2010年 11月 20日 ( 1 )

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旧亀井邸。リフォーム工事中に撮影。

それは今から15年前後の以前の経験だった。
その頃、私は釣りを好んでいた。釣りと言っても渓流釣りの方だ。元々海よりも山が好きであったし、また、海の魚より川魚の方が好きであったので、自然と川釣りに行くようになった。当初は妻も一緒に行っていたが、飽きてきたのと虫が体の周りを飛ぶのを嫌い、いつの間にか私一人で行くようになった。

そんなある時、上ノ国町のある川で釣りをしていた時のことだった。周囲には誰もおらず、車もほとんど通らない、本当に「自然」そのものの中に私はいた。
天気も良く、風も程好く、自然の中に佇むには打ってつけの状態だった。ところが、肝心の釣果の方は全くなかった。ただ釣り糸を垂れている時間が長く続いた。それでもその日は心地良かった。釣れなくても気にならなかった。自然の中で休日のひとときを過ごすだけでも満足していた。

そんな時、私の中に奇妙な感覚を覚えた。
目には穏やかに流れる川と河原とその周りを囲んでいる草木と山と青空が見えた。耳には葉が擦れ合う音と水の流れと時折の鳥の鳴き声が聞こえた。鼻には市街地では味わえないきれいな空気の匂いを感じていた。
だが、それだけだった。私が自覚できたのはその感覚だけだった。

ずっと河原に立っている自分の足の感覚、釣竿をずっと持っている腕や手の感覚、ずっと同じ姿勢で凝るはずの肩の感覚、腹が減っているのか大丈夫なのか小便をしたいのかどうなのかという胴体の感覚、それらが全く感じなくなったのだ。
つまり、私にとって、そこに存在しているのは、首から上の部分だけで、感覚的にはその下の体は消えていたのだった。とても不思議な感覚だった。自分が人間ではなくなったかのようであった。体という物体が喪失して、感覚だけが残った、そんな感じだった。

それは自分が透明になって自然というもののちょっとした一部分になったと思える感覚だった。とても心地良かった。苦痛は何もなく、ただ穏やかな時間だけがゆっくりと過ぎていった。と言うより、時間という感覚すらもなくなったという方が正しいだろう。
そんな状態の中、あることが頭によぎった。

「人間には、自然から得た食べ物と体を守る家があれば金なんか必要ないのではないか」

自然にそんな想いが浮かび上がった。山の中だから金なんか使えないからというわけではなかった。この自然の中では金というひとつの価値基準が不必要だと思えたのだった。
人間が勝手に決めた価値基準に振り回されているのが異常に思えた。私の周囲にある川の水や石や土や空気や木々のようにただ存在していればいいのだ。それ以上の意味はない。

もちろん、それはその場限り感覚であることはわかっていた。家に帰れば普通の生活として、販売されている食糧やガソリンやありとあらゆる物が必要となる。それらを入手するためには金が必要だ。それから逃げることはできない。わかっている。わかっている。

だがその時は本当に金という価値が自分の中では無くなったのだった。

本当に不思議な体験だった。この奇妙な体験をある人に話した。するとその人も似たような経験をしたことがあると言った。私だけの特別な体験ではなかったのだ。

どちらが人間の本質なのか、いまだに私はわからない。もし、この体験に興味を持ち、同じようなことを感じることができた人がいたら、是非教えて欲しい。人間はやはり自然の中の一部なのか、あるいは自然と一体になった営みを行っていない異物なのか。