09日 ( 1 )

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電車通あたりから見上げた八幡坂。

先日、同い年の友人が死んだ時、東京にいる友人にも訃報を知らせた。通夜が終わり、落ち着いてからその友人へ通夜の報告をした。その時彼から出た話が「リタイアしたら函館に戻りたい」ということだった。
彼は高校時代の同級生で、高校卒業後のほとんどを東京で過ごした人間だった。結婚も関東の女性とした。墓も函館から関東に移した。本人は完全に東京に骨を埋めるつもりだったはずだ。

だが、同級生の死を知り、自分の死についても考えさせられたのだった。その時、たいして好きでもない街で老後をあくせく過ごして死ぬより、函館で老後を楽しみ死んで行きたいと言った。
その気持ちは痛いほどわかった。私自身がそのために函館に戻って来た人間だからだ。私は40代からそう考えていた。それは、当時転勤族であったことに起因する。

約10年程前、私は転勤で新潟県に住んでいた。その頃ある原因不明の症状に時折襲われていた。普通に仕事や生活をしていると突然喉にまるで硬い金属の棒を押し込まれたような痛みが発生し、その痛みがすっと胃へ下りて来る。つまり上半身の半分に金属棒が入り込んだような状態になることが年に1~2回襲って来たのだった。
その時は、声を出すのはもちろんのこと、息をするのも困難に感じる程の苦しみを覚えた。対応策は、そのままじっと安静にすることだった。10分もすれば普通に息をすることができるようになり、無理をすれば仕事も再開できる。
だが、最初の1~2分は本当にこのまま息ができずに死んでしまうのではないかと思えるほどの苦しみだった。その突然の痛みが襲うのが何年か続いた。たまたま胸の調子も芳しくなく、一度病院で診てもらおうと思って近くの検査設備の整った総合病院にかかった。

病院はいつも混んでいた。1時間待ちなどは短い方だった。長い時で2時間半待ったこともある。その間に緊急患者として救急車で多くの老人が運ばれて来た。その多くが意識があるのかないのかわからないような状態であった。
その様子を見、自分の人生の半分はもうとっくに過ぎたのだ、これからはあのような老人となる方向へ確実に向かって行くだけだと自覚した。これは誰にも否定できないことだ。

新潟の人はいい人ばかりだった。素朴ではあるが内に秘めた自尊心と仲間を大切にする連帯意識は北海道にないものであった。二度目の新潟県転勤で、その良さはここにずっと住んでもいいと思わせるほどのものだった。
そして、本当にそのまま住み続けようと真剣に考えるようになった。転勤が至上命令である会社を辞め、新たな仕事を探そうと職安で求人情報を収集したり、借り上げ社宅をでるためにアパートを探したりもした。
そんなある時、妻に「ここに住むのならここで死ぬ覚悟にならなければいけない」と言われた。妻は安易に考えるなというつもりで言ったのだろうが、その言葉は深く考えさせられた。

死に場所として新潟県を選ぶのか?そのことについてだ。
新潟は確かにたまらなく好きだ。だが、本当に年老いて悔いなく死んで行けるかとなると、答えは違ってくる。その場所は北海道でなくてはならない。同じくらいの年数を過ごした札幌か函館だ。新潟県永住はそこで留まった。

たまたま新潟の次は札幌と転勤先が決まった。その時にもう北海道は離れないと心に決めた。その後苫小牧へ移った時、自分が死ぬ場所は函館でなければならないと気付いた。一番想いが詰っている街、函館で老後を過ごしそのまま死へと至るべきだと。

東京の友人も私もそうだが、心の深いところで死という事実を直視した時、究極の選択をすることになる。

人生とは死に場所を探す旅なのだと思う。